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非日常と時間軸

魔法的以来、実に数年ぶりに小沢健二のコンサートに行った。それも初めて一人で。最初は一人でとも思ったが、一人の方が気楽だった。物販も好きな時間に並べるし、SNSで知り合った方々とご挨拶もできた。

ただ、私はコンサートで泣かなかった。それは、ここまで来れたことが自分にとって非日常すぎていたことと、その非日常感にただ茫然としていたから。ちょっと前まではこの有明の地に来ることさえ現実で考えられなかった。

一週間ほど前にディズニーシーにいったことも起因している。あの日常から非日常へゆっくりと入っていく感覚。そしてゆっくり抜けていく感覚。それまでは本当にディズニー行くのだろうか・・なんて散々考えたりしてたのに本当来ることができると、非日常に圧倒されてしまう。

その非日常が抜けきらない一週間。私は小沢健二のコンサートに本当に行くのだろうか・・と散々考えて、当日を迎えた。久しぶりの電車、久しぶりの東京、そして久しぶりの小沢健二。すべてが久しぶりだった。コロナによって。ゆっくりと日常から非日常へ入っていった。ディズニーのように。

だから始まったときも、客席が緑とピンクの魔法的電子回路が暗闇にキラキラして、とてもきれいでワクワクした。出てきた小沢健二は素敵に年をとっていた。今の彼が音楽がそこにあった。でもその後不思議な感覚を味わった。曲ごとに、今の彼の横から当時の彼がふわっと抜けているような空気感があった。

最もそれを感じたのは「強い気持ち強い愛」で、この曲が大好きで当時VILLAGEを何度も観ていた私は、この曲を何度もビデオで観ていた。

始まった瞬間に引き戻された。あのライブの熱狂の中に、あの高校生だった自分に。でもきちんと年をとった小沢健二もいるのだ。時間軸が過去と現在をいったりきたりしていた。それは他の楽曲でもそうだった。天気読みのときは1993年の彼が。ある光のときは1997年の彼が。年齢を重ねた彼の横から奏でる音楽と歌声ともに浮かび上がってくる。そんな素晴らしいコンサートだった。

そして彼は中盤、あの時たくさんの音楽から僕の音楽を見つけてくれてありがとう、といった。その瞬間、私を含めた全ての観客にも当時の自分が席のとなりにふわっと浮かび上がった。言葉は魔法。時間軸を曲げながらつづいたコンサートの終盤で泣いちゃう。少しづつ軸が戻る。コロナになる2年前・・そしてコロナ後の今。

そして最後に彗星で2022年といい、時間軸を戻す。この非日常な時間軸のコンサートが日常へもどっていく、最後の合図・・

生活へ帰ろう。

そしてまたゆっくりと非日常から日常へと戻って、私たちは次の非日常へと想いを馳せる。



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