小山田圭吾さんについて~まとめ~

今回クイックジャパン3号について、さらに同時期に小山田さんが取材を受けた色々な雑誌を読んだうえで、あくまで推測になりますが、自分なりにまとめてみようと思います。

もちろん、この取材を受けたこと、オリンピックを受けたのは自分としてもダメだと思います。その前提において、小山田さんの今回の記事にどういった部分で誇張や誤解を受ける表現があったのかについてです。

1  受けた経緯

おそらく、前回のロッキングオンジャパンのインタビューが納得できずに受けたという経緯もあるかと思います。

ここでは、当時の小山田さんのこと知っている、レコード屋のBIGLOVERECORDS社長の仲さん(元ESCALATOR RECORDS社長)がnoteで以下のようなことを載せていたので、以下引用します。

「ロッキング・オン・ジャパン」(以下「ジャパン」)の山崎(編集長)さんと小山田くんの会話ですが、僕はここの部分に対して当時の小山田くんのマネージャーの方が「これは困る」と話していた記憶がはっきりとあります。場所は移転前のセンター街の奥にあった頃のHMVの一階の真ん中のレジ横あたりでした。校正もなくまるで小山田くん自身がやったかのように、確かにあとから「直接やったわけじゃない」と補足のようにあるけれど、そんな感じじゃそもそもないから。といったような内容の話でした。その話の細かい部分は完璧な記憶じゃないですけど。しかしそんなこといちいち気にしなそうな僕に対しても(それはそれで猛省します)わざわざ話してきたくらいなので、当時だとしてもトラットリア及びポリスターのレコード会社内でも問題になっていたことが想像できます。だとしてもロッキング・オンに抗議などができなかったであろう事実は当時の時代背景や状況があると考えます。

引用:仲真史 NAKA BIG LOVE RECORDS TOKYO 2021/7/27 noteより

記憶がハッキリして思った話をまとめます。

引用:仲真史 NAKA BIG LOVE RECORDS TOKYO 2021/7/27 noteより

1. あの時代、レコード会社は上記の発言部分に対して「ジャパン」にクレームをいれることなど出来なかった(いれたかもしれませんが)

引用:仲真史 NAKA BIG LOVE RECORDS TOKYO 2021/7/27 noteより

2. マネージャーやレコード会社の人はその記事に対して苦言を言っていた(僕が聞いています)

引用:仲真史 NAKA BIG LOVE RECORDS TOKYO 2021/7/27 noteより

3. インターネットもないので反論も出来ない。

引用:仲真史 NAKA BIG LOVE RECORDS TOKYO 2021/7/27 noteより

4.その一年後、「クイック・ジャパン」から企画があり受けた。

引用:仲真史 NAKA BIG LOVE RECORDS TOKYO 2021/7/27 noteより

ただ結果、メディアやマスコミが騒いでいるいじめ部分はほぼ全て、小山田くんがそれだけは違うと言いたかった「ジャパン」が載せた発言内容ばかりです。もちろん結局はダメです。オリンピックも受けちゃダメです。しかし、だとしたら「ジャパン」だって全然ダメなはずなのにと僕は思います。さらにみんなだって「ジャパン」より「クイック・ジャパン」の方を責めています。「ジャパン」はあの時代と変わらぬまま影響力は絶大です。知らぬまに自然と我々が気づかないうちにあの時代と同じ状況同じ構図となっている気が僕はします。-この記事は有料ですがいくらでもこんなものでよければ引用していただいて結構です-

引用:仲真史 NAKA BIG LOVE RECORDS TOKYO 2021/7/27 noteより


追記:その後仲さんのインスタライブのお話で、小山田さんの同級生に枯れ葉など、なんでも口に入れてしまう子がいたそうで、その子にたべれる?っていったのが発端で、それも小山田さんが言ったかまではわからないけど、そのような経緯があったそうです。

ただ、当時はトラットリアレーベルプロデュースも行っていて、レーベルの他のアーティストの掲載の兼ね合いもあり、もしかしたら強く言えない部分もあったかもしれません。

さらに、1998年4月3日に小山田さんがテレフォンショッキングに出演された際には、ロッキングオンジャパンから花輪が贈られていたりもします。

また山崎さんとのインタビューはファンタズマまで続きますが、特にそこまで関係が悪い訳でもなさそうですし(毎回売れないなとは言われてますが、それも愛なのか。。)、編集後記などではわりと撮影なども頑張っていた様子があるので、この段階で小山田さん側から何か強い対抗措置をとることもなかったのでしょう。

ただ、このようなインタビューもありました。

(ロリポップソニックについて)この辺の話はあまりしたくない。というのは以前「ロッキングオンジャパン」で話したことがあったんだけど、僕も含めたその当事者の立場からすると、間違って伝わるのが嫌だから。

引用:月刊カドカワ1995年12月号より

当事者不在で色々と語りすぎたことに対して後悔しているような雰囲気はありましたし、雑誌に対しての不信感も少なからずあったのかもしれません。

2 記事内容について

当時、月刊カドカワでは根本敬さんの『因果鉄道の夜』に影響を受けた話をしています。

「でも、やるんだよ」っていうのは、特殊漫画家と呼ばれてる根本敬さんのすごい好きな本があって。『因果鉄道の夜』っていうんですけど。説明が難しいんだけどね、自分だけの基準で生きてる人たちのことを根本さんが深く観測して書いてんの。でも、みんなから見たらただの奇人変人でしょ。でも、「でも、やるんだよ」ってところでしか生きていけないっていうか。そのコアな人たちは自意識がほとんどない(笑)から、そうゆうことは考えてないと思うんだけど、それを見ている根本さんは「でも、やるんだよ」って言葉で自分に気合いを入れてるわけ。

引用:月刊カドカワ1995年12月号より

レコーディングの帰り道にお洒落なホームレスの老婆がいたり、8ミリをダラ撮りする話や、レッドツェッペリンの完コピバンド『シナモン』の面白さついて話している最後に

僕が濃い人たちを引っ張ってきてるわけではなくて、僕が濃いものにおびきよせられているんだと思う(笑) 

引用:月刊カドカワ1995年12月号より

という部分や、和光という学校の特殊性にもあっただろうけど、彼はその非日常性をポンっと『因果鉄道の夜』みたいに証言したつもりなのでしょう。ただそれは当事者である彼はすべきではなかった。

彼は自らの高校時代をこう話しています。

ボク、クラスには友達がいなかったんですよ。自意識過剰なところがあったのかもしれない。好きな人とは話すけど、嫌いな人とは一切しゃべらないって感じで。一度も言葉を交わすことなく卒業したクラスメイトもいました。別にこうじゃなきゃ友達になれないっていうのはなかったんだけど、何かピンと来るヤツ、来ないヤツって分けてて。どこかでひっかかるところがあれば良かったんだと思う。そうゆう人がクラスにいなかっただけ

Olive 1997年9/3号より

この時点でこれまで散々話してきた、高校時代の話をなんとなく避けはじめている点もあります。

小学校から私立でエスカレーター式の学校だったから、受験勉強がなかったんです。高校までは何とかなる。でも大学はやっぱり出席が足りないとダメで、ボクは遅刻とか欠席がすごく多かったから、高1くらいのときにはもう、推薦で大学に行けないっていうのはわかってた。

Olive 1997年9/3号より

 自分の世界ができてた頃だと思うんです。中学のなかばくらいって。誰にでも小学生から中学生の時期に、ちょっと大人になるときがあるでしょう?それがボクにはその頃でした。あとは高校を卒業するまで変わらず、毎日ダラダラ(笑)学校にはあまり行かなかった。クラスじゃ浮いてたし、全体でまとまって何かをするっていうのにもついていけなかった。強制されると拒否しちゃうっていうか。

Olive 1997年9/3号より

で、休みがちな理由が

小沢とは僕、貸レコード屋友達だったんだよ。で、ジャニスっていうレンタル屋が御茶ノ水にあってさ、普通の店に置いてないような、輸入盤とか、すごいマイナーなのとかまで、けっこう詳しい解説がついてて。そこに毎週行ってさ、十枚とか二十枚とか借りて。次の日学校休んで、全部テープ録って、次の日返して学校に行くみたいな生活があったんだけどね

引用:月刊カドカワ1995年12月号より

おそらく、返却当日でも自宅から御茶ノ水ジャニス行って、町田の学校へ行ってたら、ちょっとやそっとの遅刻ではなく、授業半日分の遅刻であったでしょう。なので、中学後半から学校にあまりいなかった故に『いじめ』についても罪の意識及び当事者意識が薄かったのだと思います。ここは当時の彼の認識の甘さです。

また、69/96の際のレビューで彼の仕事については

確かに新しい風俗モードとして軽いフック感はあるのだが、どうもいつもの小山田とは違って観念的でムキになっている感じがしたのだ。

ロッキング・オン・ジャパン1995年11月号 神谷弘一69/96レビューより

とも書かれており、音楽以外でマッドモードに入り始めた彼に対して不安だったともありました。当時の彼はソロになって、何か固定されたキャラを否定したり、元相方の小沢さんの王道ポップ路線に対抗して、面白がって天邪鬼になってるような雰囲気もありました。これを私は小山田暗黒期(いい意味で)と呼んでいます。

ファンタズマが出たあとにロッキングオンでもこう述べています。

山崎 「これはフリッパーズをふまえて、その後にやることなんだ」っていう風に意識した?

ロッキング・オン・ジャパン1998年1月号より

小山田 ああー、僕自身はあんま意識してなかったんだけど、山崎さんとか周りからそうゆう風に言われることがあって『ああー、言われてヤだなぁ』とか思って(笑)

ロッキング・オン・ジャパン1998年1月号より

山崎 でも逆に言うと、それを自分でもプレッシャーに感じてたってことなんじゃないの?

ロッキング・オン・ジャパン1998年1月号より

小山田 だからこれ(ファーストアルバム)出した頃にやっぱそうゆう風に言われて『みんなそーいうこと言うんだなぁ』って。やっぱ小沢と凄い比べられたし。そうゆうのが凄いヤでしたね

ロッキングオンジャパン1998年1月号より

3 言葉遣いについて

和光という環境は上下関係がなくて社会に出ると敬語に悩んだ、とクイックジャパン5号の小沢健二スクールデイズでも証言している人もいました。彼も社会人経験がないミュージシャンとはいえ、同様でした。しかも、この記事では非常に軽いノリで、時にキーとなる言葉は英語などをつかってぼやかして話しているから、この企画内容と読み手の間で正直、何言ってんの??という温度差が生じてきます。

特に相手の同級生に対して、ロボコンでいうロボパーという表現は非常にわかりにくい生む発言ですし、実際この部分だけで温度差が生じます。

ちなみにロボコンに関して、ファンタズマの際に音楽と人で彼はこう話しています。

レコーディング中にウチのお父さんが引っ越しして、0歳から5歳ぐらいまでの写真や絵をボクの家に持ってきたんですよ。ロボコンに至っては全員描いてて。超合金とか死ぬほど持ってた。子供の時ぜんそくだったから毎日注射とか打たなきゃいけなくて、それで注射打つと、超合金1個買ってもらえたんですよ(笑)っていうかホントに一週間二週間ずっと注射打って、体中に変な紫の薬塗られて(笑)病弱っていうかねぇ・・病弱だったんだ、きっと(笑)それでロボコンとか並べて、写真撮って遊んでたらしいんだけど

音楽と人 1997年8月号より

彼にとってロボコンという存在は、そういった中での救われた存在かもしれないし・・友達だったかもしれない・・でも、もっと下げるとタダのオモチャだったかもしれない。。

このどうとでもとれる表現が、色んな捉え方をされてしまいます。

これらの表現や言い回しが記事の気持ち悪い部分になって浮き上がってきています。また、カドカワでは構成に川勝さんが携わっていることもあるのか文芸誌でもあるのか、2誌と比べてそこまでポップな表現はない印象があります。

4 クイックジャパンのいじめ紀行について

これを担当したライターは自らを『いじめサバイバー』としている割に偏見があって、それが僕にとっていじめってエンターテイメントだったという文章にあらわれています。そして、いじめたとされる相手のところにアポなしで家にいき事情をきき、当然ながら対談は失敗となります。そして小山田さんがそんなにやってそれで記事にならないのなら‥と二度目の取材。そして打ち合わせ時の会話が掲載されることになります。

それを最後に主観できれいな美談にしようとしているところで読後感の悪さを感じます。この読後感の悪さが全文読んでも、ますます小山田さんの行為を嫌悪する人もいれば、これは書き手の文章が稚拙だよね、ともとれる所以はこの何とも言えない悪ノリのナイショ話に読み手の自分ものっかってしまったように思えるところです。

ちなみに、この3号を5号の特集の際に小山田さんは

小山田 『QJ』って隔月になったの?
平林 ええ、いちおう先月から。
小山田 本の色が赤、青ってなって、今度は何色なの?
平林 そうですね(笑)。考えてなかったですよ。
小山田 買ってビックリしたよ。いきなり俺が赤くなっているから(笑)。

Quick Japan 5号 『小山田圭吾、”謎のレコード屋”潜入30000字ルポ』より

と発言しています。なので本人も記事は確認されています。ただ、買って表紙にビックリしたとあるので、すでに流通したあとに手にしたと思われますし、この段階では特に何かするということもしなかったのでしょうし、この後もしばらく特集などで出ているのでクイック・ジャパンともそこまで関係性が悪かったわけではなく、むしろ親和性が高かったのかもしれません。

5 最後に

今回オリンピックを受けたから公に発覚したとはいえ、ことは2000年初頭からずっと燻り続けていた問題で、いつ事態が急転してもおかしくはなかったのです。だからこそ、この期間については、本来であればファンタズマ〜POINTまでの間のインタビューで一度総括しておく必要はありました。

この小山田暗黒期のキャラクターと音楽があまり好きではなかったという方もいるかと思いますし、アルバムも決して万人受けするでもなく、ポップではなく小山田さんなりのロック、ヘヴィメタに振り切っているので好き嫌いがわかれるところではあります。私自身もこの件が起きるまであまりこのアルバムは聴かなかったのですが、今聴いてみると当時の彼なりの表現で出来上がった良い作品だと思います。この時期は彼にとってはこれまであったものを一度壊すべき、必要な時期ではありました。これがなければファンタズマは出来なかった。スクラップアンドビルドだったはず。このアルバムを山崎さんにも散々売れないだの、劣等生アルバムとか言われてましたが、一点だけ山崎さんはツアーでギターを壊したりしてロッカー全開な小山田さんをみたときにこういいました。

山崎 もう取材を何度もしているけど正直言って「ああ、小山田圭吾になりたいなあ」って思ったことは1回もないんだけど。今の小山田圭吾にはちょっとなりたいすげえ気持ちよさそう。

ロッキング・オン・ジャパン1996年2月号より

でも小山田さんはこう返しています。

小山田 あ、そう。僕、山崎洋一郎になりたいっていうのはないですね(笑)

ロッキング・オン・ジャパン1996年2月号より

と。やっと小山田さんがロッキングオンにこれを言わせたなぁと思えた瞬間でした。TK MUSIC CLAMPでも、彼はフリッパーズギターの頃よりライブが苦手だという話をしていました。そのライブに関しても模索して、ようやく面白く感じてきたとても大切な時期であったと思います。

ただ、その時に彼が幾多ある仕事から選んだこの仕事は受けるべきではなかった。百歩譲って、彼がそのままの路線でいくならまだしも、小山田圭吾というアーティストはそれまでも、アルバムごとに全く違った世界観をもってやってきたのだから、この先もっと進歩していくだろうと思っていたから。

そして、その後は予想をはるかに超えて小山田暗黒期からファンタジー期、ナチュラリスト期~音響期へと発展していきます。特にPOINT以降ほとんど地続きに展開していきます。裏原系APEの高いTシャツを着ていた彼が、ファストファッション主流となったSensuous期にユニクロとコラボするような変化。

そして、グラミー賞ノミネート〜オリンピックの開会式の作曲担当まで辿り着きます。95年あたりの暗黒期から、誰がここまでのアーティストになりえるとあの当時、予想できたでしょう。

どうして彼はこの仕事を受けたのか。それは当時から、彼はフラットに仕事を受けており、音楽誌は対談系からギター系の専門誌、男性ファッション誌、オリーブ、猫の手帖、クイック・ジャパンと幅広く、そこが面白さでもあった。POINT以降、その仕事の幅がだんだんアートなどの高尚なものが加わり変わりつつあった。その上でのオリンピック起用。これは納得できたが、この舞台は彼にとって規格外過ぎて、清算すべき過去のことを把握出来ていなかった。

小山田さんは半年前に帰ってきた惑星見学でこう話していました。

小山田 一体何次元あるのかっていう。最近、有名な物理学者が「時間は存在しない」っていう説を発表したのが話題になったでしょ。もともと時間って人間が作り出した概念で、現在も未来も過去も同じ瞬間に存在しているのだと。そうすると宇宙の果てという概念がなくなるんだけど、なんかそんな感じ。
記録係 わかるようなわからないような。『インターステラー』では5次元に行った主人公が本棚の裏から幼い頃の娘にモールス信号を送ってましたけど。
小山田 そのくらいシンプルなんだと思う。リアルには想像できないけど、パラレルワールド的に少しずつ違う世界が同時に存在するってことだろうね。

帰ってきたコーネリアスの惑星見学 鏡面界星雲 relax × SHIBUYA PARCOより 

皮肉にもこの半年後に、このネットで延々と燻りつづけた問題に彼自身が過去から大きな打撃を食らうことになってしまった。

たらればになってしまうけれど、彼の云うようにもしパラレルワールド的に違う世界があるとしたら、その世界ではきっと彼はこんな話をすることもなかったし、もっといえばコロナはなく延期せずにオリンピックができてたかもしれない。延期しても、彼にはそのような過去もなく通常通り音楽が開会式で聴けた世界があったかもしれない。

只、この世界では彼は話してしまった、それが燻り続けた結果、公の仕事を引き受けた際に、このような形になり、事実として謝罪文を出すまでに至ってしまったのだ。。事実である以上、この世界での彼の未来は非常に厳しいものではある。私は彼を前と同じ立場まで戻すのはかなり難しいと思う。

彼を全く知らない方々からしたら、彼にたいしての嫌悪感は消えないと思う。自分が、逆の立場でもそう思うかもしれない。

けれど、彼の音楽をずっとずっと聴いてきた者としては彼から音楽だけは絶対にとりあげないで欲しい。小さな規模になっても彼の新しい音楽を聴いてみたい、そんな人もいるのです。そしてそのときに彼を応援したい。

先日たまたま彼が載っているオリーブを購入した際に小沢さんの連載をみたらこう書いてあった。

待ってる人に良いものは来る。リラックスして、運命を待とう。何か待ってる人、じっくり待ちなって。

Olive 1997年9/3号『DOOWUTCHYALiKE』より

過去からきたメッセージみたいで驚いてしまった。

もしかしたら、別の世界ではまだ2人で音楽を奏でているのかな。

じっくりその時を待ちます。



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