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お千鶴さん事件帖「結晶」第四話①/3 無料試し読み

 橋蔵は米と大根を包んだ大きな風呂敷をかかえ、今しがた降り出した冷たい雨の昼下がりを小走りに駆けた。
角を曲がると、「よいしょ」と荷を下ろし団子屋の軒先で濡れないように風呂敷包みの結び目を硬く結い直す。店は込み合って賑やかな談笑が聞こえた。
 憎らしそうに天を見上げ、仕方なく小降りになるのを待つことにした。
橋蔵の住む六軒堀長屋から北の堅川を渡ってすぐのところに、相生町二丁目長屋があり、もう目と鼻の先に来ている。
 その裏長屋の一軒では十人を越える子供たちが共に暮らしていた。上は十二歳から下は四歳まで、男子も女子もいる。細いのや太ったの、気難しいのやのんびりしたの、様々だったが、どの子にも二親がいないことだけが同じだった。
 最初は、ほんの二人から始まった。それが噂になり、捨て子や親を亡くした子が方々から連れてこられて増えていった。
 橋蔵もちょくちょく世話をやきにいくが、近所の者たちもけっして放ってはおかなかった。
 日々の金子には困るが人の情けに厚いのが深川っ子だ。それになによりも、この子らが皆よく働く。男子は米や野菜の荷担ぎ、魚や貝を売るもの、女子は近所の子守りやら、洗濯を請け負う。お互いに規律のようなものを作り、寄せ集めたものを分け合いながら暮らしていた。
 血は繋がらずとも、同じ匂いを互いに感じ取っているのかもしれない。時々は派手に喧嘩の取っ組み合いもしている。それでも、なんとか折り合いをつけて大人には分からない約束事をうまく働かせながらまとめあげているのは見事だとしか言いようがない。
 橋蔵は彼らがかわいくて仕方がないのだ。腹をすかせてはいないか、体の具合を悪くしてはいないか、困っていることはないのか、と心配の方もきりがない。
 弥勒寺からの時の鐘の音を聞いたときだった。
 振り返ると、これから向かう家の元住人であった徳三が小走りに駆けて来た。
「徳じゃあねえか! どうした?」
上ずった声をあげた。
「親分、てえへんだ。さっき、人が死んでいるのを見ちまった。駕籠から飛び出してきたので突き当りそうになったんです。驚いたのなんのって……」
 と途切れがちに駕籠の居た所を叫びながら示したものの、急いで去って行こうとした。
「わかった、そっちに行く。後で長屋にも寄るから」
 と言うが早いか、持ってきた包みを徳三に手渡し双方とも別々の方角に駆け出した。
 雨は小降りになっていた。このところ、ぐずぐずした秋の長雨が続いている。ぬかるみから跳ね上がる泥で足元はひどく汚れた。
 事件の場は、女房の千鶴の実家の近くだった。育ての父親は、本所石原新町で庭師の棟梁をしている。愛想は無いが、ああ見えて親切で信頼できる人物だと見ていた。
 息を切らしてたどり着いた。
 すると、少々腹黒いと常日頃感じている同心の片岡に見つけられ、いきなり怒鳴られた。
「いったい何をしているんだ! 手下がこれだからな、檜山さんも暢気なもんだぜ。まだ来ないしなあ」
 橋蔵は、片岡と同じ同心という身分の檜山に仕えている。
「すいやせん」と曇った声で謝った。
「あの小僧、徳三を連れてこい。下手人を隠し立てすると為にならんぞ」
 橋蔵は胸ぐらを掴まれ、片岡が凄んだ。
 何のことかさっぱりわからないで、されるがままになっていた。
 下手人ではない、通りがかっただけだろう? 一体全体どうなっているのか声も出せずに、目だけをいっぱいに見開いた。
 渦中の駕籠と共に、駕籠かき二人も留め置かれていた。素肌に茶縦じまの木綿一枚という同じ様な、なりをした相棒達だ。
 檜山が、しばらくたってから到着した。片岡から嫌味とともに、事件のあらましをとっくりと聞かされていた。
 それをかいつまんで、橋蔵に伝える。
「着きやしたぜ」と、駕籠を止め、後棒の駕籠かきが中の客に声をかけた。すると客が前のめりに急に出たように見えたということだ。具合でも悪くしたのかと、あわてて駆け寄ると、背中から血が流れていたという。
 止まった時、若い男が血相変えて女に突き当たったのがいたからそいつがやったに違えねえって訴えているとのことだった。その後も逃げるように去って行ったのがいかにも怪しいと。それが、徳三だったのだ。
 まずい、確かにあいつはあわてていたな、と気をもみながらも橋蔵は仏さんに真っ先に近寄った。死体に慣れているはずなのに、このときばかりは目をそらした。女は身重の体であることが露わに見て取れたからだった。
 片岡は既に仏さんの名は静で、牛御前社隣の小料理屋のおかみであることをつきとめていた。
「うちの岡っ引が、もう下手人を取り抑えているはずだ」
 と、言うので振り返ると得意げな表情を見せる。
「どういうことでしょうか?」
 気の弱い檜山が片岡の言い分に珍しく食い下がっていた。
 その後二人が道の脇に留めてある駕籠の中を調べに行った時、揃って「あっ」と声を上げるのを背中で聞いた。しかし橋蔵は、またもや相生町に駆け戻るために走り出していた。健脚でもさすがに堪える。
 よろよろしながら子らのいる長屋の暮らしの匂いがする辺りまで駆けつけるなり、尋常でない叫び声が聞こえてきた。
「俺は、なんにもやっちゃあ、いねえです」
 片岡の配下の岡っ引である孝介が徳三をしょっ引いていくところだった。手には包丁らしきものを手ぬぐいに包んで押収していた。
「訳を話せばわかるはずだ。待ってくれ」
 橋蔵が取りなそうとするが、孝介は全く聞く耳をもたない。
「間違えなんだよ! 刺されたのは背中だ、前から突き当たったんだから。この者にはできねえよ」
と、叫ぶ橋蔵の話も聞かない。
「橋蔵親分、助けてください。あわててあの場を去ったのは逃げたんじゃない。おみよ坊が具合を悪くして寝ているもんだから、急いでただけです。熱があるんだ、オレがいなくちゃあ。すみませんが親分、おみよ坊を頼みます」
 と、情けない声で橋蔵にすがるような目を向けた。おみよは、同じ家の末っ子で四歳の女の子だ。必ず面倒をみるからなと、目で合図した。徳三は縛られた両手を引っ張られ、再び悲鳴を上げる声を最後に目の前を連れていかれてしまった。
 橋蔵は身内のことですっかり動転していた。おみよは生まれてまもなく、この長屋の前に捨てられていた。見るからに小さな赤子で、ひ弱な声で泣いていた。そのおみよを一番に、かいがいしく世話を焼いていたのが徳三だ。己のことよりも、さぞかし心配していることだろう。
 ひでえ間違いだ! と、胸の中で叫んだが手をこまねいて見ているよりしょうがなかった。
 がっくりと肩を落としながらも、事件の場にまた戻ろうと踵を返した。こうなったら、本当の下手人を捕まえるしかないと思わず拳を握り締めていた。
 息を切らし檜山を探し出し、さっそく知っている限りのことを声高に訴えた。ふんふんと頷いた後、檜山が静かに答えた。
「単なる殺傷事件だ、と駕籠かき相棒が口を揃えていましたね。しかし、本当のところは解せないのです……。徳ちゃんが運悪く、四つ角のあの場にいたものだから、可哀想だがつかまってしまったというところでしょう。家の包丁は押収しているでしょうね。血糊の跡や、ふき取った気配が微塵も無いことは、じきにわかるはず」
「では、徳三は放免されますよね。それだけが心配で。それにしても、ただの町人の女をなぜ狙ったのでしょうか? 試し切りにしちゃあ、白昼堂々」
「背中から心の臓に達する深い一撃による刺し傷が致命傷。凶器は辺りには無い。着衣の乱れはなかったが、両手首に縛られた跡があったのが妙と言えば妙。殺められる前にさらわれたのか? 徳ちゃんに関しては、前から、つんのめったのなら、この傷を負わせられないでしょう」
「ここら辺りで、他の者を見たものがあるでしょうから聞き込みに行ってきましょうか。徳の他に、背後に怪しいのがいたはずだ」
「そこが、謎なのです。いつどこで刺されたのか皆目わからない」
「へっ? 駕籠から仏さんが降りたときじゃあねえんで?」
「血が駕籠の内側に張り付いていました。ただ、出血量が少なすぎるのも解せない」
 橋蔵はしまったと胸の中でつぶやく。ちらりと仏さんを見た時には女房のことを思い出し、同心方にはすぐに気づいた血の痕跡が見えなかったのだ。そうだ、あの時の二人の驚きように合点がいった。
 橋蔵がいない間にここに待たせてあった駕籠かき二人に話を聞いていた檜山がさらに尋ねたようだった。
「駕籠かき二人に、もう一度念を押してみたのです。言われていた所に止めたところ、急に客が出たと言っていたというのは本当かと確かめたら、そう見えたと。すると、近くにいた者が下手人だと思うのは当然ですねえ。駕籠で運んでいる際中にまさか刺されたとは考えない。そりゃあそうでしょう、駕籠かきが気づかないはずがない。少なくとも後棒は怪しい奴が近づけばすぐにわかるわけで。駕籠の中の客は生きているものだと思いこんでいるでしょう。」
「急に駕籠が止まったはずみで転がって出たってのが本当のところってえこと?」
「はい、四つ角に着く前に絶命していた」
「駕籠の中におかみさん以外の小柄な下手人が乗っていたんじゃあ?」
「女と小さな子ぐらいなら乗れるかもしれませんが。止まったときには他の者はいませんでした。二人の駕籠かきは、途中で重さが変わったとは思わないと申し立てています。重みの勘はもちろんのこと、後棒が同様に駕籠から逃げる下手人を見るはずでしょう? それもないわけで」
「職の勘ってものは確かなもんです。それなら、簡単じゃあねえんですか? 最初から死んでいたんじゃあねえですかい?」
「いや。幽霊じゃなく足もちゃんとある身重の女が、行き先をはっきりと伝えたらしい。その後二人とも薄縁を開けて駕籠に入っていく女を見ているそうです。面白いことを言っていましたよ。初めて駕籠に乗った客だと。駕籠に慣れた客は尻からにじり入るんだが、仏さんは頭から入ったそうですよ。よく見ているでしょう?」
「客の足元を見るってえのが、商いのコツ」
「『四つ手駕籠 上手に乗ると 貧乏し』 この前見つけた、川柳がよくできているでしょう?」
「面白い。おかみさんの店は鯉こくがめっぽううめえっていう評判の店ですが、そんなに贅沢はできないでしょうよ」
「その人が駕籠の中で亡くなっていた。病ではなくて、誰かに刺されていた」
「聞けば聞くほど、わけがわかりませんぜ。謎の事件だ」
「仏さんは、紙のきれっぱしを握っていましてね、引きちぎられていて、残りはわずかですが、そこに、『こい』という文字が読めましたよ」
「鯉を仕入れる覚書なわけはないでしょう。来い、と呼び出された文でしょう? 旦那」
 頭を抱え込んだ橋蔵がふと思い出したように付け加えた。
「ははん、わかりやした。両脇と前後は筵の薄縁が下がっているが、角は薄く開いてる。駕籠かきは杖棒を持っています。あれの先に刀を仕込んで後棒の奴が後ろからぐさりとやったんじゃあないでしょうか? 走っている間だと、後棒しかできませんでしょう」
 四つ手駕籠は軽い竹の骨からできていて、前後、左右に薄縁が掛けられている簡素なものだ。ただ前後の駕籠かきが担ぐ長柄は樫の二寸角一本棒で頑丈に出来ている。
 駕籠かきの者たちは、たいていは大柄で屈強な男達だった。別名四ツ手や六尺などとも呼ばれる。
 それぞれ息杖という長い棒を手にしている。長柄を息杖で支えて、駕籠を地面につけることなく休むことができる便利な道具だった。
「橋蔵親分、すごいお手柄かもしれません。今は、二人を返してしまいましたが、よく張り込みましょう。凶器を持っていたのかもしれません」
「千鶴にはこのことは内緒にしておきますぜ。酷すぎるから。瓦版は面白おかしく書き立てるにちげえねえが、読まさないようにさせなくっちゃ」
「お千鶴さんの実家が隣なので、親分そちらの聞き込みの方もよろしく頼みますよ。さきほど、ちらりと騒ぎを聞きつけたのか、お父上の源太さんが顔を出しなすった。いつもさほど愛想がいい人ではないが、今日は特別苦い表情で様子を伺っていらした。隣のおかみさんの事件だから、何か知っていらっしゃるのかもしれません」
「承知しやした」
 橋蔵の心配がまたもや増えた。

     (一)
 
 今朝は心なしか空気が一段と冷えてきたように感じた。布団を抜け出して、共同井戸まで向かうのに鳥肌が立った。そろそろ衣替えかもしれない。
深川の秋風は、いくつもの堀を渡り、狭い路地を吹き渡る。とうとう六軒掘の我が家の扉をたたいたようだった。
 千鶴は日に一度炊く朝飯のための水を運んでから表通りに出た。
長屋の前はちょうど六軒堀と弥勒寺堀が二股に分かれている。浅い流れは朝陽を受けてまぶしいばかりに輝いていた。
 堀の水は澱みなく流れ、ちろちろと心地よい音をいつも立てている。
胸いっぱいに息を吸い、ためた空気を思い切り吐き出す。この験担ぎの日課は、はずせない。勝手場に戻り火を熾す。次第に飯の炊けるいい匂いが辺りにただよい始める。隣の七輪であじの干物を焼く。夫、橋蔵の好物で、元気をつけてもらわねばと思った。
 支度を整えて、寝間にいる橋蔵の寝顔をさっと見ると、気持ち良さげに眠っている。もう少し寝かせておこうと気が変わり、北側の部屋の茶の間に座った。流行りの草双紙に手を伸ばし、少し読んだが頭に入らない。
 昨夜の橋蔵はとても塞ぎこんでいた。たぶん寝付かれなかったに違いない。千鶴は深く尋ねないでそっとしておいた。本業の髪結いで、悩みなど考えられない。岡っ引の務めの方で何かしくじったのではないかと案じていた。
 座ったまま首だけ振り返り、ぼんやりと小さな庭を見渡してみる。
庭の柿の実はまだ青い。
 下駄に履き替えて庭に立つと千鶴の目の高さからは高すぎて見逃すような枝先だ。近くから、かじりついてばかりいてはいけないなと戒める。
橋蔵とどちらが先に赤い実を見つけるかを毎年競っているのだ。去年の今頃は、体調が思わしくなく不覚にも橋蔵に遅れを取った。
「オレの方が風流の心があるにちげえねえ」
 と、去年の橋蔵のしたり顔を思い起こす。風流なのか、食い気なのかは定かでない。
 でも今年は勝てるかも、と千鶴は頬を緩ませた。赤くなりそうなものをいくつか見繕った。
 千鶴の住む裏長屋から東側の堀を越えてすぐ前の長桂寺の鐘が朝五つ(七時半頃)を知らせた。
 橋蔵はまだ眠っているが、今日は大事な日なのだ。
 知り合いの由が近所に引っ越してくる。由とは先だっての事件で知り合って以来、親しく付き合うようになっていた。
 手伝いに行きたいのだが、とまだ考えている。
 由の代々受け継いだ老舗の身代はたいへんな額の借金があったが、店をすっきりと売りさえすれば返金は済むはずだと見積もったようだった。
 先月由の母松が亡くなり、店もその頃売り終えた。長年の店子たちに相当額の金子を分け与えても、十分に余生をすごす程度のものが残ったらしい。  日数はかかったが、これでようやく終えたのだ。金銭の心労が和らぎ、母を亡くした痛手を少しづつ乗り越えると由の体の不調は今までになく良くなってきた。
「その元手で、小さな家を表通りにでも構えれば」
 家捜しの相談を受けた千鶴がそう答えた。大店の娘が長屋暮らしにまで身を落とさずとも蓄えがあるだろうに、と思ったからだ。由を貧乏知らずのおかみさんであると少しみくびっている。
「いいの。一人だしね、裏長屋がいいかなって考えていますの。狭くてもいいのですから」
 と、けろっとして言った。本当はどんなところなのか見たこともないに違いないと思い、いくつか近場を見せてまわった。するとやはり狭くても「小奇麗な」裏長屋住まいというものは無いということが徐々にわかってきたようだった。
 しばらくして表通りに面したそこそこの住居に空きができたためにこの度の引越しとなったわけだ。
 どんな家に決めたのか、訪れるのを楽しみにしていた。
 千鶴は、引越しの手伝いをやはり断念する。今朝一番は調子が良かったのに、ここのところ体が熱っぽく、眠いようなけだるいような体をもてあましていた。身ごもったのだ。つい先日、両親に告げに行ったばかりだった。ご近所にはあっという間に噂が広まった。
 朝げの支度だけを済ませて、一息ついていると寝間でごそごそとし始めた橋蔵に気付いた。
「ああ、無理をしちゃあ駄目だぞ、しまった、水をくんだだろ。お由さんの引越しも挨拶程度にしておくんだ、わかっているだろうけど。大事な子を授かって何か事があったらていへんだ。お由さんに、ちゃんと断ってな」
 茶の間の襖を開けながら、気がかりでたまらないらしく強い調子で言った。橋蔵は以前にも増して、かいがいしく千鶴を気遣いながら、箱膳の前に座ると自分で飯をよそおうとする。
「それくらいはできますって。病気じゃありませんから」と、笑って千鶴は茶碗を取り上げる。
 昼前になってから、祝いの膳を持って由の新居を訪ねた。
 かつての店の者に慕われていたようで、若い衆が三人ほど来て手伝ってくれていたようだった。
 家の前は既に塵一つ無く掃き清められていた。綺麗好きの由の人柄が出ている。
 引戸を開けた先の土間はたいへん広くて、ここで小商いをしていたことがわかる。由は手習いを教えるつもりらしい。寝間とは別に客間が二つもあるとのことだった。
 茶の間まで顔を出して挨拶した。
「お由さん、手伝えなくてすみません」
「いいのよ、お千鶴さん。大丈夫? 体の具合は?」
「はい、とても順調です。煮しめと、鯛の塩焼きを持ってきましたからお昼にしましょう。お手伝いの方々も、どうぞ、お休みくださいな」
「上がってくださいね。ゆっくり無理しないで。待望の赤子ですもの。調子さえ良ければ、新居の座敷を見て回ってくださいな」
 千鶴はそろそろと上がりカマチから畳の間に入る。
「一人小さな子が生まれるはずなのに、三人分のめかたが増えそう。体を動かすためにも、広い立派な家を後でじっくり見せてもらうわ」
 有難う、と笑いながら付け加えて、持参した風呂敷包みを開けた。煮物の醤油の香りが広がる。手伝いの若い衆も、歓声を上げて集まって来た。
「ちょうど、腹が減って」と、口々に言った。
 由がたまたま最初に手を出した煮しめのイモを小さく割って食するなり、
「まずい」と、叫んで猛然と流し場まで走り去った。皆が箸の手を止めて苦しげに吐き出している様子の声に聞き耳をたてる。
「ごめんなさい、お口に合わなかったのかしら……」
 千鶴は由の具合に驚きつつも、「変ね」と、うろたえた。どれ、自分でも味見をしようと手を伸ばしたとき、由が大声を出して振り返った。
「いけません、毒ですよ。これは大量のトリカブト」
 由は厳しい表情ではっきりと言った。
 薬師問屋の娘であることが役に立ったのだ。普段は心の臓の薬として使われているぐらいで、少量なら問題は無いのだが、これは尋常でない量ということか。
 つまり毒殺? 若い衆の表情も一瞬に強張った。
「どうして、毒が? ごめんなさい。私が入れたわけじゃありませんよ、もちろん。訳がわかりません」
 千鶴は毒を飲みこんでなどいないのに、のどが締め付けられるような息苦しさを感じた。
「お三方も気を悪くなさらないで、これでおそばでも食べに行ってくださいな」と、千鶴は拝むように謝って、若い衆に金子を手渡した。
「そんな。お千鶴さん、お気遣い無く」
若い衆と由が同時に返答した。
「また改めて御礼は私の方からしますので、今日はひとまずお引取りくださいね。このことはくれぐれも他言されませんように」
 由はそう口止めをして、若い衆を引き上げさせた。
 千鶴からの金子を申し訳なさそうに受け取り、「お気をつけなさって」「大事は無さそうですが、念のためにも、お医者に見てもらってくだせえ」「遠慮なく頂きますが、くれぐれも用心してください」と口々に言ってから立ち上がった。
 千鶴が皆を見送った後、辺りをよく見まわして腰高障子をきっちりと閉めた。それから何事も無かったかのようにシンと静まる土間に入り、ひそひそ声で話し始めた。
「どういうことかしら? なぜ毒が? わたしを狙ったのでしょう? 何のために?」
 千鶴は居間に上がり、由の側ににじり寄る。背筋がやけに冷たく感じる。
「また、私が狙われたとしたら、笑えない冗談ね」
 由はいくらか余裕を見せて首をひねる。以前にあった事件のことを思い出しているのだ。
「とりあえず、寛西先生の飼いネズミに後で調べてもらいますから。ごめんなさい。お祝いの席にケチをつけてしまって、本当にごめんなさいね。いったいぜんたい、どうしたことか」
「お千鶴さんのせいでないことはわかっていますよ。それよりもたいへんな事件……あなたが狙われたのだとしたら、許せない仕業。あの、お煮しめはお千鶴さんがこしらえたものでしょう?」
 なぜか、千鶴はトリカブト入りの煮しめの大鉢を抱きしめていて、それを少し持ち上げた。
「これは違うんです。昨日実家でもらってきたものです。母が長年奉公していた山谷藩の知り合いが私の祝いにと、送って寄越したそうなのです。それから家にもって帰り、勝手場においておいたもの。いつ誰が? 疑いたくはないけれども、実家には仕事柄使用人がたくさんいて、疑い出したらきりがありません。持ち帰ってから、うちのお勝手場に置いていたのですから、これも留守を狙っていれば、毒を入れることは容易いことでしょう。けれど今、子を死なせるようなことがあっては、橋蔵さんに顔向けができない」
 千鶴は今にも泣きだしそうになった。
「心配ねえ。それにしても、なぜ?」
 由は眉間にシワを寄せ考え込んでいる。千鶴は大鉢を憎らし気にまじまじと見つめた。
「わかりません。口にするものは、今まで以上に気をつけます」
 言い終わらないうちに、扉がザッと勢いよく開かれる音と共に、
「千鶴とやらはいるか?」という、低く、しゃがれた男の声を耳にした。
 千鶴が、
「はい、わたしですが……」と、振り返るやいなや鈍く光る刀の輝きが真っ先に目に飛び込んできた。
 とっさに仰け反る。
 手ぬぐいで、頬かむりした浪人風の男が一人押し入ってきたのだ。
手には刀を抜いており、千鶴めがけて駆け寄った。身のこなしが異様に軽く黒い狼のように見える。
「えいっ」っと、持っていた大鉢を千鶴は、力任せに賊に投げつけた。額に命中したところまでは見た。
「キャー」
 悲鳴というものを悪夢以外で初めてあげたように思う。由と同時にあげた声は、再び千鶴の耳に舞い戻り恐ろしさを倍にした。
 これ以上早くは身を翻せないというほどの勢いで体をねじりお腹を守った。この際、自分の首を刎ねられてもかまわないとばかりに肝がすわり、宿ったばかりのわが子のことだけを真っ先に考えていた。
 それでも千鶴を名指ししたが、由の身だって危ない! その脅えた目で凍り付く体を抱きしめ、あらん限りの力で賊をにらみ返した。
 すると賊は、眉に張り付いた煮しめの昆布を払い、ゆっくりと体を立て直し近づいてくる。逃げる術もなく、もうこれまでかと弱気になり目をふせたとき橋蔵の顔がくっきりと頭に浮かんだ。
 次の刹那だ。
 気配を感じ見上げると目の前に別の侍の背中があった。
 ーーこれは、誰?
 よく見知っている背中なのに思い出せない。
千鶴と由の手を取り、茶の間の奥へと後ずさりさせ、気を確かに持てとばかりに、うんと頷いた姿のなんと心強いことかと呆気にとられた。
 その顔は、なんと檜山だった。
 煮しめまみれの賊を煽り、土間へと導く勇ましい姿を初めて目の当たりにしたのだ。

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