仙台藩2代藩主 伊達忠宗は独眼竜政宗に劣らぬ名君だった!
【目次】
1.はじめに
2.2代藩主 忠宗の生涯
3.守成の名君
4.おわりに
1. はじめに
宮城県牡鹿半島の付け根に万石浦と呼ばれる汽水湖が広がる。江戸時代には塩田が作られて仙台藩の財政に貢献した。現在では北岸をJR石巻線がとおり、湖面には牡蠣の養殖筏が浮かんでいる。この名は仙台藩2代藩主伊達忠宗が鹿狩りにこの地に来た際に「ここを干拓すれば1万石の米が取れるだろう」と言ったことに由来すると伝わる。
藩祖伊達政宗は三日月型の兜や右目の黒い眼帯(実際は眼帯は付けてはいなかった!)、更には派手な「伊達者」としてのパフォーマンスなど、かっこいい雄姿を思い浮かべることだろう。しかし、仙台藩を継いだ忠宗については、多くの人にとってその名前すら浮かばないのではなかろうか。今回は2代藩主忠宗に焦点をあてて、父政宗の影に隠れて埋もれがちなその個性に着目して、江戸初期を逞しく生き抜いた彼の素顔に迫ってみたいと思う。
2. 2代藩主忠宗の生涯
それでは忠宗の生涯をざっと辿って行くことにしよう。忠宗は政宗と正室愛姫(めごひめ)の間に慶長4(1600)年 12月、大坂城下で誕生した。姉に五郎八姫(いろはひめ)、異母兄に伊達秀宗がいる。徳川家康の5女・市姫と婚約していたが、夭折したため、池田輝政の娘(家康の孫娘)の振姫が徳川秀忠の養女として嫁いだ。
大坂冬の陣ののち兄秀宗は伊予宇和島に10万石を与えられたので、忠宗が正式に宗家の後継者となった。政宗は死ぬまで藩主の地位に留まったので、家督を相続したのはその死(1636年)まで待たねばならなかった。
姉の五郎八姫(いろはひめ)が嫁いだ家康の6男松平忠輝の改易や、政宗の母の実家である出羽最上家の改易など、伊達家は徳川から常にその動向を警戒されており、油断はならなかった。このため、政宗は藩主を降りることはなかったのである。
彼は派手な父とは異なり謹厳実直で穏やかな人物であったとされる。父の死後、藩主として初めてのお国入りをすると、藩上層部の入れ替えを行い、新たな指導部を編成した。各種改革を実行し仙台藩の基盤固めを積極的に推進した。彼が亡くなったのは万治元(1658)年7月12日、享年60歳であった。
3. 守成の名君
それでは、本題の忠宗の藩政を見ていくとしよう。法治主義により藩政を確立し、4年目に検知を実行し他藩と異なっていた度量衡(どりょうこう)を統一した。さらに「買米制(かいまいせい)」をはじめ、領内での余剰米を江戸へ回送して販売し、その利益を農民にも分配したのである。
これは農民のやる気を引き出して新田開発を促進する効果を生んだ。結果的に仙台藩は豊かになり、表の石高62万石のところ、実収は100万石を超えていたと言われる所以である。このようにして、彼は仙台藩の基盤固めに終生全力を投入したのであった。それによって、彼は「守成の名君」と称されたのである。
唐王朝を開いた2代皇帝太宗(たいそう)は臣下の諫言にもよく耳を傾け、これを纏めた問答集が『貞観政要(じょうがんせいよう)』である。これは今でも帝王学の教科書として引用されることが多い。太宗が「創業と守成はどちらが難しいか」、という問いに家臣たちがそれぞれの立場で答えた。
どちらも難しく比べようもないのではあるが、諺としては「創業は易く守成は難し」として、新たな事業を興すことよりも、それを衰えさせることなく維持してゆくことは一層難しいとして、守成の難しさを戒めるものとしてよく用いられている。特に、創業期の混乱を経て平和な「守成の時代」を迎えた時、リーダーとしてどう全うすることができるかは規模の大小を問わず経営者の愁眉の課題と言えよう。忠宗はこれをしっかりとやってのけたのだった。
これには父政宗も相当に教育を施したのだろう。政宗自身が相当な筆まめであったことが、佐藤憲一氏の著書『伊達政宗の手紙』(新潮選書)に記されているが、その手紙からいかに後継者の彼を大切に思っていたかがよくわかる。その中で息子に充てた1通を紹介するとしよう。これは江戸にいる忠宗に宛てた自筆の手紙である。
伊達忠宗宛
そこもと香会、葉流れ候様に承り及び候。用に候はんと伽(きゃ)羅(ら)三色遣はし候。(中略)尚々、息災に候哉。(中略)一両日虫気(むしけ)。はや本復、心安かるべく候。脇より聞き候はば機遣浸るべく候と、知らせ申し候。以上。(追伸略)
季夏九日 政宗(花押)
筆者の佐藤氏によると、政宗63歳、忠宗は31歳の頃、後継者として江戸にいるときは政宗に代わって幕閣や諸大名との付き合いをこなしていた。忠宗の香会に入用だろうと伽羅(きゃら)(香木)3種を送り届けたのである。
虫気(むしけ)(腹痛)があったが回復したぞ、と述べたのち、他から聞いたならば、かえって心配するだろうと思ったので、そなたに直に知らせたと結んでいる。見事なまでに人心の掌握に優れた政宗の真骨頂である。この術を後継者たる息子に自筆の手紙をもって伝授したのだった。息子も父と同じように気配りのできる人に育っていって、守成の名君と讃えられたのだった。
4. おわりに
日本三景のひとつ松島には政宗が造営した瑞巌寺(ずいがんじ)のほかにも伊達家にゆかりのある寺社が多い。政宗の正室愛姫(陽徳院)や長女五郎八姫の廟のほか、円通院という臨済宗の寺院がある。境内には三慧殿(さんけいでん)という建物があり、別名御霊屋(おたまや)と呼ばれる。これは2代藩主忠宗と正室振姫との間に生まれた次男光宗(みつむね)の廟所である。兄の虎千代が夭折したため早くから嫡男として育てられた。文武に優れ性格も剛毅で政宗の再来かとも言われた。
ところが、なんと19歳の若さで急死したのであった。忠宗と振姫の悲しみと落胆はいかばかりであったろうか。この建物は技術の粋を尽くした伊達家屈指の名建築で国の重要文化財に指定されている。その厨子(ずし)には支倉常長が持ち帰ったバラの絵が描かれている。バラはローマ帝国の象徴であり、鎖国後のこの時期にこれを用いたあたり、忠宗の、穏やかながら芯の強い伊達家の意地のようなものを感ぜざるをえない。
その後、忠宗は側室貝姫との間に生まれた六男綱宗を跡継ぎとした。しかし、政宗から忠宗に伝えられた帝王学はこの時には引き継がれなかった。万治元(1658)年、忠宗が齢60で死ぬと翌年後を追うように振姫も53歳で死去した。綱宗は家督を継いだわずか2年後、酒食に溺れたとの理由で若干21歳で強制隠居に追い込まれて、これを契機として伊達騒動が始まるのである。
三代綱宗の評判は極めて悪いが、これは後世やや誇張された感が拭えない。彼はその後芸術的天分を発揮して、和歌、茶道、特に書画は狩野探幽(かのうたんゆう)に学んで優れた作品を多数残している。50年に及ぶ江戸での逼塞した生涯ではあったが、帝王学ではないものの忠宗の優れた遺伝子が、形を変えて引き継がれたであろう。(以上)
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