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『バッチフラワー医学の基礎的説明。』:未来の医学にむけて 

前書き

 私がここで用いている「未来の医学」という言葉は、この世界に三十八種類のバッチフラワーレメディをもたらしたエドワード・バッチ博士の著作『なんじ自身を癒せ』に述べられた内容に基づいて用いている言葉です。バッチ博士はその本の第八章で、「未来の医療現場での疾患に対する理想的な取り組み方」がどのようなものであるかを説明して『将来、医療の現場では、病気の表面に現れた症状だけに注目するのではなく、実際の身体の障害にだけとらわれるのでもなく、そして、単に一時的に症状をやわらげるためだけに薬を投与するのでもなく、病気の本当の原因が何かと言うことに着目し、身体上に現れる症状はあくまでも二次的なものにしかすぎないということに留意し病気に取り組んでいかなければならないでしょう。そして、最終的に安らぎを与え、病気を治すことになる身体と心と魂の調和を図る努力をすることに治療の主眼をおくようになるでしょう。』と語っています。また同じ章で『私たちの人生は、自分の性格を魂のどれだけ近いところに持って行けるかによって、変わってきます。…中略…(魂=ハイアーセルフと絶えず対話を続けて)真実を知ることで、この世の出来事がどんなに悲劇的に見えようと、人類が進化していく上での、それは一つの過程に過ぎないということが理解できます。病気さえも、自分のためであり、最終的に素晴らしい完全な状態に向かって努力を続けるための持続剤になるようにと意図する法則の下で企てられているのです。』という病気に関する瞠目すべき見解を述べ、さらに『私たちは、自分自身の魂の命令だけに従い、環境や他人に左右されないように個性を伸ばしていき、世俗的な束縛から自分を自由にしなければなりません。自分が自分の支配者になり、自分に正直に舵を取る手を決して休めることなく、帆船を荒れた人生の海に向け、どんな時も、舵を他人の手に委ねてはいけません。自分の行うことすべてが、すべての行為が、いやそれどころか、考えの一つ一つが、自分自身から発せられ、それによって、自発的に、全く自発的に生き、人を助けられるように、絶対的で完全な自由を得なければなりません。』という、現代人にとって最も重要で困難な課題に関しても簡潔かつ明瞭な真実を述べています。


 私は自分自身がレメディの恩恵に与った三十代前半から、バッチフラワーレメディを用いる臨床医として、バッチ博士が語ろうとした『病気の本当の原因と治癒についての説明』を完全に理解したいという強い願いを持ち続けてきました。そして、博士の著作をくり返し読みこみ、また日々患者さんの治療のためにバッチフラワーレメディを用いながらその作用をつぶさに観察して、この奇跡の治療薬の作用を追求し続けてきました。その結果医師として、バッチフラワーレメディの働きを理解する幸いに恵まれ、人間に対する自然の恩恵、神様の恵みには、欠けるところがなく、私達は私達の内と外からの限り無い恵みの中に生きているのだと深く理解できるようになりました。私は私が語る事を参考にして、みなさん一人一人が、自分の内と外に神の恩恵と光を、変わらぬ愛を見出して下さるように祈ります。


  二〇〇七年夏 美しき逗子にて。




 第一章 自律神経免疫療法との出会い。




 ルドルフ・シュタイナーは、いくつもの講演で、「人間の疾患の原因はアストラル体にある。」あるいは、「アストラル体の活動がエーテル体の活動を凌ぐことが疾患発生の主な原因である。」と語っています。シュタイナーが提唱し確立したアントロポゾフィーの概念に登場する「肉体」、「エーテル体」、「アストラル体」、「自我」という概念を十分に把握することが出来れば、彼の説明も当然の事として理解できるのですが、現代の自然科学用語と物質科学に慣れ親しんだ私達西洋医学の医師にとって、肉眼で視ることができない肉体以外の三つの体のあり方とその相互関係が疾患の主な原因であるという説明はなかなか把握し難いものがあります。一方、現代日本には、疾患の成り立ち全体が自律神経のバランスで説明可能である事を発見し、その内容を科学的にも実証している新潟大学の安保徹教授がおられます。私は、安保教授の著書「免疫革命」第一巻が発売された時にこれを拝読し、私が十年来患者さんに対して行ってきたバッチフラワーレメディの作用機序のが、安保理論によってより明瞭に説明出来る事と、バッチフラワーレメディの有効性が、末梢血液中のリンパ球と顆粒球のバランスなどを用いて医学的に検証出来る事に気付きました。私はそれまで、患者さんに対し、「バッチフラワーレメディは自律神経のバランスを整える作用をもつ自然療法で、感情にだけ作用する漢方薬のようなものです。」という説明を行って来ました。人間の自律神経は交感神経と副交感神経によって構成されており、交感神経は「戦いと逃走の神経」と呼ばれ、人間の肉体を闘争状態や逃走のために準備する神経系です。交感神経がその活動を高めると副腎からのアドレナリン分泌が増加し、血圧は上昇し、筋肉の血流は増え一方皮膚表面と大脳皮質、ならびに消化管における血流は低下して、考える事なく迅速に「攻撃か逃走の反応」を行なうことが出来るように肉体の準備がなされます。一方、副交感神経の活動が優位になると皮膚温は上昇し、消化器官と排泄器官の活動が高まり、穏やかで愛情にあふれた感情状態とリラックスした肉体の状況が用意されます。こちらは「愛情と休息の神経」と呼び得る神経システムです。安保教授は白血球内容における顆粒球%とリンパ球%のバランスがそれぞれ交感神経と副交感神経の活動性により支配されている事を発見し、「自律神経免疫療法」の理論を展開し、同時に今まで慢性疾患あるいは原発性疾患として分類されて来た、多くの原因不明の疾患が『がんばりすぎ』または『食べ過ぎ(怠け過ぎ)』が原因で生じているという事を論理的に解明しておられます。


バッチフラワーレメディーは、自分にとってネガティブと思われる感情状態、自分としては「そうありたくない」と思われる感情特性を目安に選ばれ、特定の感情状態に対応するレメディーを服用する事でその感情を『変換・昇華する』というシステムです。バッチフラワーレメディという自然療法システムにおいて極めて特徴的な事は、レメディーを選択する指標となった感情が、レメディーの服用により元々の状態とは正反対の感情に変化してゆくという事です。一例を挙げるなら憎しみと妬み、猜疑心などに対して選ばれるホリー(西洋ヒイラギの花)のレメディーの場合には、その服用により憎しみの感情が消え、愛情があふれ、内面に調和的な感情状態をもたらします。この変化は、それまで交感神経過剰優位状態で他者に対して攻撃的であった人間の心理的なエネルギーが、逆に自己と他者に対する愛情と暖かさ(副交感神経の活動)に転換されたものとして理解できます。一方、レメディーにはクレマチス(仙人草)のレメディーのように現実に意識の焦点をあわせる事が出来ない、過剰に弛緩した状態(副交感神経優位状態)に対して用いられ、目の前の問題に意識を集中できる状態(交感神経の活性化された状態)をもたらすレメディーもあります。これらの作用機序から、私はレメディーについて「自律神経のバランスを回復させる働きのある自然療法薬です。」という説明を行なって来たのです。


 レメディーの作用は、患者さんが抗うつ薬や抗精神病薬などを服用していない場合、極めて明瞭であることが多く、臨床医として普通の観察能力を持ち、ある程度の傾聴訓練を受けてさえいればレメディーが臨床的治療の補助、あるいは中心的方策として用い得るものであることを疑う余地はないほどです。しかし、この治癒物質は日本では健康食品扱い、あるいはその保存料にブランデーや植物グリセリンが用いられている故に、アルコール飲料または香料という扱いを受けており、「医療専門家に対してレメディーの効能をいかに説明し伝えることが出来るか」、という事は私にとって十年来の課題でもありました。このような状況で私は安保理論に出会いました。安保理論に出会ってからの私は、日々の診察で、患者さんの白血球総数と顆粒球%、リンパ球%を確認し、また交感神経と副交感神経の活動バランス(アントロポゾフィー医学の用語ではアストラル体の活動とエーテル体の活動のバランス)を見るために鼓膜測定の体温と腋下測定の体温を比較し、左右の腕で血圧の左右差を確認し、舌診所見と体温と尿比重ならびに排便回数と食事内容の関連を分析し、ほぼ全ての患者さんの頭部MRIとMRAを確認して、脳の発達状態・脳血管の走行状態と脳動脈硬化進行の状態と同じ時点での冠動脈の状態の相関関係を調査し、「頭部・胸部・腹部」の状態と「知情意」の関係を確認し、肺の容積の左右差と右左脳の活用状態の相関関係の確認、左右の鼓膜温度の差と脳血流との関係を確認し、心臓肥大と自己抑制との関連を分析するといった方法で、肉体の状態が、いかに正確かつ完全に人間の「知情意」の状態と自我の受肉(その人らしさの実現=自己実現の進展状況)を表現しているかを定量的に確認する方策を探り、平行してデータを集め、バッチフラワーレメディーの服用経過にともなう、患者さんの自律神経バランスと感情状態の変容、疾患状況の変遷を数値的、定量的に把握する努力を継続してきました。この作業の流れの中で最初に浮上してきたものが、体温診断と呼び得る診断方法であり、この診断方法による疾患群の二大分類でした。




 第二章 疾患の二大分類


    (熱の上昇と冷えの下降)




中国医学、漢方医学で良く知られた概念に肝気上亢という病態理念があります。これは本来なら、臓腑としての肝が支配管理しているはずの腹部の気(生命力の流れ)が、横隔膜を超えて頭部に及び、怒りっぽくなった状態を示す概念です。この状況で怒っている人は、赤い顔をしており、血圧も上昇傾向を示し、いわば頭から湯気が立ち上がっているような状態です。これは本来であれば腹部にとどまり分解代謝されるはずの栄養素と(神経刺激性をもつ)代謝産物が過剰になり、脳内の感情中枢に影響を及ぼしている状態と推定されます。そして、持続的に肝気が上亢している人で測定を行なうと、腋下体温は三十六・五℃を超えており、鼓膜測定体温も同じく三十六・五℃を超えている場合が多いのです。


この肝気上亢状態と同じ体温の状態が、パニック障害の患者さんと躁病の患者さんで認められます。(さらに述べるならインフルエンザ脳症を生じている状態や、てんかん発作を生じている状態でも同じような体温状態が認められるはずです。)この熱の分布、首から上の人間と首から下の人間の支配関係が逆転した状態は、ルドルフ・シュタイナーが述べた『牛に肉を食べさせた場合の狂気発生』の話と、実は同じ状態です。↑補足説明A


本来人間が人間的であるには、中枢神経の冷却力(冷静さ)が、四肢代謝系の熱産生システム(興奮状態)とバランスを保っている必要があり、腋下体温が三十六・五℃前後で、鼓膜体温がそれよりも0.2℃から0.5℃程度低めであることが望ましいのです。(いわゆる頭寒足熱の状態です。) …中略… 日本には桃太郎と犬猿雉の物語があり、桃太郎は吉備団子を犬猿雉に与える事でこれらの動物を家来にして鬼が島に攻め入り、最後には鬼が島に隠されていた多くの宝物を故郷に持ち帰るのですが、アントロポゾフィーの立場からは「肉体、エーテル体、アストラル体」が「雉、犬、猿」にあたり、「自我」が「桃太郎」に相当することが理解できます。別の言葉で言うなら「知情意」が「猿犬雉」にあたり、「私」が主人たる「桃太郎」だという事です。そして、吉備団子は、犬猿雉がいつか人間のような存在になることが出来るという希望であり、鬼が島は、実は誕生から死に至るまでの私達が過ごすこの感覚界=地上世界だと推定されます。

 第三章 人体の右と左について(男性要素と女性要素)  
  重要ですが、長くなりすぎるのでここでは略します。

 第四章 人間の地上生活の目的

「人間が地上で苦しむのはなぜか」、あるいは、「人の目には苦しみが溢れているように見える地上環境が存在し、そこに人間の意識が関わっているのはなぜか」、「この状況にはなにか目的や意味があるのか」これらの疑問は、人間に知性が発生して以来探究され続けて来た大問題ですが、最近まで、この質問に答えを出す役割は、いわゆる「宗教」や「神学」がそれを担って来ました。自然科学は、現象を解析し分析する役割と目的を持ってはいますが、意味論を追求するのは、哲学や宗教の役割に属する事柄です。ここで、みなさんには、人間の意識研究による人間構造のモデルの図を御覧頂きたいと思います。(図1)自我に目覚めた人間が地上で抱く大疑団に対して、過去の学問体系は、神学と神秘主義に分類される領域においてだけ、仮の答えを与えて来ました。そして、私達は通常、「神学・神秘主義・宗教」を学問だとも科学だとも考えませんし、事実これらの言葉が指し示す領域のほとんどは「信念体系」として述べられたものです。この領域においては、万人に妥当する学問や科学は存立し得ないと考えられています。しかし、自然科学は物質の領域においてのみその真価を発揮するものであり、芸術は魂の領域においてその力を示し、真の霊的認識は霊の領域の学問となり得るものです。そして、医療者たるものが、人間の生老病死に直面したときに、この現象の真の意味と価値を認識し、人間の生老病死をその全体像に基づいて扱い、人間と宇宙の関係を適切かつ全体的な視野から再認識しようとするなら、私達は人間の感情を含む全構成要素を今1度、見直す必要があります。エドワードバッチ博士は、千九百年代前半のイギリスに生まれた医師として、この作業を行った最も優れた医師の一人でした。彼の熱意と努力は、同胞に対する深い愛情と神に対する信頼に裏打ちされたものでした。その彼が、死の目前まで真摯に追求し、完成した人類への贈り物が三十八種類のバッチフラワーレメディです。彼はレメディがこの三十八種類で完成したと明確に述べています。

 レメディが三十八で完成しているという論理的な根拠は、バッチ博士が残した著作、『汝自身を癒せ』の第二章から第四章に述べられた、人間存在の本質を説明した五つの原則と二つの間違い(罪)、そして人間の七つの欠点と七つの徳、それらの欠点を克服するための方法、の中に見出せます。

     中略

私は、バッチフラワーレメディによる人間の欠点の克服とそのプロセスを「二河白道」に例えられるものとしてクローマーで説明して来ましたが、より厳密に、別の説明を行うなら、バッチフラワーレメディの働きそのものは、キリスト教の歴史における、バプテスマのヨハネの役割に似ています。ヨハネはイエスの従兄弟にあたる人物で、イエス・キリストが公生涯に入る前にヨルダン川でイエスに洗礼を授けた人物です。

聖書には、

「そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。『悔い改めなさい、天の御国が近づいたから。』

この人は預言者イザヤによって、『荒野で叫ぶもののこえがする。主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』と言われたその人である。」と書かれています。

 キリスト教における洗礼は地上的な自己を十字架につけて死に、自己を空しくした人間が自らの内側に王たるキリストの霊を受け入れて再誕生するプロセスを示すイニシエーションです。これは、本来なら神の霊が、神殿の玉座に座して、人間存在を導き守る王であるはずなのに、通常の人間においては、首から下にあたる地上的影響力、あるいは仏教における六道(天界、人界、修羅界、畜生界、餓鬼界、地獄界)の影響力が人間としての判断力を麻痺させ、奪ってしまっている現実があるために必要とされるプロセスです。聖書物語りの中では、七つの悪霊にとりつかれたマグダラのマリアが、イエスによってその罪を赦され、体から七つの悪霊を追い出して頂いたという説話としてこのプロセスが述べられています。ここで述べられている七つの悪霊は、バッチ博士が人間の七つの欠点として説明した人間の七つの霊的な器官(チャクラ)を誤用した際に人間という神殿に入り込む霊的な影響力を示唆しています。人間の体はまさに神の霊が宿るべき神殿です。聖書の福音書には、「イエス・キリストは十字架につかれる直前にエルサレムに入城し、神殿に入り、神殿で売り買いをしている人々を追い出し、両替え人の台や、鳩売り達の腰掛けを倒し、宮を通り抜けて器具を運ぶことを誰にもお許しにならなかった。そして彼等に教えて言われた。『私の家はすべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」と記録されています。このイエス・キリストの行動は、やはり神の宮、神殿には神の霊と祈りの思いだけが宿るべきであることを示しています。

私達がこの神殿である肉体を整えた時、つまり、この神殿の中に「主の道」を用意したときに、人間にとって唯一者である方、「Iam what Iam」と語られた方が私達のまん中に位置を占め、その姿を明らかにします。私がサイコシンセシスの七色の人間の卵に差し込む白い光としてお示ししたその光りの通り道こそが、「主の道」であり、バッチフラワーは、イエス様がなさった方法と比較すれば、はるかに穏やかな方法によって、いわば聖なる霊力の愛の力によって、神の神殿に宿ってしまっている悪霊や商売人を本来あるべき場所と状態へと導いて神殿を神が歩み入るに相応しい場所へと変容させるのです。

 第五章 個人の自我について。

 私達にとって、もっとも身近でもっとも強力な敵は、実は私達が自分自身そのものだと思い込んでいる、「自我」です。ここでは、私が指す自我をルドルフシュタイナーが述べている「自我」(Das Ich)と区別するためにエゴと呼びなおす事にしましょう。エゴは恐怖心が生み出した幻想です。自分自身に価値がないのではないか、自分は永遠の救いとも、幸せな家庭生活とも、恵まれた経済状態とも縁がなく、結局はこの世界で、この宇宙でただ独り取り残されて、ついには寂しく消滅してゆく、何の価値もない、ちっぽけな存在に過ぎないのではないかという、感覚世界だけを真実として生きようとした時には、避け難く事実のように思われる幻想に基づいています。仮に死後の世界を想定したり、霊界を垣間見る機会があっても認識の座である首から上の領域、つまり、キリスト教的にいうなら『父と子と聖霊の座』、仏教の言葉なら『四聖』の領域に対して、首から下の主な支配者であるエゴが猛威をふるっている場合、その死後の世界や霊界においても、地上と同じような苦しみや、死後の裁きがもたらされる可能性を確信する程度で、人は罪の意識や恐怖心から自由になれません。

 私自身は、自我が芽生え始めた小学校四年生の頃に、身近な二人の大人が相次いで死去した事を機会に、肉体が生み出す幻想にほとんど捕われずに『私とは何か』という問いを追求する幸いに恵まれ、その結果として、私達が時空を超越した存在であると深く体感する恵みを得ました。その体験が変わらない安定感を私に与え続けているため、私はエゴが引き起こす恐怖から、かなり自由なまま成長する事が出来たのです。それでも、バッチフラワーレメディを自分のために飲み続ける事と、スブドのラティハンを受ける事、ACIMを学ぶ事、また聖書を読み、祈る事、瞑想を通じて内なる声に耳を傾ける事、そしてキリスト教の洗礼を受ける事などを自分にとって大切な事として受け、また行って来ました。私の経験では、アントロポゾフィーの書物を学ぶ事を含む、ほとんどの知的な訓練や活動が、ほぼ確実にエゴの影響力をを強めますが、レメディを服用する事と、スブドのラティハンクジワアンと呼ばれる霊的修練を行う事とACIM、そして聖書を通読する事、ロザリオの祈りを祈る事、の五つは、明らかにエゴの支配と影響力を軽減してくれました。アッシジの聖フランチェスコが「平和の祈り」の言葉の中で述べているように、私達は自分自身を捨てることによって、永遠の命に生きるようになります。別紙(平和の祈り)あり。

そして、私自身の体験をもとに申し上げるなら、私達が自分自身を捨てることは、実は自分の努力によっては成し得ない事で、それが可能になるのは、神の御霊、聖霊の力が私達を導いて下さる時だけです。それは、南無阿弥陀仏と念仏を唱える時、その念仏を唱えさせて下さるのが阿弥陀如来であり、念仏を唱える事が出来たその時既に浄土にいるという、浄土真宗信徒の体験と同じでしょう。バッチフラワーレメディは、私達の内部を、特に首から下の五臓六腑に宿る感情を浄化し、私達のエゴの力を消し去り、神の神殿において、神の眼差しとその支配が蘇るように手助けを与えてくれます。

 第六章 エゴの正体

 エゴの本質を一言で述べるなら、「恐怖」という言葉が相応しいでしょう。この「恐怖」は分離の幻想に基づいています。私達は自分を永遠性から分離してしまったものだという夢、あるいは幻に深く捕われています。だからこそエゴがかき立てる恐怖心に駆動されてその恐怖心と分離の幻想を、さらに促進する行動に駆り立てられてしまうのです。私達が、自分という存在にまつわる恐怖心を手放すことが出来れば、自分自身を清い神殿、無限の力と可能性をもつ神の御霊の御宿りになる事のできる「空」の場として用意する事が出来ます。このためにこそ私達は、すでに私達の肉体に住み着いてしまっている、私達の中の「七つの悪霊」、「七つの欠点」に取り組むのです。

 第七章 チャクラの状態とレメディ

エゴは、恐怖心に基づいて人間の内部に取り込まれた、食べ物・思考形態・反応様式などの霊的な影響力を自分を強める力として活用しようとします。バッチ博士は、これらの影響力がエゴに導かれた場合に7つのチャクラに影響を及ぼすパターンを見抜いて、ネガティブな感情の状態を七つに分類しました。

そして、


第一チャクラには「孤独」


第二チャクラには「他人を気にかけすぎる」


第三チャクラには「現実への無関心」


第四チャクラには「人や周囲に敏感すぎる」


第五チャクラには「不確かさ」


第六チャクラには「恐れ」


第七チャクラには「失意と絶望」


のグループが対応しています。

 私達は、自己観察によって、自分達の七つの徳と七つの欠点のどの領域が特にネガティブな状態にあるか、あるいはポジティブな状態にあるかを、知る事が出来ます。(別紙、自己評価表あり)また、先月第二回目の連続講議の際に御説明した「指組み、腕組み、脚組みの観察」に加えて、頭部MRIとMRAの撮影、レントゲンと心電図、採尿と採血の分析などによって、それぞれのチャクラの活動バランスを推定する事も可能です。人間の肉体の状態は極めて正確にその人の内面の状態、感情の状態、隠された苦悩の状態を表現しています。ですから、肉体的症状や、精神医学的な異常を既にきたしている人にバッチフラワーレメディをより的確に選択し、その有効性を確認し、その人の中で実現されるべき「主の道」の備えを妨げている影響力を確実に取り除くためには、医学的診察と精密検査に基づくレメディの選択も大変約に立つのです。この事実が、バッチフラワーレメディが最終的には、精密な生理学検査や血液生化学的検査技術を発展させた現代医学のシステムに矛盾なく統合され得る治療薬の一部である事を可能にします。さらに述べるなら、この人間システム全体に対する洞察と、感情状態を自ら適確に認識し(バッチフラワーの助けを借りて)その感情を浄化・昇華する事が、結果として人間の自己回復力を著しく強めるという事実が広く知られるようになれば、バッチ博士とルドルフシュタイナーがともに予言的に述べたように、未来の医学においては、外面的で物質主義的な処置を受けなければならないほどの疾患に至る前に、自己認識とレメディによってほとんどの疾患が、予防的に対処出来るようになるでしょう。

 第八章 レメディによる個性の強化

 私はここまで、私達が自らのエゴを十字架につけ、自らを空しくして神の御意志に従うことが人間が歩むべき道であると主張し、エゴを側面から力付ける、人間の外と内からの影響力を浄化するいくつかの方法を紹介し、またそのような浄化をより確実なものとするための素晴らしい手助けとしてのバッチフラワーの適応方法について説明を行いました。何人かの人は、ここまでの説明を読んで、それでは、私達人間は、だれもかれもが出家修行僧のように欲望を手放して没個性になってしまうのではないか?といった疑問を感じられたかもしれませんので、この点について補足の説明をしておきます。私は先に、易経の六十四卦をもとにして、人間の感情状態全体を見渡した時には、治療的介入が必要だと推定される「上なる人」と「下なる人」の組み合わせパターンが三十七種類になるという説明を行いました。また、既に日本語にも翻訳されている「バッチフラワーと占星学」などにも紹介されている事ですが、バッチフラワーレメディの内、最初に確立された十二種類、いわゆる十二ヒーラーズは、占星学における黄道十二宮の個性に対応しており、バッチ博士自身、彼の研究の前半期において、十二ヒーラーだけでほとんどの症例に対処しようとした一時期もあったようです。この事は、私達一人一人の人間が、レメディ一種類、一種類に個性があるように、どんなに自己浄化を促進したとしても、最後まで残る「その人らしさ」、「独自性」を個性の中心に持っているという事を推定させる事実です。私達は、自分にしか出来ない、人類の進歩の一瞬を担う目的をもって地上にやって来た存在です。一回の人生は夢のように過ぎて行きますが、それでも、その人生は幾多の人生の歴史の中で準備された一度限りの肉体を用いての、掛替えのない仕事です。ただ、その用意された肉体の個性を、十全に発揮出来る状態に保つ事が出来るかどうか、潜在的能力を十分引き出す事が出来るかどうかが、問題になります。バッチ博士が語っておられるように、個性の欠如の原因とエゴの発展はしばしば幼児期の家庭生活や幼児教育に端を発しています。そして、私達が本当の意味で私達自身の主導権を取り戻すのは、早い人でも二十五歳前後を過ぎてからの事になるということが、バイオグラフィーの研究などから判明しています。

私達の本質は、神の光、愛そのものであり、これは永遠に変わらない真実です。しかし、現代という時代は、その光りと愛を子どもが幼い日から覆い隠し消し去る方向で、教育に名を借りた洗脳が行われているような時代です。このような時代においてこそ、私達の真実の感受性と自分自身の存在を思い出させてくれるバッチフラワーレメディが必要なのです。神のなさる業は、すべて時に適って美しいという言葉のとおり、これからの日本の医療の中で、二十一世紀の世界の医学の中で、バッチフラワーレメディが果たす役割は、ほとんどの現代人の想像を超えるほど大きなものになって行くでしょう。レメディを愛し人々に広める友に幸いがありますように。

二〇〇七年八月二十六日 石川眞樹夫記


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