へんなからだ
この中編小説はまだ正式にデビューするずっと前に書いた小説です。時期的に言うと幻想文学に牧野みちこ名義でちょこっと載せていただいたぐらいのタイミングでしょうか。今読むと、何だか濃縮ジュースをそのまま飲んだような咽喉越しと後味の悪さを感じます。その後この小説の細部は他の短編や長編の一部に、それなりに書き換えて使ったりしました。そのために、短編集をつくるとしてもこのまま入れるわけにはいかないだろうなと思って、今回ここに残すことにしました。あれ、これどこかで読んだぞ、と思われた方。それは間違った記憶ではありません。
この物語はモリニエが自死した部屋のドアに貼ったメモの引用から始まります。ほらね、いかにも若書きでしょ。濃い生のままの牧野の小説を楽しんでいただけたら幸いです。
アカシヤの雨がやむとき
僕はシャハラザードだ。でも延命のために物語るのではない。それどころか僕は物語を紡ぎ出すごとにその命をすり減らしている。
すべての始まりは遠い昔。僕が十歳を過ぎたばかりの頃。父の仕事の関係でこの国に来てまだ間がなかった。父の役職は視学官だ。視学官というものがどんな仕事なのか僕は知らなかった。ただ何となく、学校の教師のようなものだろうと思っていただけだった(実際はこの国の教育に関する監督行政を司る公職だったのだが)。
この国に来ることが決まると、僕は友人たちに様々な忠告を受けた。
「あそこは病原菌の巣窟だぞ。コレラや赤痢ならまだましさ。僕らの知らないような恐ろしい伝染病の病人がうろうろしているんだ」
「野蛮な国さ。何しろ政府公認の盗賊がいるんだからね」
「知ってるか。あの国でお父さんが死ぬと、母さんもその子供も、つまり君も一緒に焼き殺されるんだぞ」
彼らは僕をおどかそうと思ったのだろう。だが残念なことに彼らのおどろおどろしく脚色されたこの国の噂話は、僕を楽しませこそすれ、怯えさせることはなかった。今でもそうだが、その頃から僕の理想とする未来は『この世で最も惨めな死』だったからだ。彼らの話は、僕が訪れる国が僕の希望を果たしてくれると保証してくれているようなものだった。その中でもひとつ年長の友人が語った話に僕は興味を持った。それはこんな話だった。
「なあエドワード(これは僕の名前だ)。知ってると思うが、あの国には無数の化け物がいる。奴等はそれを神と崇めているんだが、その中でも一番恐ろしいのはブラッディ・カーリーさ。カーリーは全身真っ黒で痩せた女の妖怪だ。四本の腕に肉切り包丁と生首を持って、首にはやはり生首のネックレス。腰には切り取った腕でつくったベルト。髪を振り乱し、長い血塗れの舌を突き出して人を食らうんだ。カーリーを崇拝する奴は、このカーリーに喜んで身を投げだし、食われるそうだよ」
異形の女神に食われる。その口の中で咀嚼される僕を夢想し、僕はいささか興奮したものだ。
だが、いざこの国に来てみると友人たちの語った恐ろしい物事は何も起こらず、ましてブラッディ・カーリーに出会うこともなく、退屈な毎日をおくっていた。その頃僕が熱中していたのは死んだふりだった。
死んだふりは楽しい。
息を詰め、横たわり、眼を開き、あるいは堅く閉じ、耳や鼻からつくりものの血(大抵はマーキュロームなのだが)を流し、じっと寝室や父の書斎や僕の部屋の机の下で待つ。誰かを待つのではない。本物の死が訪れるのを待つのだ。勿論、今ここで話をしているのだから僕の試みが成功することはなかったのだが。
その時僕は父の書斎でいつものように念入りに死体に似せ、堅いオーク材でできた、山に棲む大きな黒い獣を思わせるテーブルの下で横になっていた。ふと上を見上げると、テーブルの裏にちいさな銀のつまみがあるのに気づいた。
僕はそのつまみを回してみた。するとその周囲がごそっと抜け落ちてきた。僕は額をいやというほど、それで打ちつけた。それはテーブルの裏につくられた隠し戸棚だった。
その中に入っていたのは一冊の本。黒い皮の表紙には金箔で『過剰と不足の記録』と記されてあった。
僕はその分厚い本をぱらぱらとめくった。そこに書かれてあることの大半は、当時の僕には難解過ぎて到底理解できなかった。でもたったひとつだけ、そこに掲載されていた短編小説が僕の興味をひいた。そのタイトルは『夢見る死体』。
夢見る死体
海岸に望む崖の上にある寂れた遊園地を買い取ったのは、資産家でもある高名な魚類学者だった。彼はそこを水族館にするつもりだった。およそ四年の歳月を費やし、中国、ボルネオ、インド等、世界各地からありとあらゆる魚を収集してきた。そして完成を間近に控え、財産が底を尽きた。彼は株に手を出したが、それはかえって彼の首を締めることになった。結局彼は、その水族館の海亀のプールに身を投げて死んだ。
水族館の新しい主になったのは、イカサマ師扱いされることの方が多かった、悪名高い興行師だった。彼は新しい見せ物小屋としてこの水族館を大々的に宣伝した。
泥の中で眠る肺魚。樹上生活をするキノボリウオ。奇妙な形をした深海魚の数々。確かに見せ物たるべき珍魚、奇魚がここにはあったが、それ以上にこの水族館の呼び物となったのは、地下室に設けられた特別室の水槽にいる人魚である。
興行は大成功だった。水族館の前には連日長蛇の列が並び、駅から水族館の間を専用バスが何往復もした。賑わいは四ケ月続いた。しかし客は徐々に減っていき、やがて休日にさえ客が列をなすことはなくなった。そして専用バスが廃止され、客足は更に遠のいた。
原因は人魚にあった。
最大の呼び物であったその人魚は、水槽の底でただじっと仰向けに横たわり、ぴくりとも動こうとしなかったのだ。眠っているのか死んでいるのか、それさえも区別がつかなかった。客たちは皆不満をもらし、あれはただの人形だと騒ぎたて、中には入場料を払い戻せと怒鳴り込んでくる客もいた。
鳥籠から出た小人のハンスは、縮こまった両腕で首を揉みながら云った。
「アトラス、この水族館はつぶれるらしい」
「知ってるよ」
ベッドのわきに腰掛けた大男が答えた。
突き出した長い顎とひときわ大きく長い腕と脚。生まれた時から伸び続けた身長は優に二米を越え、小人のハンスの四倍はあった。二人は興行主に雇われたこの水族館の案内人だ。鳥籠に入ったハンスをさげ、客の先頭に立ったアトラスが館内を回る。ハンスは籠の中からかん高い早口で魚たちの生態をおもしろおかしく語る。
二人は今その仕事を終え、部屋に帰ってきたところだった。
「この水族館はどうなるんだろうな」
アトラスは大儀そうに伸びをしながら云った。
「親方のことだ。しばらくうっちゃっといて売りに出すんだろう」
「魚たちがかわいそうだな・・・人魚は、あの娘はどうなるね」
「おまえだって、役に立たないものに対して親方がどういう仕打ちをするのか知ってるだろ。五年前に見せ物小屋がつぶれた時、鴕鳥女のジョセフィーヌがどうなったか。覚えてるか」
アトラスは深い溜め息をつき、云った。
「ひどいもんだ」
「俺にちょっとした考えがあるんだ」
そう云って笑みをうかべるハンスに、アトラスは身体を乗り出した。
「ここは昔遊園地だった。今の地下室のあたりにモノレールがあって・・・」
二人の話は一晩中続いた。
翌日、深夜。
二人は地下室に忍び込んだ。
電灯をつけると、闇の中に筒状の水槽が浮かび上がった。そこに人魚がいた。金色の柔らかな髪が水の動きに合わせ、わずかに揺れている。腰のあたりから虹色に光る鱗に被われ、それは優美な曲線を描き尾鰭まで続く。整った赤い小さな唇と華奢な顎。閉じた瞼には海と同じ色をした青い瞳があるのだと、ハンスは夢想していた。
「ここだな」
云うと同時に、アトラスは地下室の壁にハンマーを打ちつけた。それを見て、ハンスは慌てて水槽の梯子を登った。
壁はアトラスの剛力の前にあっけなく崩れた。その向こうに部屋があるのを確かめてから、ハンスは水槽に飛び込んだ。
潜り、人魚を小さな腕で抱え、再び水面に上がってくる。
「アトラス」
大きく息をつき、彼は叫んだ。アトラスは人魚をハンスから受け取り肩に担ぐと、梯子を降り壁の向こうに消えた。
ハンスがその後に続く。
そこ、壊した壁の向こうには、かつて遊園地であった頃につくられたモノレールの駅がそのまま残されていた。電源はとっくに停められているが、ここから崖の端にある終着駅までは下り坂だ。モノレールを繋ぎ停めた鎖を千切れば、そこまでは勝手に走っていくはずである。
玩具のような流線形のモノレールに人魚はそっと寝かされた。ハンスが続いて飛び乗った。アトラスが斧で鎖を一気に叩き切る。
ごとり、とモノレールが音をたてた。
「早く乗れ!」
ハンスが叫んだのは、アトラスの後ろから興行主の呼ぶ声が聞こえたからだ。
アトラスは走った。ハンスはアトラスへと手を伸ばし、後ろから迫る興行主を見た。興行主は銃を構えていた。
アトラスの手がハンスの指に触れた。
銃声がした。二回した。
アトラスの手が離れた。ハンスは眼を閉じた。
眼を開いた時、水族館の灯りは星と区別がつかなくなっていた。ハンスは操縦室へと急いだ。月明かりに駅が見えた。その向こうは海だ。ハンスは力一杯ブレーキを引いた。
その手応えが急に消えた。ブレーキのワイヤーが切れたのだ。加速のついたモノレールは老朽化した駅の壁を突き破り、海へと落ちていった。その時人魚が眼を開いた。それはハンスの夢想したとおりの美しいブルーの瞳だった。
次の瞬間モノレールは海面に突きたった。
そしてハンスは見た。
無数の様々な畸形の生き物たちを。双頭の馬。四本足の鴕鳥。三つ眼の男。いびつに歪んだそれらの生き物たち。過剰な、あるいは欠如した器官を持ったそれら畸形のもの。滅び去り、消えていった役立たずたち。それらは皆、楽しそうに歌い、踊っていた。鴕鳥女のジョセフィーヌの姿もそこにあった。世界一の巨人アトラスが彼女を抱きかかえ、笑っていた。
ああ、これは夢なんだ。おそらくあの人魚の見ていた夢なんだ。あの小さな水槽の中でずっと見続けていた夢だ。
薄れゆく意識の中でハンスが最期に見たものは、あの人魚のブルーの瞳だった。
読み終わった僕の心臓はトクントクンと音をたてていた。顔が火照り、喉がひりひりするほど渇いていた。
今考えてみると、このセンチメンタルな小説にどうして僕がそれほど興奮したのか判らない。それでも、その時の僕は初めて男とねた時よりも興奮していた。
この小説にはいくつかの挿し絵が入っていた。いずれも歪み、膨らみ、変形しねじくれた肉体をもったものの姿だった。僕はこの小説のペエジを破り、ポケットにねじ込んだ。後はもとどおり隠し戸棚の中にしまった。それから頭の中にある液状の愉悦をこぼさぬよう、そっと自分の部屋に戻った。部屋に戻るとすぐに、僕は自分の身体をゆがめ、ねじり、それでもものたらず、ロープで縛り変形させ、あの挿し絵の人物をまねてみた。そして初めてのあれを経験したのだった。それを夢や幻覚と呼ぶのなら、現実の何と儚く希薄なものか。それは脳に直接沁み込むように僕を訪れた。初めはかすかな糞尿の臭いだった。そして景色が開け、物語が始まった。
かすかな糞尿の臭い。淀み湿った大気。その崩れかけた安アパートは捨て置かれ死にかけている老婆に似ていた。壁や床からじくじくと腐臭がにじみ出てくるそのアパートの一室に彼女はいた。アンジェリカという彼女の本名を知るものは少ない。〈脂の導師〉、それがここでの彼女のなまえだ。
〈脂の導師〉は全裸に紫のガウンをまとって部屋の中央に置かれたベッドに横たわっている。いつもだ。
部屋にはそのベッドの他に家具らしい家具はなにもない。ロマネスク風の彫刻が偏執狂的に施されたそのベッドは〈脂の導師〉を乗せ、大きくしなっていた。
〈脂の導師〉に『巨大な』という形容が使われるのは、彼女の偉大な知性を称える場合と、彼女の肉体を表現する場合がある。
彼女は脂をたっぷりと詰め込んだ巨大な風船だ。腹の肉はベッドの端からはみ出し二枚貝の舌のように垂れている。彼女の脚を判別するのは難しい。幾重にも連なる腹の肉襞の下にある二本の溶けかけたアイスクリームが彼女の脚なのだが。
黒い髪は後ろで束ねられているが、それは彼女の巨大な、象か何かの尻を思わせる顔に取りつけられた小さな黒いつまみのようだ。
客が来た。
上質のスーツを礼儀正しく着こなしたその男は、ぴかぴかの銀の鍋に山盛り入れられた挽肉をベッドの横に置いた。
〈脂の導師〉が身体を起こした。
ゆさり、とその肉が揺れ、波打った。
男は銀のポットからその挽肉に溶かしバターをたっぷりと注いだ。
〈脂の導師〉は熱に焙られた蝋の大木にも思える腕を伸ばし、挽肉を掴んだ。指の間からぽたぽたとバターがこぼれた。
彼女がそれを口腔に押し込むのを見ながら男は云った。
「偉大にして空虚な肉の女王〈脂の導師〉に問う」
壁の両脇につけられたロココ調の燭台の太い蝋燭に照らされ、彼女の肉に埋もれた小さな黒い瞳がちろちろと光っていた。
男は話を続けた。
「私は四○年生きてきましたが今まで一度たりとも幸福であると感じたことがありませんでした。私も人並みに喜怒哀楽を感じることはできます。ですが人の云う幸福というものを感じることができなかったのです。だから私は自分のことを不幸な人間だと思っていました。私にはそこそこの収入もありますし美しい妻もかわいい子供たちもいます。人から見れば幸福な生活を送っていると思えるでしょう。確かにそうなのかもしれません。ですが判らないのです。私には何が幸福で何が不幸なのか。私は欲深いのでしょうか」
〈脂の導師〉はバターでぎとぎとと光る唇を開いて、云った。
「幸福は様々な姿で我々を訪れる」
美しい声だった。少女期だけに持ち得る、澄んだ清浄な声だった。その声だけ聞いていれば、彼女が十四歳であるという話も信じられた。
「従っておまえにも、ある一つの形の幸福が姿を現しているはずだ。しかしそれはおまえにとって幸福とは見えなかった。それはおまえの望む幸福の姿と、今のおまえの肉体が一致していないからだ。望むならおまえの肉体をおまえの求める幸福にふさわしい肉体に変えてやろう」
男が答える前に〈脂の導師〉は両手を男の額の前にかざした。
と、男の腕が関節とは逆にくにゃりと曲がった。それから関節のない場所からも曲がり得ぬ方向に曲がっていった。次に脚が同様に折り曲げた針金のようにくねくねと曲がり始めた。男は死んだ蜘蛛のような姿になって叫んだ。
「これが!」
「そう。これがおまえの幸福にふさわしい姿だ。さあ、帰りなさい」
両手両足を複雑にくねらせながら、男は部屋から出ていった。
このように毎日毎日〈脂の導師〉の部屋には悩みを持つ客が訪れ、彼女の力によって回答を得て帰るのだった。その日も、この幸福を求める男を始めとし、頭の中に極彩色の鳥が棲みついて困っている弁護士、どの食べ物を見ても大便に見える貴婦人、事故で失った脚の代わりに二人の男を股につけて欲しいという老婆等等、七人の男女の悩みを解決し、それだけの数の鍋一杯の挽肉を食べた。
そしてその日最後の客は、がりがりに痩せてぼろをまとった少年だった。少年は私は医者だと名乗り、娘を捜していると云った。
〈脂の導師〉は何も答えず、ただ黙々と挽肉を口に運んでいた。
「判ったのかね」
少年は悲しそうに云った。
「勿論、私はすべてを知るもの〈脂の導師〉ですもの」
「私は恐ろしかった。死ぬのが、老いるのが恐ろしかった。だから若さと引き換えに悪魔に娘を売り渡した。悪魔は娘の身体の中から何もかも吸い取り、代わりにそこを脂で満たした」
「もう、終わりなのね」
「そうだ。もういいんだ。何もかも終わったんだからね。アンジェリカ」
少年は肉切り包丁を取り出すと、ベッドに腰掛ける〈脂の導師〉に近づいた。
「お父さん」
〈脂の導師〉が小さくそう云うのと同時に包丁は彼女の腹に突きたった。
少年が包丁から手を離すと、包丁はシャンパンのコルクのようにポンと派手な音をたてて〈脂の導師〉の腹から抜けた。それに続いてその傷口から白い脂が激しく吹き出した。
それは白い鞭となって少年の身体に叩きつけられた。少年は後ろの壁まで弾き飛ばされた。
それは〈脂の導師〉の中に秘められていた智慧だ。そこに宇宙の始まりから終わりまでのすべての記憶が記されている。
神の英智は白い濁流となって見る間に部屋を満たした。
窓枠がみしみしと音をたてたかと思うと、小さな窓は粉々に砕け、大量の脂は外へと吹きだし、霧状になって街に降り掛かった。
降りしきるの霧雨がやんだ頃、ぬめる道路を転ばぬよう注意深く、疲れ果てた一人の老人と白痴の少女が歩いているのを見たものがあるというのは、ただの感傷的な噂なのかもしれない。
そして僕は目醒めた。これが僕の初めての経験だった。ロープに縛られた脚が紫色に変色していた。
足音が聞こえた。メイドのドゥルガーが来たのだ。ドゥルガーはこの国の女だ。聞いた話では身分の高い家の娘で、ここには花嫁修行にきているのだということだった。
僕は慌ててロープを解き服を着ると、扉に耳を押しあて足音を聞いた。
足音は近づき、遠ざかっていった。
僕はほっと溜め息をつき、扉を背に腰を降ろした。
いったい何が起こったのか、僕にはさっぱり判らなかった。理解はできなかったが、それが僕にとって快楽であることに間違いなかった。何が起こったのかは、いずれ判ることだろうと思っていた。何しろ僕には時間がたっぷりあったのだから。
スワンの涙
ドゥルガーに買ってきてもらったコルセットをつくりかえるのに四時間もかかった。しかしそれだけ苦労したかいのある出来となっていた。僕のウエストはこれを締めることで僕の首よりも細くなるのだ。
裸になり、息を吐き、肋骨を上げ、紐を順に締めていき、これもまた最近買ってもらった全身映る姿見の前に立つ。
鏡の中にあるのは、僕の砂時計のようになった身体。
眩暈がした。
それは腰をきつく締め上げているためばかりではなかった。
陽に焼かれた砂のにおいがした。続いて肌をちりちりと焦がす太陽の光を感じた。次の物語が始まった。
広大な砂漠の中のシミのような村だった。
かすかな水分を求め生きるひとかたまりの貧弱な黴にも似ていた。それは惨めな、希望のかけらもない人々の住む村だった。
村の外れに肉屋があった。肉屋の主人はハリというなまえの中年の小男で、てらてら光る禿げ頭と細く吊り上がった眼のために爬虫類を思わせる風貌を持っていた。
ハリはこの村で生まれた。
彼の祖父がその息子とともにこの村を訪れたのは百年以上も前のことだ。その頃この村では、たちの悪い伝染病が流行っていた。
ハリの祖父は呪術医だった。彼の力で村に流行った伝染病は治まり、死にかけていた病人も甦ったという。そして祖父たちはこの村に住みつくこととなった。
肉屋を始めたのは彼の父親カイラシュだ。祖父の持っていた不思議な力を受け継ぐことはなかったが、そのかわり彼は商才に富んでいた。
肉屋は繁盛し村人にも評判がよかった。だがカイラシュは、商売は別として人付きあいはよくなかった。祖父がいた時は村人たちを食事に招待したり、何もなくても人々が集まってきて歓談したものだったが、カイラシュが肉屋を始めてから村人は彼と個人的に付きあうことはなかった。
そしてハリが生まれた。
ハリの母親は誰なのか。それがしばらくの間この村人たちの第一の関心事だった。それに関して様々な噂が流れた。初めはどこかの孤児を拾ってきたとか、村人の誰かに生ませた子だとか、まともな噂だったが、時が経つにつれ奇怪な噂が生まれ、そしてやがてそれらが噂の主流となった。
・ある日カイラシュのもとを訪れた神が彼に子供を授けた。
・カイラシュはジャッカルと交わっていた。そしてジャッカルに生ませた子供がハリである。
・カイラシュには隠された妹がいた。それがカイラシュの妻で、だから彼は妻を人前に出すわけにはいかないのだ。
・カイラシュは実は女である。そして彼女のもとに村人の誰かが通い、とうとう子供を生ませた。その証拠にカイラシュはハリが生まれる数日前から店を休みにしていた。
結局村人たちは退屈していたのだ。ハリは無聊を慰めるかっこうの材料となったのだ。だがこのような噂もいつかは消えていく。カイラシュが死に、ハリが店を継ぎ、ハリの母親は誰か、というような話は誰の口にものぼらなくなった。
ハリがカイラシュから受け継いだのは、肉屋と人付きあいの悪さだけだった。彼の商売がうまいとは誰も思わなかった。だが、小さな村に肉屋は一軒しかなかったし、村人は彼の祖父への恩義を忘れてはいなかった。
ハリは細々と肉屋を続けていた。
ハリの肉屋にキショールが来たのは七年前のことだ。キショールは痩せた色白の青年だった。陽に焼けた金色の荒れた髪がその頬の痩けた小さな顔を包んでいた。
どういういきさつかは判らないが、キショールはハリの肉屋を手伝うこととなった。他人の食い扶を養うほどハリが稼いでいるはずがない。と、これもまた新しい噂となり、ハリの母親は誰か、という話と絡まって、かなり複雑な長い物語が生まれた。そして、その噂は消えることがなかった。
そして七年が経っていた。
ハリの店をひとりの旅人が訪れた。一杯の水を乞うためだった。ハリの店は村の外れにあり、時折このような旅人が訪れることがあった。
夕暮れだった。砂漠の夜は冷える。旅人たちは昼の猛暑で体力を搾り取られ、夜に凍死することがままあった。
旅人はエドモンドと名乗った。台所で水をもらい、ここで泊まっていってはどうかと、ハリに誘われた。
喜んで。彼はそう答えた。
その夜。エドモンドは与えられた寝室でぐっすりと眠っていた。脇腹を蹴られた時も、起きろと怒鳴られた時も、エドモンドにはそれを現実と判断できなかった。
「ようこそ。ハリの肉屋へ」
眼の前にハリのぬめっとした顔があった。ハリはエドモンドの胸倉を掴み持ち上げた。
「この部屋で兄貴は死んだんだ。兄貴は馬鹿だったからな。おまえが兄貴ほど馬鹿じゃなきゃいいんだがな」
ハリの後ろからキショールが顔を出した。客の前で父親の後ろに隠れる息子のようにはにかんでいた。だが彼の手に持たれたものは決して照れ屋の子供が手にするようなものではなかった。
それは肉切り包丁だった。
「ハリ」
キショールは囁くようにそう云うと、ハリに包丁を渡した。
「とりあえずは」
ハリが包丁の背をエドモンドの頭に叩きつけた。エドモンドはぐったりと動かなくなった。ハリは手早くエドモンドの脚を縛りあげた。
「キショール。脚を持て」
二人はエドモンドを倉庫に運び込んだ。幾つもの肉塊が鉤で宙吊りにされていた。
床にエドモンドを降ろすと、包丁を振り上げ、ハリはこともなくエドモンドの右腕を切り落とした。
エドモンドが絶叫した。残った腕をぐるぐると振り回し焼き殺される蛇のようにのたうった。
「おい、キショール。猿轡はどうしたんだ」
「だってハリが何も云わないから」
「俺のせいにするのか」
ハリに盻まれ、キショールはふくれっ面をしながらエドモンドの口にぼろ布を押し込んだ。
ハリは続いて左腕を落とした。
キショールは木製の桶を持ってきて流れる血を受けた。エドモンドは再び気を失っていた。
「親父のところに連れていく前にこうしておかないとな。前に親父の首を締めようとした馬鹿がいてな。腕が無ければどんな馬鹿でもいくらかは賢くなるもんだ」
キショールが息の漏れるような笑い声をあげた。
激しく出血する肩の傷を布で堅く縛って、二人は再びエドモンドを持ち上げ、二階へと上がっていった。二階の奥にある扉には鶏の乾燥した頭が釘で打ち付けてあった。その扉を押し開け、二人は中に入った。
壁には束ねた頭髪や、顔の皮を剥いでつくった仮面や手袋、それに靴などが隙間なく飾られていた。板を打ちつけ光の入らない窓の棧には歯がずらりと並べられ、大口を開いて笑っているように見えた。
部屋の床にはなめした人の皮が敷きつめてあった。その上にあるのは無数の人骨でつくられたロッキングチェアーだった。ロッキングチェアーには古ぼけてはいるが清潔な背広を着たミイラが座っていた。
「親父にあれを」
ハリに云われ、キショールはその顔を見返した。
「判らんのか。血だ!早くしろ、馬鹿者」
ハリに怒鳴られ、キショールは慌てて部屋を出ていった。
ハリはエドモンドのベルトをはずし、ズボンを降ろした。痩せた尻が剥き出しになった。キショールがコップ一杯の血を持って入ってきた。
「早く親父に」
キショールはそのコップをミイラの、裂けめにしか見えない口にあてがった。するとミイラはその裂けめを開き、喉を鳴らして血を飲んだ。
骨に直接、朽ちた材木のような肌を貼りつけたようなそれは生きていたのだ。くぼんだ眼窩の底で石のような黒い瞳が動いた。
「久ぶりだろ。親父」
ハリの声に応じるように、その〈親父〉はのそりと椅子から立ち上がった。もどかしそうにベルトをはずしズボンのボタンをはずした。そこからねじくれた枯れ枝のような男根が現れた。
ハリはエドモンドの身体をうつ伏せに寝かせ、その尻を持ち上げた。よたよたと歩いてきた〈親父〉はエドモンドの尻を抱え、そこに男根をねじこんだ。エドモンドが目醒めた。しばらくは何が行われているのか判らないようだった。肩越しに後ろを見た。それでようやく理解し、悲鳴をあげようとした。しかしそれは喉まで突っ込まれた布に遮られ、弱々しい呻き声にしかならなかった。エドモンドは激しく暴れたが、〈親父〉はよほど強い力で彼を押さえているらしく、その尻が〈親父〉から外れることはなかった。
腰をぎくしゃくと動かす〈親父〉を見、笑いながらハリは服を脱いだ。キショールがそれに続いた。ハリは乱暴にキショールを押し倒し、その上にのしかかっていった。
〈親父〉がエドモンドを離すまでに二時間は経過していた。〈親父〉はエドモンドから手を離すと男根をズボンに仕舞い、律義にボタンをしめると椅子に腰掛けた。
「さあ、始まるぞ」
ハリは仰向けになったキショールの両脚を肩に乗せ、あらわになった肛門を指で突き刺しながら嬉そうにそう云った。ハリの顔の前には何かの標識のようにキショールの男根がつき立っていた。
祈るように額を床に着けうつ伏せになったエドモンドの顔色は、すでに生者のものではなかった。
その身体がびくりと揺れた。
自らの力で動いたのではなさそうだった。
身体の中の何かがそうさせたのだ。
彼の腹が脈打った。脈打ちながら膨らんでいった。またたく間にエドモンドの腹は鞠のように膨れ上がった。
裸のままの彼の尻の間。茶色の皴だらけの穴がぎりぎりまでひき伸ばされ、そこから何かが顔を出した。
ぴっと肛門が裂けた。血が丸い珠となり、彼の白い尻を伝いぽたぽたと落ちた。
エドモンドの尻から顔を出したそれは、するりと床に滑り落ちると、発狂した猫のように泣き喚いた。血と糞にまみれたそれは、白い肉の塊だった。腕とも脚ともつかぬ肉の突起をばたばたさせ、その肉塊はうごめいた。産毛の生えた頭と思しき部分は、眼だの鼻だの口だのといったものを一揃い持ってはいたが、そのどれもがでたらめな位置についていた。
ハリはキショールの身体を投げ捨て、それに近寄るとぐいと踏みつけた。茶褐色の体液が流れ、それは動かなくなった。
「親父よ。もうこんな出来損いしかできないのか。ええ、いつ俺の弟をつくってくれるんだ」
〈親父〉は何も答えようとはしなかった。
「キショール。こいつを倉庫に持っていって臓物を抜いておけ」
「僕ひとりでかい」
「おまえひとりでだ。さっさといけ。そのまま時間が経つと肉が臭くなっちまうだろ。肉が売り物にならなくなったらおまえのせいだぞ」
ハリに怒鳴られ、キショールは服も着ずにエドモンドの死体を抱え部屋を出ていった。
村の南に銅山の採掘場がある。村の男たちの大半がその銅山で働いていた。陽が昇る前に村を出て闇に包まれる前に帰ってくる。その繰り返しだった。きつい仕事だった。銅山で命を失うものも多かった。何の保証もなく未来の見えない仕事だった。誰もがそれを望んでしているのではなかった。それ以外に生きていく道がなかったからだ。
昔、遥か昔。村人たちの祖先は砂漠を旅する遊牧民だった。それが政府の行政の都合により定住することを定められた。そしてこの村が出来た。
その肝心の銅山が廃坑になることが決定された。それもまた政府の都合だった。その身勝手な政策に怒りを覚えるだけの覇気が村人たちにはなかった。村人たちは地に這う虫のような存在だ。だが虫のような存在であるという事実よりも、それを自覚してしまったことが村人たちの不幸だった。
以前にも増して深い絶望が村をおおっていた。そんな時にスワンはこの街に現れた。スワンは透けるように白い肌を持った美しい青年だった。その豊かな髪は蜘蛛の糸よりも細く、照りつける陽光がそれを金色に輝かせていた。スワンは詐欺師だった。救世主と称して人々から金を集め逃げる。それがいつもの彼の手口だった。この村を訪れる旅人のほとんどがそうするように、スワンもまたハリの肉屋に行き、水を乞うた。ハリはスワンを家に招き、一夜の宿を提供した。
そして真夜中、ハリとキショールはいつものように客の寝る部屋を訪問した。スワンは目醒めていた。
「そんなことだと思った」
スワンは笑みを浮かべて云った。
「どう思ったんだ」
「残念だけど、僕は金も金目のものも何も持っていないよ」
「そんなものは必要じゃないんだよ」
後ろから口を出したキショールをハリは盻みつけた。
「俺たちがおまえに求めるものはそんなものじゃないだ」
ハリは改めてそう云い、肉切り包丁を取り出した。
「成程」
スワンは平然とそう答えながら、頭の中では生き残るための方法を必死になって考えていた。
「しかし僕は犠牲者よりも加害者のほうがむいているんだ。どうだい。犠牲者になること以外で僕があんたに協力できることはないかい」
「それはつまりこういうことか。『俺も仲間にいれてくれよ』って」
スワンは今までに何百人もの人間の信用を勝ち得た、得意の笑みを浮かべた。
「ほう。それでおまえが何の役に立つというんだ」
「さあ、それは僕に任される仕事しだいだけれど、少なくともあんたの後ろにいる男よりは役に立つと思うがね」
ハリは後ろから腕を掴むキショールの顔を見た。キショールは何か云おうとしたが、ハリに盻まれ視線を逸らした。
「おまえは今までの客の中じゃあ一番賢い男のようだな」
「それに僕は綺麗だ。勿体無いと思わないかい。死んだ僕じゃ、あんたもあんまり楽しめないぜ」
ハリは笑った。鳥のような笑い声だった。
「よし。おまえを仲間にするかどうか親父に聞いてみよう」
ハリは出ていった。残されたキショールは包丁を片手にスワンを盻んでいた。会話を楽しむ雰囲気ではなかった。ハリはすぐに戻ってきた。
「いいだろう。仲間にするかどうかは最初の仕事を終えてから決めよう」
三人の生活が始まった。
キショールの露骨な嫉妬も敵意も、スワンは海岸から吹き上げる風よりも気楽に受け流した。一週間もせずに一人の旅人がハリの店を訪れた。それまでに一応の手順を聞いていたスワンはハリの期待以上に仕事をうまくこなした。手持ち無沙汰のキショールは何度か手を出そうとしてハリに怒鳴られた。
人の皮膚と人骨に飾られた部屋に初めて入った時は平然としていたスワンも、血をすすり、ミイラ同然の〈親父〉が動き出した時には驚愕を隠せなかった。
「あんたの親父っていうが、カイラシュはとうに死んでるんじゃないのか」
「そんな話をどこで聞いた」
「肉を買いにきた客にさ」
「村の奴等が親父だと思っているのは俺の兄貴のことだ。兄貴は確かに死んだ。馬鹿なやつさ。そこにいるのが本当の親父だ。村の奴等は俺の爺さんだと思ってるようだがな」
「どういうことだ。あんたの爺さんはあんたが生まれる前に死んでるんじゃないのか」
「見てりゃ判る」
〈親父〉は両腕のない旅人の尻を抱え、腰を動かし始めた。
ズボンを降ろそうとしたキショールをハリは殴りとばした。
「おまえにはうんざりだ。さあ、スワン。おまえの仕事ぶりを見せてもらおうか」
スワンは躊躇なくシャツのボタンをはずしだした。ゆっくりと一枚ずつ服を脱ぎ捨てていくスワンを好色な眼で見ていたハリは、現れたスワンの裸身に生唾を呑んだ。引き締まった筋肉が白く薄い肌にきちんとおさまり、それは確かにスワンと呼ぶに相応しい肉体だった。
「後ろを向いて跪け」
ハリの声が欲情にかすれていた。スワンはハリの云いなりに次々と姿態を変え、彼を受け入れていった。ハリがスワンの睾丸を口腔に含み、そのいちもつを激しくこすりあげていた時だった。突然悲鳴のようなかん高い叫び声をあげ、キショールがスワンに飛び掛かった。ハリは眼の前の蝿を追うより気軽に包丁を持った手を振った。彼は抜かりなくキショールを監視していたのだ。キショールの右腕が冗談のように部屋の隅に飛んだ。キショールは肩を押さえ、獣じみた悲鳴をあげながら床を転げ回っていた。
スワンがハリの下からするりと抜け出て、云った。
「後は僕にまかせて」
スワンはハリから包丁を受け取りキショールの横にいくと、あばれる彼の胸を膝で押さえ、残った腕を左手で掴んだ。スワンは見かけ以上に力があるようだった。それだけで身動きできなくなったキショールは裏返った虫のように脚をばたばたと動かせた。聖母のような微笑みを浮かべ、スワンは囁くように云った。
「アッサラーム・アレイクム」
肉切り包丁がキショールの首に叩きつけられた。
限界まで両目を見開き、絶叫の形に開かれた唇から赤黒い舌を突き出したキショールの生首がごろりと横を向いた。
むせかえる血臭に糞尿の臭いがまじった。
失禁と脱糞にキショールのズボンが膨れあがっていた。
「行儀の悪いやつだ」
スワンの台詞にハリが再び笑った。その血のにおいに興奮したのか〈親父〉はいつもより早く事を終え、客から身体を離した。
「見てろよ」
愉快でたまらん、といった顔でハリが云った。それを見てもスワンはあまり驚きはしなかった。どこかでスワンはそうなることを予期していたようだった。それよりも平然とそれを見ていることにこそ驚いていた。その旅人から生まれたのは一応人の形をしていた。しかしその身体中に幼児の小指のようなものがびっしりと生えていた。それには一本一本、小さな爪がついていた。ハリはズボンを上げながらそれに近づいていった。
「こうやって俺は生まれたんだ。糞袋の中からな」
そう云うと無造作にそのうごめくモノを踏み潰した。
「親父は呪術医だった。兄貴を連れてここにきた親父は、村のために骨身も惜しまず働いた。無償でな。そして兄貴を残して死んだ。おまえも店に来るお喋りな客から聞いてると思うが、親父は聖人のように村人から慕われていた。まったくご立派な人間だったらしいさ。で、その親父が死んで三日目、親父は帰ってきたんだ。自分で墓を掘りかえして、この家までな。生き返った親父は男色家の色情狂で、血と人殺しの好きな、ほら見なよ。あのとおりの親父だった。良いことをやり過ぎたんだよ。人間、善と悪、うまいことバランスとって生きてるんだ。善人ばっかりやってた分、後でその皴寄せがきたんだな。兄貴は俺と違ってまともに女の腹から生まれたらしい。まともな人間だったってわけだ。兄貴はそれでも親父の面倒を見た。父への愛ってやつさ。親父が望むままに客が来たら親父に与えてたんだ。親父が男とナニすると、さっきみたいな出来損いが出来た。ところが何の偶然か俺みたいなきちんとした人間が出来ちまった。それまでの出来損いはさっさと始末してたらしいが、俺を始末することはできなかった。馬鹿なやつさ。大きくなった俺は親父そっくりだった。今の親父にな。殺した人の肉を店で売りに出すことを考えたのは俺さ。親父は喜んでくれたさ。ところが兄貴はそうじゃなかった。俺たちを化け物よばわりし、あの日とうとう俺と親父を殺そうとしやがった。本当に馬鹿なやつさ。で、反対に俺に首を切られて店先に並ぶことになったのさ。さあ、これで何もかも話したんだ。相棒。裏切ろうなんて気を起こすんじゃないぞ」
勿論スワンにはこんな親子と一生暮らすつもりはなかった。用意は周到だった。村の薬屋で手に入れた毒を夕食に混ぜたのだ。ハリが苦しみもがくのを見て、スワンは嬉嬉として罵詈讒謗を浴びせた。そして、そしてハリは何事もなかったかのように立ち上がり、スワンを殴った。何度も殴った。ハリは毒物を受けつけない身体だった。ハリは女の腹から生まれた人間ではないのだ。どんな毒物もハリを死に至らしめることはできなかった。それを知らなかったスワンの不運だった。スワンは食肉倉庫に連れられ、鎖で吊された。ハリは何時間もかけてスワンに拷問をくわえた。スワンは命乞いを繰り返し、何でもするからと許しを乞うた。ハリにはスワンを殺すつもりはなかった。しかしスワンの皮を削ぎ、殴り、首を締め、犯し、そのうちに自分でも何が何か判らなくなるほどに興奮し、気がつくとスワンは息絶えていた。お気に入りのグラスを割ったぐらいには後悔しながら、ハリはスワンの首を落とし、臓物を掻き出した。
「聞け」と声がした。
ハリはあたりを見回した。
「聞け」と再びそれは云った。
喋っているのはスワンの生首だった。「聞け」とそれは三度云った。
「ハリよ。哀れなハリよ。私を掲げ、村に出よ」
神神しい声だった。
信仰心などかけらも持ちあわせていないハリだったが、自然に頭が下がっていた。
銅山が閉ざされ一週間が経とうとしていたが、村人たちは未だこれからの身の振りかたを考えつかず、ただ貯えを少しずつ削りながら、日々を過ごしていた。不安だった。不安だったが何をすればいいのか判らなかった。そのままにしておけば、みんな餓死するまでここに留まっていただろう。だがそうはならなかった。ハリがスワンの頭を差しあげ、村の中央にある広場にやって来た。
「集え」
スワンは云った。怒鳴るわけでもなく、大声を出したわけでもなかったが、その声を村中の人が聞いた。そして皆広場に集り、生首を持つハリを囲んで大きな輪ができた。
「聞け。村人たちよ。おまえたちがこのハリたち一族に関して伝える話があろう。このハリの祖父は神の使徒であり、いつかこの村の危機が訪れる日まで生きながらえていると。そのために彼は土をこね、彼の世話をする人間を二人つくった。ひとりはカイラシュ。ひとりはこのハリ。聞け。村人よ。時は来た。このハリがおまえたちを救う」
おお、と村人たちが声をあげた。
「ハリは神の肉屋だ。ハリの手によっておまえたちの身体は一塊の肉となる。神に召される肉塊。それこそおまえたちの使命であり希望だ」
村人たちの呟きが聞こえ始めた。
「俺たちは肉だ」
「肉塊だ」
「俺たちの身体は」
「俺たちの希望は」
「俺たちの使命は」
声は徐々に大きくなり、やがて村人全員の合唱となった。
「俺たちは肉塊だ」
「ハリ。俺たちを肉に変えてくれ」
「神の肉塊に変えてくれ」
「さあ、ハリ。家に帰ろう」
スワンに促され、ハリは彼の店に戻った。すべての村人を従えて。整然と店の前に並ぶ村人たちを、ハリは順に肉へと変えていった。馴れた作業ではあったが、それでもすべての村人を肉塊に変えるのに丸一日かかった。倉庫は人肉ではちきれそうになった。すべての作業を終えたハリに、スワンは云った。
「これでおまえの役目も終わった。ハリよ。哀れなハリよ。眠りに就くがいい」
スワンの眼からぽろぽろと涙がこぼれた。
泣き終えると、それは再びただの死者の首に戻った。
疲れきったハリは〈親父〉の部屋へと向かった。扉を開けると〈親父〉は骨の椅子の上に乗ったひとかたまりの土塊となっていた。ハリはその土塊に頭を乗せ、眠った。
目醒めた僕が初めに見たのはドゥルガーの顔だった。この国のどこにいってもある女神の像にそっくりの整った顔だった。ただひとつ違うのは女神の肌は白いのに、彼女の肌はチョコレートのように褐色なことだけだ。
僕はその顔をしばらくぼんやりと見つめていた。
「坊っちゃま。大丈夫ですか」
微笑むドゥルガーを見て、僕は彼女が僕のことを何もかも知っているのに気づいた。いや、僕に関して、僕の知らないことも彼女は知っているに違いない。
「コルセットはあそこに置いておきました。また御用があれば、私を呼んで下さい」
彼女はそれだけ云うと部屋を出ていった。僕はこれからの彼女との付き合い方を慌ただしく考えていた。
虹色の湖
暇さえあれば僕は何かを口にしていた。こっそりと部屋にドゥルガーが運びこんでくれる食物の数々。山盛りの御飯にサンバという鶏肉や羊肉の油でぎとぎとした豆のスープをかけたもの(サンバに飽きるとヨーグルトをかけた)。ギーという名のバター油に干しショウガと蜂蜜をまぜたもの。黒っぽいパンに似たチャパティに煮込んだ野菜や肉をかけたもの。牛乳を使った菓子の類。
お坊ちゃまは何でもお召しあがりになるから私は好きですわ。ドゥルガーはそう云うと完璧な笑みを浮かべる。豚のように食べ続けて二週間以上経つ。僕は徐々にその食欲に相応しい身体になりつつあった。
太りたいと思ったのは、腕や胸や腹に食い込む縄を見た時だった。いくらきつく縛っても、痩せて華奢な僕の身体はたいして変形しない。僕はくびれた肉が縄をおおい隠してしまうような身体が欲しかった。僕の試みはドゥルガーの協力もあって着実に成果を上げていた。僕の体重は日毎に増していき、今では腹の肉や胸の肉が片手でたっぷりと掴めるほどに肥えていた。両親が僕の体格の変化に気づいているのは確かだった。一度母親は僕を見て『食べ物を控えたほうがいいわね、エドワード』と云った。だが、それだけのことだった。
僕はドゥルガーと部屋にいた。何も身に着けていない。裸だ。僕の指も、腕も、腹も、背中も、胸も、首も、顔も、余分な脂肪をたっぷりと詰め込んでいた。ドゥルガーが僕に猿轡をした。その猿轡にはゴムの栓がついていて、それは僕の口の中に押し込まれ、口腔いっぱいの栓が僕の舌を押さえつけた。僕はその栓を噛み締めた。ゴムの匂いが口の中に広がった。
「お坊ちゃま。床に跪いて、頭を下げてください。そう。前に手を伸ばして」
僕はメッカではなくドゥルガーに向けて祈りを捧げるべく、額を床につけた。さし伸ばした両手首がドゥルガーによって縄で縛られた。その縄は天井の滑車に伸び(この滑車も彼女によって取りつけられたものだ)、その端はドゥルガーの手に握られている。
ドゥルガーが縄を引いた。僕はマリオネットのように両手を頭上に上げていく。更に縄は引かれ、僕は立ち上がった。それでもおいつかず、僕は爪先立ちになった。ドゥルガーは容赦なく僕を吊り上げた。僕の全体重が縛られた両手首にかかった。あまり苦痛は感じなかった。
僕の前には全身の映る姿見がある。そこに肉屋の倉庫に吊された豚のような僕の姿があった。
ドゥルガーが革紐を取り出し僕の頭に巻いて縛った。
続いて顔。
それから順に下へと等間隔に何本も何本も革紐で縛っていく。
革紐は僕の肉に埋もれて見えない。
僕は芋虫のような節のついた奇妙な生き物になった。
ドゥルガーは僕の下腹のあたりに掌をかざした。
「お坊ちゃまのここに一匹の蛇がいます。蛇はいずれ目醒め五つの輪を通り頭へと昇っていくでしょう」
彼女の手の当る部分が熱く感じられた。
「眼の中の小人はその時此の世の全て、天や地や風や火や、そしてそれらを総べる宇宙の源と交わります。すべてこれ歓喜なり。そうですわね。お坊ちゃま」
僕の口は猿轡で塞がり、返事のしようがなかった。
その代わりにあれが始まった。薬臭い刺激臭を感じた。涙がでるほど鼻の奥を突き刺すその臭いと黒々と空に昇る煙……。
そこに工場が立ち並び始めて二十年あまり経つ。神に挑んで建てられた塔のような高い煙突が空を貫き、青黒い煤煙を吐き出し続けている。空は厚い雲におおわれ、久しく太陽が姿を見せたことはなかった。
刺激臭は街に満ち、年中夕暮れのこの街を訪れる者を閉口させた。だが街の住人はその臭いにもすっかり慣れてしまっていた。何しろ工場が出来たからこそ、この街は生まれたのだ。この街に住む男はすべて、女も大半がこの工場のどこかで働いていた。
『工場の中の悪臭に比べれば街は天国のようなものだね』。
よそ者にこの街の臭いのことを聞かれると、男たちはきまってそう答えるのだった。この臭いに慣れていることを誇りにさえ思っていた。
工場群のあるところはかつては森だった。巨大な樹木を根こそぎ切り倒し工場は造られた。森の近くにあった湖は、鳥が群れ、無数の魚たちが泳ぐ姿を見ることができる澄んだ水をたたえていたが、工場の流す廃液で青緑色に淀み、水面は厚く油膜に被われた。
湖のそばに粗末な小屋があった。ビーマという力自慢の初老の男がひとり、そこで暮らしていた。若い頃ビーマは猟師をしていた。森で獣を狩り、街で売る。この街でたった一人、工場ができる前にこの土地に住んでいた人間だ。森は工場に変わってしまい、ビーマは猟ができなくなってしまった。それからは街の他の人々と同じく工場で働いている。
ビーマはそのことを苦とは思っていなかった。すべては神の決めたことだ。いつもそうであるようにビーマはその時もそう思った。
工場ができて十年ほど経ってから、湖で人魚が繁殖し始めた。何十何百という人魚が油に濡れた銀の鱗を輝かせ水面を泳ぎ、岸の岩場に腰を降ろし、黒く長い髪についた野菜屑のような緑の藻を取り合っては歌うとも叫ぶともつかぬ声を上げて戯れていた。
繁殖した人魚にビーマはさして興味を持っていなかった。時々それを捕らえ食べるくらいのものだ。その白い肉は鶏に似て淡泊な味がした。
岸辺で倒れている人魚を見つけたのは、工場からの帰りだった。
すでにとっぷりと陽が暮れていた。人魚は脇腹に怪我をしていた。皮膚が裂け内臓が顔を出していた。何故その時、その人魚を救ってやる気になったのかビーマ自身にも判らなかった。とにかくビーマは人魚を連れて帰り、身体の泥を拭って、腹の傷を木綿糸で縫ってやった。
ビーマは人魚の顔についた泥を拭ってやった時、初めて人魚が美しい生き物であることを知った。
杏型の大きな眼。黒く愛らしい瞳。鼻はいくらか高慢そうに高く、厚い唇は血のように赤かった。
ビーマは欲情した。人魚の下腹の更に下、そこに傷のような小さな裂けめがあった。ビーマがそれに挿入すると、裂けめの上から、にゅう、と桃色の枝のようなものが突き出てきた。それは人魚のペニスだった。
ビーマは人魚の豊かな乳房を掴み、腰を揺らした。人魚は小鳥のような声で喘いだ。人魚のペニスが黄土色の精を放つのとほぼ同時にビーマは果てていた。
翌晩、ビーマが家に帰ると人魚が待っていた。間違いなく昨日の人魚だった。脇腹に大きな傷痕があった。ビーマは再び人魚と交わった。毎晩、毎晩、人魚はビーマの家を訪れて、事が終わると這って湖に帰っていった。十二日間それが続いた。そして十三日めに人魚はばったりと来なくなった。
何日かは仕事の帰りに、湖に沿って続く道を歩きながらあの人魚の姿を捜したりもしたが、すぐにそれもしなくなった。ビーマは人魚のことを忘れかけていた。
一ケ月が経った。ビーマが家に帰るとあの人魚が待っていた。傷はすっかり治っていたが、その腹は満月のように膨れていた。
人魚は苦し気に顔をしかめた。
ビーマは人魚が助けを求めているのが判った。だがビーマにはどうすれば良いのかが判らなかった。産婆を呼ぼうかとも思ったが、産婆が人魚の出産を手伝えるかどうかは疑問だった。ビーマは決意し、桶に水を汲んで待った。
何度めかの陣痛に人魚は苦しみ、尾鰭をばたばたさせて暴れていた。ビーマは人魚の肩を押さえた。押さえて、大丈夫だ、大丈夫だと、何度も声を掛けて励ました。やがて下腹の亀裂から肌色の玉のようなものが顔を出した。
ビーマは卵が産まれるのだと思っていた。
が、そこから出てきたものは小さな腕と脚を持っていた。ビーマはそれを取り上げ、桶で身体を洗った。身体には毛が一本もなく、濡れてつるつるした半透明の皮膚の下で、赤黒い心臓が脈打つのが見えた。そのおたまじゃくしに似た顔の白く濁った硝子玉のような眼は視線が定まらず、常におちつきなく動いていた。唇も歯もない小さな口を開け、それは発情した猫のように泣きだした。
人魚は後産を済ませ、血と肉と汚物を残して湖に帰っていった。
ビーマがその異形の赤ん坊を育てようと思ったのは、赤ん坊には右耳がなく、そこには腐った茸のような小さな肉の塊があるだけだったからだ。ビーマの右耳も生まれつきそれとまったく同じ形をしていた。
男か女かの区別もつかなかったが、ビーマはそれにクンデラと名付けた。
クンデラは身体が乾くと激しく泣くので、いつも濡れた布にくるんでいた。それ以外、クンデラはまったく手間のかからない子供だった。朝、働きに出る前にミルクをやり、帰ってからまたミルクをやる。ビーマがクンデラにしてやれることはそれぐらいだったが、それで充分なようだった。
クンデラは健康だった。一度も医者にかかることがなく、風邪さえひいたことがなかった。だがクンデラは大きくならなかった。いつまで経っても成長することなく、赤ん坊の姿のままだった。
外交的だ。陽気で人あたりがいい。それがバートンに対する回りの者の評価だった。確かに彼はそのとおりの人間だったが、それだけの人間ではなかった。バートンは野心家だった。そして、それを人に悟られるような馬鹿でもなかった。今、彼はひとつの工場を任されていたが、決してその地位に満足はしていなかった。彼はいずれはその会社の持ち主になるつもりだった。その工場だけではない。この国にある工場全部、いや、彼の頭の中には、世界をその手中に収める、という子供っぽい野望が宿っていた。
バートンは湖の人魚に眼をつけていた。あれを食用肉として売りに出せば儲かるのではないか。それがバートンの考えだった。彼はさっそく人魚を捕らえ、試食してみた。あっさりとしたその肉はあらゆる料理に応用できそうだった。これを缶詰めにして彼の国に輸出すれば間違いなく売れる。バートンはそう確信した。
バートンは人魚の捕獲の許可を取ろうと画策した。人魚を捕獲するためには湖の所有者の許可が必要だった。湖の所有者はビーマというこの国の男だった。さっそくバートンはビーマと話をつけに行った。浅黒い肌と年のわりにはよく発達した筋肉を持った白髪まじりのその男を見て、バートンはほくそ笑んだ。ビーマはどう見ても商売のシの字も知らない田舎の猟師だ。話ひとつで幾らでも有利な条件で商談をまとめられるとバートンが考えたとしても無理はない。彼は卑怯者ではないが、正直に商売を行うつもりもなかった。
返事はしばらく待ってくれ。
ビーマのその返事を聞いてもう話はまとまったと思ったバートンは、明日また来ることを約束して帰っていった。
バートンを帰し、ビーマはクンデラにミルクをやりながらぼんやりと考えていた。
バートンは、湖を手離すだけでビーマが一生かかっても稼ぐことのできないだけの金を手にいれられる、と云った。思ってもみなかった話だった。彼に云われるまで湖が自分の持ち物であることさえ知らなかったのだ。バートンはビーマの手に入る金額を正確に計算して見せたのだが、それはビーマにとって庭の砂の数に等しいほどの莫大なものだった。すぐに返事しなかったのは、あまりにもそれが現実離れした話だったからだ。
「手を組むがいい」
ビーマはすぐそばで聞こえたその男の声にびくりとした。
「手を組むがいい、ビーマ」
間違いなかった。喋っているのはクンデラだった。歯のない口を開き、苔だらけの黒い舌をぺちゃぺちゃと動かしながらクンデラは喋っていた。
「聞け、ビーマ。但し湖を売り払ってはならない。あの男と共同で会社を経営したいと云うのだ。判ったな、ビーマ」
クンデラはそう云うとビーマの眼をじっと見つめた。聡明な光の灯る黒い宝玉のような眼だった。何かひどく恐ろしいものを見たような気がしてビーマは眼を逸らした。するとクンデラは不意に激しく泣き始めた。泣くと同時に表情がぐにゃりと歪んだ。その眼はミルクを混ぜたかのように白濁し始め、もとの落ち着きのない霧のかかったような眼に戻っていった。
ビーマは慌てて哺乳瓶をその唇に差し込んだ。
何が起こったのか理解するのに時間がかかった。理解し終えた時にはクンデラの意見に従おうと決めていた。
翌日、同じ時刻にバートンはやってきた。ビーマは自分から話を切り出した。共同経営以外の話しには応じない。バートンはビーマの話に意外な顔を隠しきれなかった。
この男、考える頭があるじゃないか。
バートンは頭の中で舌打ちした。
最初でつまずいたせいか終始ビーマのペースで話は進み、安い値で買い叩くつもりが、結局は二人の共同経営ということで商談はまとまってしまった。
湖がただで手に入ったと思えばいいのさ。バートンはひとりそう得心し、ビーマと別れた。
前々から眼をつけていた工場を買い取り、中古の機械を手に入れ、新会社が発足したのは、それから一年後だった。
発足するにあたり、ビーマはすべての指示をクンデラに仰いだ。商品名、缶詰めのラベル、容量、価格。経営に関するどんな細かなこともビーマはクンデラに尋ね、そして彼はそれに的確な解答を下した。ビーマはその意見を忠実にバートンに伝え、実行させた。バートンが反対することもあったが、そんな時ビーマは、それなら湖は返してもらおう、と脅した。
クンデラの忠告のおかげで、人魚の缶詰めはバートンの母国で爆発的に売れた。それはほんの数ケ月の売上で工場や機械を購入する時の借金を全額支払ってしまうほどのものだった。
経営に関してまったくの素人であるビーマを適当にあしらい、単に名目上の経営者に留め、いずれは追い出してやろう。そう目論んでいたバートンは再びあてがはずれることとなった。
二人の会社は工場をひとつ、またひとつと増やしていき、新たにホテルやレストランに加工材料を輸出するようになった。会社は瞬く間にこの国で一、二を争う巨大企業と成り、バートンとビーマは世界でも通用する実業家となった。
一日に数万という人魚が捕獲されたが、あの湖から人魚がいなくなることはなかった。湖には相変わらず水面を埋めるほどの人魚が群れていた。バートンもビーマも初めは人魚が絶滅することを心配していたのだが、あまりに無尽蔵に取れる人魚を見ているうちに、それが当り前のように思えてきた。
ビーマは生まれ育った湖のそばの小屋を離れ、住宅街に大きな家を建てた。初めは新しい土地と暮らしに不安もあったが、それもすぐに慣れた。時には湖の視察にかつての街を訪れることもあったが、その時にはあの悪臭に顔をしかめるようになっていた。
次から次へと夢がかなったバートンは、初めのうちこそ有頂天になっていたのだが、それも落ち着き、上流の暮らしに慣れてくるにつれ、胸の底に重く沈む鉛のようなわだかまりが出来てきた。
会社は成功した。
それは彼の思惑どおりだった。しかし、その会社を実質的に動かしているのはビーマだった。バートンはほとんど何も経営に関与していなかった。幾つかの案を出し、試みてみたこともあったが、いずれも会社に多額の損害を与えるだけに終わった。そのために更に彼は経営から離れることになった。
これでビーマがバートンを追い出そうとしたり、邪魔者扱いしたなら、彼もそれなりに行動にでることもできただろう。しかしビーマはそんなことを考える人間ではなかった。そしてそれは彼が一番よく知っていた。
バートンは、やがて酒に溺れるようになった。
かつての彼なら城としか表現しようがないであろう邸宅の二階。そのバルコニーに置かれた趣味のいい白木の椅子に腰を降ろし、ビーマは空を見上げていた。一流の仕立て屋が最高の生地を使って仕立て上げた背広がさまになっていた。右手の人差指には神の姿をかたどった大きな金の指輪をしていた。もし昔の彼がそこにいたならビーマを褐色の旦那様と呼んだだろう。
満月だった。
ビーマは月を見ていたのだが、いつしか蒼白い月に見られていた。
ビーマは眼を逸らせた。
テーブルの上にクンデラがいた。その、のっぺりとした大きな頭がビーマの眼の前にあった。クンデラはビーマを見上げて云った。
「判ったか」
「何がだ」
ビーマの声は震えていた。
「人魚の正体だ」
「……判らない」
「人魚は死者だ。死んだ者たちは皆人魚になる。だからあの湖の人魚は減ることはない。永遠にな。おまえもその事には気づいていたはずだ」
「判らん。俺には何も判らん」
「まあいい。今、判る」
ドアが壊れそうな勢いで開いた。バートンが立っていた。その手には大きな牛の首でも切り落とせそうなナイフが握られていた。
「どこだ!」
バートンは叫んだ。
「また酒を飲んでいるな」
何故こんなに冷静でいられるのかビーマには判らなかった。彼はテーブルの上からクンデラが消えていることにも気づいていた。
「飲んで悪いか。皆が俺の無能を笑う。いいか。笑うんだぞ。おまえはただのお飾りだ。パーティに出てへらへらと顧客に愛想するしかできない馬鹿者だとな」
「そんなことはない。君が外交をしてくれなければ、俺には何もできなかった」
「黙れ!おまえはただの田舎の猟師だ。知恵もなければ知識もない。それがどうしてこんなにうまく会社を経営できるんだ。おかしいじゃないか。どこかに秘密がある。そうだろ。どこだ。おまえに知恵を授けたものはどこにある」
「そんなものはない。あったかもしれないが多分今はなくなってしまった」
「うるさい!」
バートンはナイフを振り上げ飛びかかってきた。ビーマはよけようとはしなかった。ナイフは彼の首に突き立った。バートンは彼の胸倉を掴み、その首に何度も何度もナイフを突き立てた。血はシャワーのようにとびちりあたりを濡らし、肉片が壁や床にこびりついた。
やがてビーマの首はごろりと床に転がり落ちた。バートンはありもしないビーマの顔に向かって罵り続けた。いつまでも、いつまでも。
それは満月の夜だった。
バートンは部屋に戻り警察を待ったが、それは彼のところにはやってこなかった。バートンはあの惨劇の部屋を確かめたが、死体どころか一滴の血さえ残っていなかった。彼の知らぬ間にビーマは行方不明ということになっていた。
何事もなかったように会社は順調に業績を上げていった。
ある日バートンは誰にも告げずにあの湖のほとりの小屋に行った。
そこでビーマが待っている。
彼は何故かそう直観していた。
小屋はあの時のままだった。粗末な木の机の上に缶詰めがあった。彼の会社の製品だった。
バートンは木箱を置いて座った。
座るとスイス製のナイフを取り出し、缶詰めを開けた。
彼はそれを手掴みで食べ始めた。何かがかちりと歯にあたった。口の中から摘みだしたそれは金の指輪だった。神の姿が刻まれてあった。バートンはそれに見覚えがあった。彼はそれをポケットに仕舞うと小屋から出た。
陽は暮れかかっていた。淡い光が油膜の張った湖面を虹色に輝かせていた。その日からバートンの姿を見た者は誰もいない。
僕はベッドに寝かされていた。身体中が心臓になったように脈打っていた。ドゥルガーの姿はなかった。僕は今見た物語を牛のように反芻しながら再び眠りに就いた。
真っ赤な太陽
母親が僕を海に誘った。気紛れにしても珍しいことだ。僕はおとなしくついていくことにした。途中で何とか母親を瞞して、もう少し北の神智学協会に行くつもりだった。そのためにもドゥルガーを連れて行きたかったのだが、生憎彼女はいなかった。
海岸に着いた時は既に陽が暮れかかっていたのだが、それでも内臓まで煮立ちそうな暑さだった。母親はビーチパラソルの影で寝椅子に横たわり、召使にかしずかれていた。あの上流気取りの女のあそこから生まれてきたのかと考えるとうんざりした。あれなら牡牛の尻から生まれたほうがましだ。
僕は日焼け止めクリームでべたべたの身体で砂浜の上に立っていた。肌がちりちりと燃やされているようだった。しばらくそうやって太陽と戦っていたのだが、敗色が濃いので海に入ることにした。水に入るとじゅんと音がするのではないかと思えるほど、僕の躰は火照っていた。
脚の届くところまでしか行ってはいけません、という母親のいいつけを守り、僕は例えどんな高波がきても首より上には来ない浅瀬にいた。何しろ僕は躾のいきとどいた良い子なのだから。
水泳は得意ではなかった。だから泳ぐつもりはなかった。僕が泳ぐと友人たちは溺れているのと間違え、何度も首に腕をかけられ海岸にまで引き上げられたのを思い出す。
脚を地面から離し、立ち泳ぎを試みた。これだけは得意だ。こうしていると僕のぶよぶよの白い身体が水を吸い、どこまでも膨張していきそうだった。それから僕は立ち泳ぎを止め、顔を上に水面に浮かんだ。流木のように僕の身体は波に合わせて上下した。
僕は水母だ。
透明な身体と毒の脚を持つ生きたゼリー。
その時僕に起こったことを正確に覚えているわけではない。いや、細部は明確に覚えている。だが全体を思い出すと重要な何かが抜けているのだ。それが何なのか判らない。もしかしたら覚えている細部は僕が造ったものかもしれない。しかし僕には創作と記憶の区別がつかない。
まず脚に何かがからまった。それは、ぐいと僕の身体を海中に引き込んだ。凄まじい力だった。僕は頭まで海の中に沈み込んだ。手足をばたばたもがきながら下を見ると、どこまでも深く海は広がっていた。僕は確かに脚の立つところにいたはずだった。ところが僕の下には無限の海淵が続いていた。暗く、暗く、どこまでも。
必死になってもがき、僕は海面に顔を出した。海岸の母親がちらりと見えた。
たるんだ腿の肉と、白い肌に青く静脈の浮かんだ彼女の脚。
僕は大きく息を吐き、次に吸おうとした。
その時再び海中に引き込まれた。
海水が気管に入った。
僕は激しく咳き込み、そのために更に水を飲んだ。
慌てていなかった、と云えば嘘になる。しかし、死ぬ、と感じたとたん余裕ができたのは嘘ではない。
僕は足首にからんでいるモノを見ようとした。それは蛇だった。僕の腕ほどもある太さの長い長い蛇が脚に巻きついていた。蛇は人の顔を持っていた。女の顔だ。その女は二枚の舌を出し入れしながらこう云った。
「さあ、物語の始まりだ」
水の中なのにはっきりとそう聞こえた。そして、蛇の言葉どおりに物語は始まった。
朝、霧は深く、事務所にたどり着いた女のスーツはぐっしょりと濡れていた。若い女だった。
整った顔だが表情に乏しく、くすんだブロンドの髪は、時折彼女の顔を老婆のように見せた。その灰色の眼は、女の疲労を物語っていた。女はドアの前で立ち止まった。ドアにはヴィッタル探偵事務所と金文字の入ったスチールの表札が掲げてあった。女はそれをしばらくの間眺めていた。
ドアが開いた。
「先生がお待ちです」
くぐもった声でそう云った男の顔を女は見上げた。長い顎と膜の張ったような細い眼。おそらく女の顔の倍は充分にあるその顔を見るために、女は首を九十度近く後ろに傾けなければならなかった。男は一歩さがって女を招き入れた。前から壁が消えたようなものだった。男は杖をついていた。彼の体重に彼自身が耐え切らないのだろう。
「私は助手のラジャスと申します。さあ、奥で先生がお待ちですよ」
部屋に入ると正面に所長室とかかれたドアがあった。ラジャスはドアをノックして声をかけた。
「先生。ブラウニング夫人がお見えになりました」
どうぞ、とラジャスに促され、ブラウニング夫人はドアを開けた。
何もない部屋だった。窓もなく、灯りもなかった。それでも薄明かりの中に、車椅子に座る男の姿が見えた。
ブラウニング夫人が中に入ると、続いてラジャスが入り、その車椅子の横に立った。
「私の名前をどうしてご存じなのでしょう。それにどうして私が来たこを……」
車椅子の男が呻いた。小動物があまえるような声だった。
「すべては定められたことだからです。そう先生はおっしゃっています」
「では、何故私が来たかもご存じですね」
車椅子の男がまた呻いた。
「私は手品師ではない、と」
ラジャスが云うと、ブラウニング夫人は薄く笑った。
「失礼しました、ヴィッタル先生。私はキャスリン・ブラウニング。明日出かける旅行に先生もご同行していただきたいのです」
眼が慣れ、彼女にもヴィッタルの姿が見えるようになってきた。そしてこの部屋の灯りを消している理由が判った。依頼人を脅さないための配慮だったのだ。室内なのに灰色の外套をまとった彼は、おそらく脊椎が曲がっているのだろう、上体が右に大きく傾き、肘でそれを支えていた。その下がった右肩から背中にかけて大きな瘤が外套を持ち上げていた。折れるのではないかと思えるほど細く長い首の上に乗った頭は、海草のように左右にゆらゆらと揺れていた。髪はすべて剃りおとされ、肉色の岩のようだった。眉はなく、片方の眼には黒い眼帯をしていた。残されたもう片方の眼は眼窩から飛び出し、こぼれ落ちそうだ。その潤んだ黒い瞳は馬のそれに似ていた。優しく、大いなる知性が秘められている。鼻はほとんどなく、骸骨のように二つの黒い穴が開いているだけだった。彼の顔で最も人の眼を引くのはその唇だ。それは花弁のように裂け、ねじれ、歪み、その間から妙に生々しい桃色の歯茎と、そこからでたらめな方向に生えた歯が見えた。彼が呻くと口腔の中で飼われている軟体動物のような舌が動き、唇の端から蜜のように唾液がこぼれた。
「私の使命はそこで与えられるのですね」
ラジャスがその呻き声を翻訳した。
ブラウニング夫人は小さく頷いた。
宝石箱に例えられる南の島々の中に、その小さな美しい無人島があった。ココヤシの茂る純白の砂浜。珊瑚礁に棲む極彩色の魚。島の中央にある森には無数の鳥や愛らしい小動物。展示された自然のミニチュアのような島だった。
その島を最初に買ったのは、ヨーロッパで成功を収めた奇術師シモンだった。
ゴシック様式の、というより単に趣味の悪い彼の別荘は教会を模した尖塔のある二棟の建築物からなる。外観から内装まですべて偏執狂的にシンメトリックに造られた二つの建物のシルエットは、背面で結合されうずくまる二人の巨人のようで、それは訪れる客たちによって〈双生児〉と名付けられた。〈双生児〉の中庭には運河に囲まれた庭園があり、そこには精緻に造られた人工の小山や川や森が配されていた。勘のいい者であればすぐそれに気づくだろうが、この中庭はこの島そのもののミニチュアで、よく観察すれば森の近くに〈双生児〉そのもののミニチュアがあることに気づくだろう。そしてその中に、と永遠に続くこの入れ子構造の庭園は、彼がこの島に資金をつぎ込み造らせたトリックのひとつだ。もともと時計職人の息子である彼は、舞台でも大掛りな装置を用いた奇術で客を沸かせたものだが、それと同様に、いや、それ以上の熱心さでこの島に大小様々な細工を施した。
チェスの勝負を挑む女王が、海岸近くの林の中にいる。森に棲む、言葉を話し手紙を書く獅子。それぞれの星座に振り分けられた十二人の子供たちが、一時間おきに水を汲み、穴を掘り、踊り、歌う、巨大な時計。庭園を飛び回る機械の鳥と、それを捕まえるべく後を追う天使の群れ。
一生かかってもすべてを見ることは不可能に思えるほどの仕掛けでこの島を埋めた彼は海外巡業の旅の途中で嵐に出会い、一座の者ととも海底に消えた。
次にここを手にいれたのは、奇術師のパトロンのひとりでもあったケンペレン男爵で、彼は毎日のようにここで宴を催した。多くの謎を秘めたこの島の仕掛けは、彼と彼の客たちを充分に楽しませた。彼は調査隊と称して友人たちとこの島を探索した。何しろ奇術師はこの島の仕掛けに関して何ひとつ資料を残していなかったので、それは彼らにとって危険のない冒険だった。
ところが島に仕掛けられたトリックを一つ一つ明かしていくうちに、彼はトリックそのものに魅せられていくことになった。遊び半分に行っていた〈調査〉に友人たちを連れていくことがなくなり、やがてそれはお気に入りの召使いひとりだけを伴った本格的な調査に変わっていった。図面や数式を書き込んだ彼のノートは数百冊にも及び、彼は島を解読していくことに淫していた。
彼は次第に気難しくなり、客をこの島に招待することはなくなった。そしてある雨の夜に、彼は〈双生児〉の兄、別荘の東棟にある尖塔から飛び降りて死んだ。
持ち主を二人立て続けに亡くし、この島は呪われているだの、悪霊が棲むだのといった噂が流れた。そして次にこの島に出向いたのが、高名な女霊媒師だった。
貧しい農民の娘として生まれ早くに両親を失くした彼女は、五歳の時に落雷に合い不思議な力を有するようになった。サーカスの軽業師、ペンキ職人、ピアノ教師など数々の職業を転々とし、三十四歳の時にひとりの貿易商と出会い、彼の死んだ母親の霊を呼び出したことから彼の信頼を得、その協力により霊媒として名を上げた。有名な作家や財閥、政治家などに信奉者の多かった彼女は、同時に敵も多かった。
彼女はある雑誌で、この島で起こった不幸な事件の原因に関する霊的な要因を論じた。彼女を詐欺師呼ばわりしていた科学者が、それに対して反論を掲載した。論争は白熱し、とうとう雑誌の編集長が彼女たちを問題の島に招待するから、そこで論争を集結させてはどうかと提案した。
その日、島に向かったのはカメラマンやジャーナリスト、科学者と彼の協力者、霊媒師とその弟子たち。総勢十五人の男女だった。そして一週間後に、食料などを届けに訪れた者たちが見たものは十五体の惨殺死体だった。
噂は確信となり、この島を訪ようとするものは誰もいなくなった。長い時が経った。最後にこの島をただ同然の価格で手に入れたのがアーサー・ブラウニングという実業家だった。彼はこの島の噂を知っていたに関わらず、この島をリゾート地として開発するつもりだった。
「で、どうして我々がこの島に招待されたのですか」
でっぷりと太った小男が唇をゆがめて云った。憎々し気に見えるが、これは彼が喋る時の癖だ。風采の上がらないこの男は医学博士で、名をハヌッセンといった。
「私もそれを是非ともお聞かせ願いたいですな」
ハヌッセンとは対照的に痩せた長身の男が云った。彼はハーツ。心霊現象研究の第一人者である。
「主人はこの島を新しいリゾート地として開発するつもりです。その工事を始める前にお客様をご招待してこの島が安全であることを証明しようと思いまして。ご存じのようにこの島には良くない噂がありますので」
ブラウニング夫人は声をひそめた。
「我々はご主人の宣伝材料ですか」
ハーツはその姿に相応しい陰気な声でそう云った。
ヴィッタルが細い首を左右に振りながら呻いた。それを巨人、ラジャスが皆に伝えた。
「私たちはここを訪れた。すでにそれが結果としてある以上、因果は動き始めている。今更何故招かれたのか詮索しても仕方のないことだ。先生はそうおっしゃっておられます」定期便に乗ってこの島を訪れたのが午後四時。〈双生児〉の東棟で彼らはブラウニング夫人に出迎えられたのだった。
咳払いをひとつして、ハーツが云った。「そのご主人はどこにおられるのですか」「それが……今朝から私も姿を見ておりませんの」
悲鳴が聞こえた。女の悲鳴だった。
真っ先に動いたのはハーツだった。それにハヌッセンが続き、ラジャスもヴィッタルの車椅子を押して部屋を出た。最後にブラウニング夫人が彼らの後ろからおずおずとついていった。
五人は中庭に向かった。そこから悲鳴が聞こえたからだ。
〈双生児〉の兄と弟に囲まれた広い中庭の中心。この島のミニチュアである中庭の〈森〉にあたる部分。そこに一人の男が横たわっていた。彼が死んでいることに間違いはないだろう。
彼の腹は大きく切り裂かれ、その皮は丁寧に左右に開かれて、数本の鉄釘で止められていた。筋肉は蓋か何かのようにきれいに取り除かれ、胸の上に置かれていた。中は空洞だった。そこには何もない。内臓はごっそり抜き取られていたのだ。
「動物の解剖ですな」
ハヌッセンは怯えるふうもなく腰を屈め、死体に顔を近づけた。「まるで切り裂きジャックだ」
ハーツは十字をきった。
「いや、ハーツさん。彼以上に手際がいい。彼が最も短時間に犯行を済ませた時でさえ十分以上の時間がかかっている。考えてもみたまえ。我々がここに駆けつけるのに要した時間は多く見積っても五分。それだけの間にこんな作業をするなんて、医者でも不可能だ」
「森で死んでいる」
ハヌッセンとハーツは、一斉にラジャスを見た。
「先生が森で死んでいるとおっしゃったのです」
「誰が死んでいるというのだね、ラジャスくん」
ハヌッセンが問い質した。
「先生はただ、森で死んでいると」
「この庭は島全体のミニチュアになっています。倒れているあの茂みは森を真似て造られているのです」
蒼醒めた顔でブラウニング夫人はそう説明した。彼女がそこにいることに初めて気がついたように、ハーツは彼女に尋ねた。
「彼はいったい誰なんですか」
「アーサー・ブラウニング。私の夫です」
大食堂は荘厳というより閑散として物寂しかった。細長い食卓を前に五人は腰掛けていた。ワインを持って来ようとする夫人に、ハヌッセンは待ちきれぬように話し始めた。
「あなたは・・・誰なのですか」
「私はキャスリン・ブラウニングですわ」
彼女はいつものように薄く笑ってそう答えた。
「嘘だ。そんなはずはない。ブラウニング夫人もアーサー・ブラウニング氏も此の世にはいない」
「君は何を云ってるんだ」
問いかけるハーツに答えずハヌッセンは話し続けた。
「アーサー・ブラウニングは確かに実在する実業家だが、彼は三年前に腸チフスで死んでいる。奥さんはその後を追って三ケ月後に鉄道に飛び込み自殺をしている。悪いが私はここに来る前にブラウニング夫妻のことを調べさせてもらった」
「では、私は彼女の幽霊だとでも」
「残念ながら幽霊でさえない。ブラウニング夫人は亡くなった時、四十七歳。あなたはどう見ても三十そこそこだ。我々がいくら世間知らずだったとしても、写真一枚でばれるようなトリックを何故。まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく、君は誰なんだ。それに、あの死んだ男は」
夫人は黙って答えようとしない。その表情からは何も読み取れなかった。
「私はこう思うんだが」
ハヌッセンが話を続けた。
「これは誰かが我々を試そうと思っているんじゃないかとね。ヴィッタルさんは有名な私立探偵だ。私は医者だが、法医学の立場から幾つかの犯罪捜査に協力しているし、そのことに関して雑文を書いたりもしている。ハーツ君は心霊学の大家であり著名なゴーストハンターでもある。つまり誰かが我々に謎を提供した。この謎を解いてごらん、とね」
ハヌッセンはわざとらしく夫人の顔を覗き込んだ。だが彼女はただじっと俯いているだけだった。
「ここに招待をうけた時、私はそうじゃないかと思った。つまり、これは私への挑戦じゃないかとね。だからこそブラウニング夫妻のことも調べたんだが、それと同時にこの島のことも調べさせてもらいました。で、非常に興味深い事実を発見したのです」
ここでハヌッセンはしばらくもったいをつけて間を置いた。
「それはこの島の最初の持ち主、奇術師シモンに関することです。彼は知ってのとおり時計職人の息子で、その知識をいかした大掛りなトリックを幾つも生み出しました。美女消失。空中浮遊。人体切断。そしてシモンはその能力を自動人形の製作にも発揮しました。あの有名な食事し排泄するアヒルのレプリカを初め、詩を書き哲学を語る〈博士〉や馬上で曲芸をする少女など。この島は彼のその自動人形、機械に対する情熱から生まれたと云ってもいいでしょう。シモンの死後もこの島の仕掛けは動き続けている。精巧な自動人形たちもね。それは皆さんもご覧になったはずです。しかし彼が死んでからすでに百年近く経っている。それなのにどの機械も正確に動き続けている。
おかしいと思いませんか。私は思うのです。この島を管理しているものがいるのではないか。百年の永きに渡ってこの島を管理していたもの。それは何か。機械ですよ。自動人形たちがこの島を管理しているんだ。反論はちょっと待って下さい。最後まで私に喋らせて下さい。主人を失った機械たちはこの島を守り続けていた。そこにやってきたのがシモンのパトロンだった貴族だ。彼はこの島を管理する仕組みとその精巧さに魅入られた。そして調査を繰り返した。そのためには幾つかの自動人形を解体したかもしれない。彼は島を管理するものにとって邪魔者、歯車にまとわりついたゴミのようなものだった。だから除去された。その頃からこの島の機械たちは狂い始めていたに違いない。次にこの島を訪れた心霊術師たちが何をしたのかは知らないが、あの大惨事が起こった。その時の検死報告を読むと、死体の切断面に微量の塗料や機械油が付着していたそうです。で、その事件により完全に狂ったこの島の機械たちは、次の犠牲者を招き呼ぼうと考えた。
多分、主人を失った機械たちは殺人というショウを行っているつもりだったのではないかと推測するのですが。そこで、この写真を見てもらえますか」
ハヌッセンはそれこそ奇術のように一枚の金属板を取り出した。それはダゲレオタイプと呼ばれる写真だった。彼はうやうやしく、それをハーツに渡した。ハーツはしばらくそれを凝視していたが、突然何かを思いつき、夫人の顔を写真を何度も見比べた。
「さあ、ヴィッタルさんも」
信じられない、という顔のハーツから写真を受け取り、ハヌッセンはそれをラジャスに渡した。ラジャスはそれを見もせずにヴィッタルの顔の前に持っていった。だが、ヴィッタルもその写真にあまり興味をそそられなかったらしく、もういい、と眼の前の写真を払った。その写真は自室でくつろぐ奇術師を写したものだった。そして、その後ろには一体の自動人形が立っていた。造りかけであろうそれは、鉄の骨格と歯車やバネの内臓を露出させていた。だが、顔だけは完成しているようだった。はっきりとではないが、それはあきらかに〈ブラウニング夫人〉のものだった。夫人は百年あまり前に撮られたその写真の中で薄く微笑んでいた。
「そのご夫人が機械だと云うのかね」
ハーツは何かが喉につかえたような声でそう云った。
「その通り」
「しかし、いくら彼の自動人形が精巧だからといって、そんな・・・」
ハーツは絶句した。黙って俯く夫人の顔は仮面のようで、その胸からこちこちと歯車の音が聞こえてくるかのようだった。
「しかし、しかしだ。たかだか歯車と振り子で造られた機械が、このご夫人のような人間らしさを持てるなんて信じられない……そうか。そうだったのか。よし、判ったぞ。すべての謎がこれで解ける。ただの機械がここまで人間らしく動けるはずがない。ただの機械ではね。しかしただの機械でないとするなら、そう、今ハヌッセンさんの話を聞いて私の考えがようやくまとまりましたよ」
「お伺いしましょう」
ハーツは大きく咳払いをしてから話を始めた。
「奇術師シモンが得意としたのは、先ほどもハヌッセン氏がおっしゃっていたように機械仕掛けの大掛りなものでした。彼は科学的合理主義の申し子だったと云えるでしょう。彼は心霊術といったものを否定し、公の場でそのように語ってもいる。心霊術で行われることなど私がいつでもやって見せようと云い、実際彼が舞台でトリックによるものだと断った上で霊媒を演じ、霊を呼び出したりもしている。ところが彼は親しい友人たちとの、ごくプライベートな集まりで降霊術を行っているんです。それもこれは決して奇術ではないと断ってね。それだけじゃない。彼は我々の心霊学協会に入ろうとさえしていた。勿論断られていますが。有名な奇術師をメンバーにすれば、それだけで我々のやっていることを否定するようなものですからね。何故シモンはこんな分裂した行いをしたのだろうか。その答えは彼の瞬間移動という奇術にあります。
それは遠く離れた国で、同時に舞台を演じて見せるという奇術でした。それもわざわざ舞台の上に大時計を置き、彼が舞台にいる時間といない時間を客に確認させながらね。後で新聞にその時間を発表し、片方の舞台から消えると同時にもうひとつの舞台から現れていることを証明して見せました。替え玉を使うという手も否定するため、彼は両方の舞台に親しい友人を上げ、本人であることを確認させています。皆さん、もうお気づきでしょう。シモンは双子だったのです。一人は科学的な思考の持ち主。一人は自ら霊媒も行う心霊主義者。これで彼が、いや彼らが双生児という建物をここに建てた理由も判ります。この島は彼らにとっての楽園だったのです。〈双生児〉の東棟が兄、西棟が弟と呼ばれているのは誰もが知っているでしょうが、限られた親しい友人の間で、彼らは東棟を魂、西棟を肉体と呼んでいたのです。つまり東棟は心霊主義者の兄が、西棟を実証主義の弟が所有していたわけです。そして航海の途中で不幸な事故にあったのは弟の方だったのです。
生き残った兄の方はこの島で心霊学の研究に没頭したのでしょう。彼が心霊協会に入ろうとしたときに提出した論文が残されています。そのタイトルは『魂の不滅と』。おそらくその研究を彼はこの島で続けていたのでしょう。
さて、島を買ったケンペレン男爵は、彼が彼らであることを知っていた。そして死んだのが弟の方で、心霊主義者の兄がこの島にいることも知っていた。ケンペレン男爵は胸を病んでいました。これは当時の医者の記録に残っています。そして男爵が特に兄の為に出資していたのは、病を癒すため、更には不死を手に入れるためだった。男爵はいかがわしい魔術士と称する者に幾度も金をつぎ込んでいる。そしてとうとう本物の魔術士を手に入れた。
ところが男爵はこの島に客を呼び、毎晩のように宴を開いた。男爵の遊び好きの性格が自身を滅ぼすことになったのでしょう。彼は兄といさかいを起こし、殺されてしまった。兄は彼の死を利用して死者蘇生を行ったのでしょう。そこに心霊術師たちがやってきた。彼女の発表したこの島の謎に関する論文を読むと、どうも彼女は兄の存在に気づいていたようです。彼女はそれに対して邪悪なものを感じた。そこで科学者との対決を装い、実際は奇術師シモンに挑むべくこの島を訪れた。だが結局は彼の犠牲となっただけだった。シモンは十五人分の魂を死者の国へは送らず、手中に収めた。その魂は兄の造った自動人形の中に封じられたのです。ピュグマリオンのように彼は人形に命を吹き込んだのです。そしてこの島には誰も来なくなった。彼はきっと退屈していたに違いない。だからこの島に新たな客を招待した。これは私の勘にしか過ぎないが、あのご婦人の、いや、あの婦人の人形の中に死んだ心霊術師の魂が封じ込められているのです。何ならここで降霊術をしてそれを証明して見せてもいいのですよ」
ハーツは椅子から立ち上がり、夫人を挑戦的な眼で盻んだ。
その時ヴィッタルが唸り声をあげた。ラジャスがそれを順に訳し始めた。
「肉体は遥かな流れの飛沫。それが神の創られた幻覚であるなら、鋼と真鍮で創られていようと同じこと」
ヴィッタルに促されラジャスはハーツに近づくと、その腕を掴んだ。
「何をする」
「真実を見る眼を人間は持たない。だがそれを知ることはできる」
ラジャスがハーツの腕をぐるりと回した。すると腕は肩からすっぽりと抜けた。
「……これは」
阿呆のように口を開いたまま、ハーツはテーブルの上の己の腕を見ていた。ラジャスは次にハヌッセンに近づくと、その頭を両腕で押さえた。ハヌッセンは理解不能の眼でハーツの腕を見ているだけだった。
「まやかしの鎧は仮の安住を与える。そして人はより良い結末を夢見る」
ラジャスはハヌッセンの首を三百六十度回転させ、ぐいと引いた。
それはペン立ての羽根ペンよりもあっさりと胴から離れた。
ラジャスはそれもテーブルの上に置いた。首は頭のない自分の身体を見て何か云おうと口を開いたが、結局声は出なかった。
「さて、ブラウニング夫人。森へ案内してもらえますか」
ラジャスに促され、それまで家具の一部にでもなったかのようにじっとしていた夫人が、椅子を立って云った。
「こちらへ」
三人は並んで中庭に出た。しばらく歩くと腹の中に空洞を抱えた死体が、植え込みの上に横たわっていた。
ヴィッタルの語るがままにラジャスは死体に話しかけた。
「有難う。君のおかげで彼の居所が判りました。もう自分の居場所に帰りなさい」
ラジャスが云い終わるのを待っていたように死体はむくりと起き上がり、東棟の方に向かって歩いていった。
小さな島だ。森への道乗りはさして長くない。それでも森についた時には陽はすでに西に傾き、水平線に溶け込もうとしていた。
森の中の道は暗かったが、夫人はいささかも躊躇することなく脚を進めた。
五分も歩いただろうか。唐突に視界が開けた。広場がそこにあった。その中央に玉座が設けられていた。そこに腰を降ろしているのは一体の自動人形だった。ぴかぴか光る真鍮の身体を持つそれは、三人が近づくのを見ると顔を上げた。この島の最初の持ち主、あの奇術師シモンの顔だった。
「ヨおこソ、ワタしノ島に」
錆ついた喉をきしませ、それは云った。
「ここであなたは死んだのですね」
ラジャスがヴィッタルの言葉を伝えた。「ええ、ソウです。四年前ノことでス。ヴィッタル先生、ドウでしタか。ワたシのショウは」
「素晴らしい。とても楽しく拝見させてもらいました」
「アリがとウ。その言葉ヲ聞いテ、ワタしも満足しましタ。これが、ワたシの最後ノショウです」
「もう引退するのですか」
「エエ、何しろワたしが死ンでからずいぶン経ちマすからネ」
奇術師はぎいぎいときしむような音をたてた。笑っているのかもしれない。
「さあ、幕を降ろシマしょウ。このまマ東へ向かっテ下さイ。海岸まで」
ヴィッタルは不自由な身体を前に屈め御辞儀をして、そこを離れた。三人が海岸に出た時には、太陽は赤く膨れ上がり、海に吸い取られつつある血の滴のようだった。
ヴィッタルに命じられ、ラジャスは海岸を掘った。すぐに黒い機械が現れた。掘り起こすと、それは映写機だった。ラジャスはそれを太陽の方向に向けた。
突然、闇が訪れた。完全な闇ではない。沈みゆく赤い太陽だけが、闇の腹に穿たれた穴のように残されていた。それだけだ。それ以外何も見えない。いつの間にか波の音も消えていた。そのかわり、カタカタとフィルムの送られる音が聞こえていた。
やがてその音が消え、赤い太陽も消えた。
電灯がついた。部屋の中だった。そこはヴィッタル探偵事務所の所長室の中だった。ブラウニング夫人はここに来た時と変わらぬ姿勢で立っていた。車椅子に座ったヴィッタルがぱちぱちと拍手をした。それに続き、慌ててラジャスが拍手をした。
目醒めた時に一番見たくない顔というものがある。僕の場合、それは家の主治医だ。彼は僕の顔を見下ろし、さも嬉しそうに笑いかけた。
「どうだね、エドワード君。西洋医学もたまには役に立つものだろ」
この医者とは前に一度、西洋医学と東洋医学とではどちらが優れているかを議論し合い(勿論僕は東洋医学を支持した)、僕が勝ったのだ。その復讐のためなら毒でも注射しかねない陰湿な男だった。
「今、何時ですか」
「九時。午後九時だ」
医者は医療鞄に商売道具を詰め込みながら云った。
「お母様はひどくご立腹だったよ。私を悲しませてばかりいるとね。後でおもいきり尻を撲たれるんだな」
医者は憎まれ口を叩いて出ていった。母親の怒りは恐ろしくない。多分そうはしないだろうが、もし僕の裸の尻をあの品のないマニキュアをした手で叩いてくれるなら、彼女の眼の前で射精して見せよう。
それよりも問題はあの蛇だ。僕の脚にからみついていた女の顔をした蛇。あれは何だ。ただの幻なのだろうか。もしかしたら、と僕は思うのだが、あの僕のための物語がとうとうこの世界まで浸食し始めているのではないだろうか。それがどういう意味を持つのか僕には判らなかったが、それが事実であることは何故か確信していた。
真夏の出来事
「蛇を見たんだ」
僕はドゥルガーにそう云った。
「女の顔を持った蛇をね」
「動かないで下さい。エドワード坊ちゃん」
長時間氷を当てて感覚を失った僕の睾丸の皮を引っ張り、彼女は鋭く尖った針を貫き通した。消毒用のアルコールのにおいが心地好い。
「どう思う、ドゥルガー。僕の物語が現実の世界に流れ込んできているんだろうか」
ドゥルガーは二本目の針を挿し入れた。
「すべては神の幻影。物語の中の探偵が云ったとおりですわ。この眼で見えるものは見えるものであるが故にすべて幻。そう考えれば何も不思議に考えることはありません。今ここでこうしていることが現実であるなら、お坊ちゃまの物語も現実、その蛇も現実なのです」
「それは判るけど、でも例えば」
僕は近くにあったコップを手にした。
「これとあの蛇が同じものだとは思えないんだ」
「同じものですわ」
ドゥルガーは僕の顔を見上げた。なんて美しい顔なのだろう。僕は単純に感心した。それは秘密という言葉そのもののように美しい。その褐色の肌。きっと蝋のような薄い皮膚の下に闇が潜んでいるに違いない。
その唇が開いた。その中でうごめく唾液に包まれた舌を僕は夢想した。
「蛇は死と再生。始まりと終わり。男と女。知の女神は人に蛇を遣わせ、人は知恵を得ることが出来た。そうですわね。お坊ちゃま」
「僕は正統のクリスチャンでね。グノーシスには縁がないんだ」
ドゥルガーは睾丸に開けた穴に金のリングを通した。睾丸はイヤリングをした異形の娘のようだった。
「お坊ちゃまの蛇もやがては目醒めるでしょう」
「その眠れる蛇って何だい」
「根を支えるものに棲む女神ですわ」
睾丸の付けねを皮紐でぎりぎりと縛った。まるでそこから毒が身体にまわらないようにするかのように。ふぐりの王様は絞首刑だ。
「さあ、お坊ちゃま。立って下さい。そう。脚をもっと開いて」
睾丸に通ったリングに鎖が繋がれた。その先には小さな分銅がついている。
「少しずつ重りを増やしていきましょうね。少しずつ、少しずつ」
ドゥルガーは微笑んだ。人でない何かの笑顔だ。獣だか神だか知らないが、それは決して人に出来る表情じゃなかった。
眩暈がした。
感覚が失せ、ドゥルガーの顔以外何もかもが消えていく。
僕が最後に聞いたのはドゥルガーの密かな笑い声だった。
冬が終わり日毎に暖かくなる日差しに、人々は凍えることなく眠れることに感謝する。だが訪れた春はあまりにも短く、太陽の恵みは瞬く間に脅威と変わった。
夏の到来だ。
人々は再び家の中に隠れなければならなくなった。異形の王が穢れてしまったのは、そんな夏の始まりだった。
冬と夏のどちらの季節を選ぶかと問われたら、人々は夏だと答えるだろう。少なくとも夏には眠っている間に凍死することはない。それに夏には祭りがある。だが〈地の快楽の祭り〉と呼ばれるその祭事も、王が穢れてしまっては始まらない。それはこの国の終わりさえ意味することだった。
それは王が妃のガーヤトリーに会いにいく途中の出来事だった。二人の従者を引き連れて歩いていた王は、照りつける日差しがくっきりと大地に描いた影を踏まれてしまったのだ。
しかもその男は罪人だった。その男は崖の上の神殿に侵入し神の名を三度叫ぶと、持っていた剣で四人の神官を殺して、更にその死体を祭壇に投げ捨てたのだった。男はその場で捕らえられ街外れの巨大な樹の中に封じ込められた。男はそこで神自身による裁きを待っていた。ところがどこに隠し持っていたのか、男は手斧で樹を中から切り崩し逃げ出してしまった。
逃げ出した男は、夢中で走るうちに王の前を横ぎりその影を踏んでしまったのだった。男はすぐに二人の従者によって取り押さえられ、身体を四つに裂かれ、それぞれを別々の場所で焼かれた。
だが男にどのような罰が加えられようと、王が罪人によって穢されたことには変わりがなかった。穢れ、その神性を失ったものはもう王ではない。翌日二人の家臣がそのことを伝えに行った。
王にしてもそうなる事を知らなかったわけではなかったが、王位の剥奪を告げられると怒り狂った。
王はまず、近くにいた二人の家臣を縦にふたつに切り裂くと街に出、幾つもの建物を破壊し、火を放ち、死者を甦らせ、獣に話しをさせ、赤子を老人に変えた。
王室の兵団と神官たちの力によってようやくその首を切り落とす事が出来たのだが、それでも王は呪いの真言を唱え続け、神官たちは儀式にもとづき祭壇に首を置き、供物を供え、いくつもの真言を唱え、王の魂を天界に送り届けた。
その時、すでに祭りまで二十日しか残されていなかった。二十日以内に王の後見者を捜し出さなければ国の存亡に関わる。そこで王妃ガーヤトリーの名が出た。
本来なら王とともに天界への旅に出るのがしきたりなのだが、今回は特例として次代の王を捜すまでその名誉はお預けだ。
すでに王妃の地位を失っていたガーヤトリーにかつての家臣たちはそう告げた。彼らも神官たちも二十日以内に王に相応しい男を捜してくる自信がなかった。王になるべき男がそう簡単に見つかるはずがないと思っていたのだ。だからガーヤトリーに責任のすべてを被せるつもりだった。そしてガーヤトリーにそれを拒否する術はなかった。
彼女は次代の王を捜す旅に出た。
この国は大小二十余りの島から成る。島々は生まれ、死に、その数は年毎に変わる。ガーヤトリーはまず去年生まれたばかりの島を目指した。あてがあったわけではない。誕生したばかりの島なら王の誕生に相応しいのではないか。そう思っただけのことだった。
ガーヤトリーは木をくり抜いて作った粗末な舟で去年生まれた島に向かった。僅かばかりの食料が尽きようとした七日め、ガーヤトリーは島に着いた。
あてもなく海岸沿いに歩いていたガーヤトリーは、一山の灰の塊を見つけた。灰の塊は彼女に話しかけた。
「お願いです、お妃様。私に唾を吐き掛けて下さい」
ガーヤトリーは地に唾を吐くようなことは出来ないと断ったのだが、灰は弱々しい声で何度も彼女に頼み込み、とうとうガーヤトリーに唾を吐かせた。すると灰の塊は見る間に二本の逞しい腕になった。
腕は指で砂に、有難うございました。お礼にあなたの力になりましょう、と書いた。ガーヤトリーはその腕を持って次の島に向かった。
腕が彼女とともに船を漕いだので、次の島には五日で着いた。
二番目の島の海岸を歩いていると、また灰の塊があった。
灰の塊は云った。
「お願いです、お妃様。私に汗を垂らして下さい」
灰はやはり弱々しい声でガーヤトリーに頼み、腕も彼女にそうするようにと懇願した。仕方なくガーヤトリーはその灰を身体になすりつけた。汗を吸った灰はごろりと地に転がり、二本の太い男の脚になった。脚はその指で砂に礼を書き記し、彼女とともに次の島を目指した。
脚はばたばたと水を蹴り、次の島には二日で着いた。
三番目の島の海岸を歩いていると、再び灰の塊があった。
灰の塊は云った。
「お願いです、お妃様。私に小水を掛けて下さい」
さすがにガーヤトリーはためらったが、腕は拝み、脚はばたばたと砂を踏み、必死になって頼むので、最後には灰の上に跨って小便をした。灰はたちまちのうちに筋肉質の男の胴体となった。胴はお礼の言葉を述べることは出来なかったが、腹を波打たせ船を押したので、次の島には一日足らずで着いた。
四番目の島の海岸にも灰の塊があった。
灰の塊は云った。
「お願いです。お妃様。私をお妃様の女陰(ほと)に入れて下さい」
こればかりは出来ないとガーヤトリーは断ったが、腕は互いに首を締め、脚は互いに蹴り会い、胴はくねくねと海に向かい、それぞれに私が死んでもその灰の願いをかなえてやってくれと頼むので、彼女は仕方なく灰を指で掬い女陰に入れた。途端に灰は中で膨れ上がり、ガーヤトリーは砂浜を苦痛に転げ回った。七度転げ、七度起き上がった時、彼女の女陰から男の頭がひりだされた。
「やれ、これで全部揃ったわい」
生首はそう云うと、己の身の上話を始めた。
「ある日ふと気づくとわしは生まれていた。生まれた時にはこの身体を持っておった。身体には何の不自由もなかったが、世界がわしにはどうもしっくりこなかった。世界が、こう、何と云うか、ぺったりとしてな。初めわしは身体を世界に合わせるべきだと思い、それでそうしてみたのだが、髪は抜ける、歯は抜ける、目玉は飛び出す、爪は剥がれる、鼻が削げる、背骨が曲がるで、死ぬところだった。それでようやく気づいた。こりゃ、わしに世界を合わせるべきだとな。しかし世界をわしに合わせるなどという途方もないことをわしが考えつくはずがない。それでもわしは考えた。一生懸命考えた。考え続けた。すると夢の中に神が現れて云ったんだ。
『我の居場所を壊せ。砕け。血を流せ』とな。
わしはそれを信じ、神殿に行き神官たちを殺し、祭壇に投げ入れた。わしは捕らえられ樹の中に閉じ込められた。そこで神の裁きを待てと云われた。わしは待った。神の命令どおりにしたのだ。罰を受けるはずはない。わしはそう思っていた。確かに罰はなかったが、褒美もなかった。わしは樹の中で待った。六十二年と四ケ月待った。それでも何もなかった。だがわしは神を信じていた。そうしたら、六十二年と四ケ月目のことだ。わしは右手に小さな斧を持っていることに気づいた。閉じ込められた時から持っていたような気もするが、その時手の中に現れたような気もした。とにかくわしはそれで樹を削り、穴を開け、外に出て逃げた。逃げた先に王がいた。わしはその前を通って王の影を踏んでしまった。わしはその罪で身体を四つに裂かれ、ばらばらに捨てられ焼かれた。痛かった。辛かった。わしは神に裏切られたのだと思った。それがまた辛かった」
ガーヤトリーは男を哀れに思って涙を流した。涙は彼女の顎を伝い、男の額に落ちた。すると胴が頭に、腕や脚が胴に、するすると吸い寄せられぴたりとくっついた。ところが何を間違えたのか、脚だけが前後逆にくっついてしまった。だが男はそんなことを意にも介さず跳ね回り喜んだ。
「おお、見えることが見える。聞こえることが聞こえる。触れることに触れ、嗅ぐことを嗅げる。何と、何と、世界がある。世界がある」
ガーヤトリーは彼こそ新しい王となる男だと思い、彼を舟に乗せた。二人で櫓を漕いだので、国には四日で到着した。
国に戻ると神官たちは早速神のお告げを受け、北の山で早朝捕らえた山羊の腹を男に裂かせた。腹の中からはひと振りの長剣が出てきた。男が新王であることに間違いはなかった。
王は冠を授けられ、最初の贄にガーヤトリを選んだ。男はガーヤトリーの首を撥ね、流れる血を全身に浴びた。そして、叫んだ。
「我こそは神と席を同じくする王の中の王なり。さあ、祭りを始めよ」
〈男〉とも〈死〉とも呼ばれるその森の樹々は、夏の盛りになるといつもとは異なった枝をつける。それは自在に蛇のように動く触手のような枝だ。その先端は丸く膨らみ、小さな、しかし鋭い爪がついている。
樹々の下には大きな、畸形の子供のような茸が幾本も生えている。樹々は触手を伸ばしその鋭い爪で茸の傘を裂き、傷口に先端を挿し込む。何本もの触手が茸の頭に先端を挿し入れ、前後に出し入れさせる。やがて触手はその先端から精を放つ。頭の中一杯に樹の精を注ぎ込まれた茸は柔らかい腐食土から二本の脚を引き抜き、歩き始める。それを先導するのが王の役目である。王がいなければ、茸たちは右往左往したあげく朽ち果てる。
新王は数万の茸を引き連れ、二つの河を渡り、五つの丘を越え、〈女〉とも〈命〉とも呼ばれる谷に着いた。
谷の淵はぬめぬめとした赤い苔に被われ、谷の底深くにあるのは、脈打つ、とてつもなく大きな女陰だった。
「進め。カーマの茸たちよ。進んでこの国を孕ませよ」
この言葉に誘われるように茸たちは谷に身を投げ始めた。押し合い、前の茸を踏みつけて前に、前に、滝のように茸たちは谷底めがけ跳び込んでいった。
すべての茸が谷に落ち、王の初めての責務が終わった。これから祭りは本格的に始まるのだ。
祭りの間、あらゆる禁忌が解かれる。ある者は妹と交わり、ある者は母親を殺した。人々は破壊し、盗み、犯し、殺し、神官たちは屍を食らった。
王宮に戻った王は三頭の山羊を食べ、二樽の酒を呑み干し、戯れに女や男を犯し、その四肢をもぎとった。
祭りは四日続き、誰もが体力を使いきり、指一本動かせぬようになった時、地鳴りが始まった。大地は上下左右に激しく揺れた。
「始まったぞ。南だ。南の海だ」
誰かが叫んだ。
南の海上、遥か彼方。ごぼごぼと海面が沸きたち、海は狂ったようにうねり始めた。すると見る間に海面がぐいと持ち上がり、島が生まれた。〈森〉と〈谷〉が交わり、新しい島が生まれたのだ。
その年の島は今までになく美しく実りが多かった。それは新しい王の偉大な業績であった。人々は新しい王を称え、鳥のように逆方向についた脚から、〈聖なる鴉の王〉と呼んだ。
王は一生涯妻を娶ることがなかったが、その傍らにはいつも、死んだガーヤトリーの姿があったという。
「今日はどんな物語を、お坊ちゃま」
「男が女に救われる話さ」
「私もお坊ちゃまをお救いに来たのですわ」
「笑わなかったか」
「えっ」
「僕が物語を感じた時、君の笑い声が聞こえた」
「感じたことを信じなさい。それはあなたの感じたことなのだから」
「笑ったのか」
「さあ」
そう云うとドゥルガーは微に微笑んで見せた。声をたてず。
乙女のワルツ
〈食事を控える〉から〈ほとんど食事を摂らなくなる〉までに十日間かけた。
痩せようと思ったのだ。
別に健康のことを考えたわけではない。肥満して、溶けたバニラアイスクリームのようになった身体に飽きてきたのだ。そしてこうやって己の肉体を変形させることが面白くなってきたのだ。身体は意志の力でどのような形にも成り得る。で、今度はその身体が精神を変形させていく。身体も精神も、より高次の〈僕〉の玩具にしかすぎない。そのことが面白くてたまらなかった。
まともな食事を摂らなくなってから十日以上経っていた。
僕はベッドからほとんど動くことができない。一日にわずかなパンと水を摂るだけで動く気力ができるわけもないのだ。今はそれも口にすることは少ない。なのに排泄は定期的にしていることに驚く。今まで僕の身体に詰まっていたのは内臓ではなく、大量の糞だったようだ。
医者は僕の部屋を訪れ、死ぬことがないように点滴を射っていく。
「原因は肉体的なものではなく精神的なもののようだね。そうでしょう、エドワード君」
医者は薄笑いを浮かべてそう云う。
「この国は君に悪い影響を与えたようだ」
医者はこの国を嫌っていた。
この国と僕を。
だが例え彼が僕を殺したいほど嫌っていたとしても、今僕を殺すのはまずいと判断したようだ。彼は父に雇われている。彼が今僕を殺すのは契約違反だ。悪魔とファウストのようにその契約は絶対の力を持っていた。
彼が僕を殺すとしたら、それは僕が健康な時だ。
さて、不快な医者の話より絶食の楽しみについて話そう。
最初の一週間、確かに食べ物のことばかり考えていたことを告白しておこう。その間しきりに匂いや味が鼻と舌に甦り、腹が情け無い音をたてた。ところが八日目あたりから、空腹は純粋な苦痛に変化した。痛みに似た胃のうずきと、飢餓感という黒いしこり。欲望はすでに食物という対象を見失っていた。何かが欠如しているという喪失感だけが最後まで残った。
そして幻覚が始まった。
それは白いドレスと白い翼の天使だった。
ボッティチェルリの絵画そのままの天使は(あるいは天使たちだ。時には十人以上の天使が部屋の中でひしめきあっていたことだってあった)、僕の部屋の隅に腰を降ろし、何かを食べていた。どうやらそれは肉の塊のようだった。天使は両手でそれを囲むようにして懸命に食べる。咀嚼し、嚥下する音だけがしきりに聞こえた。
その時にはもう空腹感というものが完全に消えていた。おそらく僕の身体は食物を求めているのだろう。だが僕にはそれを感じることが出来ない。飢餓感もまた〈僕〉のつくりだした玩具の一つであることが、これでよく判る。
鏡に僕の身体が映っている。
棺の中で得体のしらない虫や微生物に蝕まれながら、朽ちるのを待っている性悪のミイラ、それが僕だ。
身体は油紙をかぶせた骨格標本だ。肋骨の浮かんだ胸は彫刻じみている。胸や腕や脚や腹がここまで細くなれるとは思ってもみなかった。これで両手両足に穴でも開いて血を流していたら、皆が僕の足元に平伏して、その甲に接吻してくれる。
「肉体が精神を御するのでも、精神が肉体を御するのでもありませんわ」
ドゥルガーは睾丸につけたリングに三つめの分銅を下げながら云った。
「肉体も精神も本来の自己が見る夢のようなものですものね」
「本来の自己って?」
「世界が身体の中に入り、身体が世界へと膨れ上がることです」
ひとりでは立つことも出来ない僕は、両手を縄で縛られ滑車で吊されている。睾丸は重りにひっぱられ、長く長く伸びていた。いずれ床に引きずるようになるだろう。
部屋の隅には天使がいた。
二人いた。
「天使がいるよ」
僕は云った。
「あれは僕の外にいる食欲かい」
ドゥルガーが振り返って天使を見た。
二人の天使は肉から顔を離し、死んで地に堕ちた鳩のような汚れた翼を怯えたように羽ばたき、ドゥルガーを見返した。僕はその時天使の顔を初めて見た。だがそれを見たと云えるのだろうか。天使の顔はぶれた写真のように不鮮明だった。はっきりと見ようとすればするほど、眼や、鼻や、輪郭が曖昧にぼやけてしまう。ただ、その赤い唇と、そこから流れる血の滴だけは、奇妙なほどはっきりと見ることが出来た。
においがした。濃厚な水のにおいだ。物語の始まりに僕は期待した。
降り続いた激しい雨がようやく止んだ。だが未だに月は見えず、これが単なる小休止にしか過ぎないことは明らかだった。女は商売に出たことを後悔していた。今まで傘をさし、水銀灯が陰気な光をばらまくこの通りで客を待っていた。濡れた身体は冷えきっていたし、客が来る気配もなかった。近くに商売仲間さえいない。あの強欲なジェシカさえその晩は出てきていなかった。
女は諦め、家に向かった。五分も歩いただろうか。後ろからついてくる者がいるのに気づいた。
足音が聞こえた。水を跳ね上げる革靴の音が。
後ろからつけてくる者がいるのだ。女はそ知らぬ顔でバッグから銃を取り出した。彼女に入れ上げていた客から護身用にと貰った小さな銃だ。その装飾過多の銃はあまりにも小さく、頼りがなかった。女は手の中に子兎を持っているような気がしていた。銃が女を守ってくれるというより、女が銃を守らなければならないかのようだった。
女は次第に脚を早めた。
足音が彼女の歩調に合わせて早くなった。
とうとう女は走りだした。
つける足音も早まる。確実にそれは女を追ってきた。
女は逃げた。必死になって逃げた。
脚が地面を空振りするように思えた。
心臓は破裂しそうに激しく高鳴り、息苦しかった。
耐え切れず女は立ち止まった。壁に手をつけ、口から大きく息を吸った。胃の中のものを吐き出しそうだった。空気がうまく喉を通らない。
女は咳き込んだ。
頭に血液がどんどん送り込まれ、倍の大きさに膨らんだような気がした。脈打つたびにその巨大な頭はずきずき痛んだ。
唇を塞がれた。大きな冷たい手だった。
女は慌ててそれを引き剥がそうとした。その指は長くなめらかで、彼女とは違う世界に住む者の持つ、優雅な指だった。
唐突に顔が眼の前に現れた。かつては美しかったであろうと思わせる老人の顔だった。銀の髪は短く刈り込まれていた。
その薄い唇が開いた。
「耳を澄ませればやがて聞こえるであろう」
女は銃爪を絞った。間の抜けた発射音がした。銃が悲鳴をあげたようだった。弾丸は老人の腿を貫通したが、彼は呻き声ひとつあげずに女から銃をもぎとった。
老人は何十年も繰り返してきた熟練した仕事をこなすように、女の口の中に濡れたハンカチを詰めると、腕と脚の腱を切り、何度も犯した。まるで精液を子宮の中に注入するために造られた機械のように。
翌朝女は発見され、病院に運び込まれた。医者は彼女の手足の腱を切った男の手際に感心していたが、彼女の治療にはそれほどの興味を持てなかったようだった。
二週間後に退院した女は、多額の治療費と四肢の自由を失っていた。
この事件は新聞に載り、ひとりの富豪が彼女に興味を持ってその身柄を引き取った。
その男、ドラモンドは女をディーヴァと名付け、彼の邸宅の中の一室に幽閉した。ひとりでは何もできない彼女のために世話係のアリエッタという少女がつけられた。
やがてディーヴァは子供を産んだ。時期的にみて、父親はあの老人に間違いないようだった。ドラモンドはこのことを大変喜んだ。新しい生命の誕生を喜んだわけではない。新しいコレクションを手にいれたことを喜んだのだ。その子供の小さなペニスの下には睾丸がなく、その代わりにヴァギナがあった。半陰陽と呼ばれる子供の身体を手に入れたことが彼は嬉しかったのだ。
男であり女であるその子供に、ドラモンドはカストラートという名をつけた。ディーヴァの部屋はバロック様式のオペラハウスの完璧なミニチュアだった。コリント風の大理石の石柱が十六本、佇む白い幽霊のように立っている。可愛らしいシャンデリアの下がる天井にも壁にも、子供が座るにも小さすぎる二千百五十一の客席にも、すべて赤いビロードが張られ、床に敷かれた絨毯も血のような赤だった。
ディーヴァの席は舞台の上に設けられ、アリエッタの世話で食事し、眠り、排泄した。カストラートもまた彼女の世話をうけ、この部屋を一歩も出ることなく十年が過ぎた。憂鬱な時がいつもそうであるように、その時も、死にたい、死にたい、とディーヴァはしきりに口にしていた。朝から食事も摂っていない。アリエッタの説得も今日は効果がないようだった。
「ああ、カストラート。私は今日で三十二歳になりました。この部屋であの男の慰み者になっているのはもう嫌です。お願い、カストラート。私を殺して」
カストラートは美しく成長していた。性から解き放たれるということは官能的であるということだ。
男であり女。純潔であり淫蕩。最も善きものであり、最も忌まわしいもの。
カストラートは阿呆のようにディーヴァに笑いかけた。赤い唇が寄生した別種の生き物のようだった。
「死ぬよりも楽しい何かをお母さまに差し上げましょう。アリエッタ」
カストラートはアリエッタを見た。彼女はびくりと身体を震わせ、眼を伏せた。わがままで傲慢な暴君ディーヴァより、この小さな堕天使の方が、彼女には恐ろしかった。
「私をこの部屋から出して下さい」
母親に見せたと同じ笑顔でアリエッタを見た。
「それは旦那様にお聞きしないと」
震える声でアリエッタは云う。
「ほんの二時間ほどだ。君が黙っていてくれさえすればいいんだ。君に迷惑はかけないから。ね、いいだろ」
カストラートは彼女の顎に指をあて、貌を上げさせた。カストラートの銀に近い灰色の瞳がアリエッタを見つめていた。それはまるで月のようで、アリエッタは眼が離せなくなっていた。
唇と舌が、彼女の意思とは関係なく動きだした。
「二時間だけでしたら」
「有難う、アリエッタ」
そう云うと、カストラートは微笑みだけを残して出ていった。
カストラートは約束を守った。
きっかり二時間後、彼はひとりの品のない若い女を連れて戻ってきた。女は耳障りなかん高い声でさかんにこの部屋の贅沢ぶりに驚嘆の声をあげていた。カストラートは女の後ろに回って、声をかけた。
「お嬢様。今夜の食事はどういたしましょうか」
お嬢様なんて、と振り向いた女は、その台詞を最後まで喋ることが出来なかった。カストラートが小さな、しかし鋭いナイフで女の喉を切り裂いたからだ。
女は唇を微笑みの形に開き、台詞の続きを血反吐に替えた。息絶えるまでの間、女は笑みを失わなかった。
カストラートは女の衣服を素早く脱がせ、医者の、あるいは肉屋の手早さで胸を開き、ばりばりと肋骨を取り出した。
ディーヴァは流れる血とそのにおいに興奮し、四肢の動かぬ身体を、もどかしげにくねらせた。
「後の始末は任せたよ」
肋骨から一片の肉も残さず剥ぎ取ると、カストラートはそう云った。
いったい十歳の子供がどうやってこの屋敷まで女を連れてくるのか判らなかったが、翌日もカストラートは若い女を連れてきて、歯と髪を奪った。その翌日は頭蓋骨。その翌日は足の骨と腕の骨。
カストラートはそれらの人体の部品を集めて、何かを造ろうとしていた。
それを造る間、ディーヴァは一度も死にたいとは云わなかった。つまり彼女は一日として憂鬱な日を過ごすことがなかったのだ。それは機械のようだった。骨や歯や髪や腱で、歯車や振り子やぜんまいが造られた。やがてそれはグロテスクなタイプライターに似た何かになった。
カストラートはそれをまずアリエッタに見せた。
「どう思うアリエッタ」
「どう思うとおっしゃいますと」
「これの出来具合だよ」
「私にはよく判りません」
「完成間際なんだ」
「それはおめでとうございます」
「まだ材料が足らない」
「今日もお出かけになるのですか」
「いや、今日は出かけないんだ」
アリエッタの顔色が変わった。ディーヴァがケラケラと笑った。
カストラートのナイフはまるで手品のようにアリエッタの喉を裂いた。
「血をおくれ、血を。血は私のものだよ」
カストラートは両手で喉からほとばしる血を掬い、ディーヴァの前に持っていった。彼女はそれを掌で受け、音をたてて飲んだ。淡い紫の趣味が悪いレースだらけのドレスが汚れるのを、気にしている様子はなかった。それからも、カストラートの手際は魔法のようだった。いや、魔法そのものだったのかもしれない。アリエッタの身体から皮膚を剥ぎ取ると、それを〈機械〉に被せた。
〈機械〉の横からは、くの字に曲がった女の腕が突き出ていた。
「いいですか、お母様」
ディーヴァが頷くと、カストラートはその腕を持ち、ゆっくりと回し始めた。腸壁と頭蓋骨で造られたドラムが回転し、それに貼りつけられた何本もの歯が肋骨の鍵盤を鳴らした。
〈機械〉はオルゴールだった。
人体の部品を、腕や脚や頭や胸を使ったそのオルゴールはサロメの一節を奏でていた。どうしてそのような音がだせるのか、高い、澄んだ、鐘のような音がした。
ディーヴァは涙を流していた。涙を流しながら彼女は歌い始めた。もとよりリヒャルト・シュトラウスの名さえ知らない女だ。だが即興でオルゴールに合わせ歌っていた。
人のものとは思えないソプラノだった。天上に棲む生き物だけが出し得る声だった。
曲はいつの間にかワルツに変わっていた。ディーヴァの歌声にオルゴールが合わせたかのようだった。
ディーヴァは動くはずのない手足を動かせ踊った。踊りながら歌った。
歌うディーヴァの口から赤や青のキャンディーがぼろぼろとこぼれた。
まずカストラートの姿が朧に崩れ始めた。輪郭が曖昧になり大気に溶け込んでいった。そしてその姿は煙のように薄れ、消えていった。
次は部屋だった。十六本の円柱が、豪奢なシャンデリアが、小さな赤い椅子が、ロイヤル・ボックスが、回廊が、厚い絨毯の床が、次々と消えていった。残されたのはディーヴァという名の女、ただひとりだった。
その名さえもやがて消え去り、女だけが残された。
気づくと女は水銀灯の光の下、老人とワルツを踊っていた。その老人とドラモンドが同じ人物であることを、女はその時知った。そのことが判って、女は老人の身体を突き放した。
老人は二、三歩後ろによろめいてから云った。
「有難う」
路地の脇に、皮を剥がれた犬のようなものがうずくまっていた。老人はそれを拾うと、後も見ずに去っていった。女の身体はぐっしょりと濡れ、手足は冷えきって感覚を失っていたが、それでも女の思いどおりに動いた。
女は掌をしっかりと閉じていた。ゆっくりとそれを開くと、わずかな紙幣がそこにあった。
しけた爺々だ、と舌打ちをし、女は家路を急いだ。頭の中で、さっきまで歌っていたワルツが流れていた。それは神々しくも、神秘的でもない、ただのでたらめな曲で、しかも音程が外れていた。
僕は鏡に映る僕の姿を見ていた。うきあがた肋は受難者じみて、滑稽でさえあった。こんなものから造られる女はよほど貧弱な女に違いないだろう。
「この身体にも飽きたよ」
「では、そろそろ食事をもとに戻しましょうか。お坊ちゃまの健康も心配ですし」
冗談を云っているようでも、かといって本当に心配しているようにも見えなかった。
「身体がもとに戻ったら、こんどはリンガにも穴を開けましょう。このリンガーヤタのお守りのような可愛らしいリンガに」
ドゥルガーは僕のペニスをさすりながらそう云った。
「この身体にも飽きたんだ」
僕はもう一度、そう呟いた。
禁猟区
ドゥルガーは優秀な外科医だ。
僕の乳頭には大きな穴が開いている。
僕の胸に下がる二つの大きな金のリング。それを開けたのはドゥルガーだ。胸の二つのリングを鎖で繋ぎ、中央に重りをつける。乳頭の穴は引っ張られて、更に大きくなっていく。人の皮膚は驚くほど柔軟だ。
分銅を下げた僕の睾丸はだらりと長く垂れ下がり、もう一つのペニスのようだ。本物のペニスの先端には穴が開けられ、ここには金のボルトが通っている。さすがにここに穴を開ける時は痛んだ。痛みは十日間ほど続いたが、それだけだった。それで何もかも終わった。座った時にボルトが尿道をこすることがある。痛みはない。くすぐったいような変な感じだ。
僕の身体はまるでクリスマスの樅の木のようになった。
綺麗だ。
ドゥルガーはそう云う。そして僕もそう思う。
綺麗だ、と。
ドゥルガーは僕の身体を変形させるための様々な道具を持ってくる。例えば僕の乳頭に穴を開けるために局部麻酔の注射をした。彼女がそれをどこで手にいれるのか僕は知らない。
ドゥルガーは僕の乳頭のリングを外した。
そこに大きな穴が残された。僕の身体に穿たれた穴。穴の開いた僕の身体。
それはひどく野蛮に見える。
野蛮は力だ。制御不能の力。身体というものの力。それが野蛮というものだ。
ドゥルガーが乳頭の穴にフックを引っ掛けた。フックには縄が繋がれていて、その縄は天井の滑車へと。お馴染みの風景だ。
彼女が縄を引いた。ゆっくりと、慎重に。
僕の身体は少しずつ上昇していく。乳頭の穴は裂けそうになるまで広げられ、僕の体重を支えている。
痛みがある。僕の身体の何処かが痛むのではない。僕が痛みになるのだ。苦痛そのものである僕。苦痛が身体と命を繋ぐ。苦痛が身体と死を繋ぐ。僕の意識を包みこむ不透明の膜が、音たてて弾けた。
物語が始まる。
船は航海を続けていた。
彼らを送り出した者たちはそれを追放と呼んだが、彼らはそれを脱出と呼んだ。
船に乗っている者は皆、国の教会と対立した異教徒たちだった。
航海は意外なほど順調だった。波は船をゆりかごのように揺らし、風は子供の背を押す母親のように優しかった。目的地のある旅であるなら、これ以上快適なものは望めなかった。しかし、彼らにはあてがなかった。
東へ東へと向かって、三十日目には海図から外へと出てしまった。そこには伝説のような世界の果ても、巨大な滝もなかった。ただ海が永遠に続いているだけだった。
食料が尽きた。
雨水を貯め、魚を捕らえ、何とか食いつないできたが、それにも限界があった。
やがて栄養不良で死ぬ者が出始めた。
だが彼らには運がついていた。神が守ってくれたのだと云った方が彼らの気にいるかもしれない。
国を出て二ケ月後、彼らは島を発見した。いや、彼らはそれを島だと思っていたが、それこそがあの新大陸の発見だったのだ。彼らが〈希望〉と名付けた港に着いた時、船の乗員は半分に減っていた。彼らはこの土地に、彼らの乗ってきた船の名を取って、〈下降する御使い〉と命名した。
我等は楽園を追われたのではない。楽園を見いだしたのだ。彼らが後にそう語ったように、この土地は自然の恵みに溢れた楽園だった。
海岸近くに家が建てられ、小さな村が出来た。
森は様々な果実を実らせ、人の恐れるような獣はなく、また獣たちも人を恐れることがなかった。
土地は肥え、耕し、種を蒔くと、驚くほどの収穫を得ることができた。
人に害を成すものは、虫いっぴきいなかったが、ただひとつ、畑を荒らし、倉庫から食物を盗んでいく生き物がいた。だが、初めのうち、その正体は誰にも判らなかった。猿に似た何かが、闇にまぎれて逃げているのを何人かが目撃していたが、それは他の獣と違い人前に姿を現すことがなかった。
最初にそれを捕らえたのは、村一番の猟師だった。彼は畑の近くで一日中見張った。そして夜明け前、畑に入ろうとしたそれを、一発で仕留めた。
駆け寄りそれを見た猟師は蒼醒めた。
人間を撃ってしまった。
猟師はそう思った。
そこに倒れていたものは、何ひとつ身につけていなかった。肌は褐色で体毛は薄く、その胸に穿たれた穴から、大量の血が吹きこぼれていた。黒い瞳は大きく見開かれ、桃色の厚い唇は苦悶に歪んでいる。どこからどう見ても、それは人間にしか見えなかった。猟師はそれに近づき、抱き上げた。そして見たのだ。
それの尾を。
尻の割れ目の上、皮膚に浮き出る背骨の延長に、肉色の長い尾があった。
それが最初に捕らわれたテールズだった。
猟師は翌朝逮捕され裁判にかけられた。彼は果たして殺人を犯したのか否か。つまり彼の撃ち殺したものは人なのか獣なのか。それが議論の中心となった。テールズが人なら彼は死刑となるだろう。しかし獣であるなら彼は無罪だ。
村の人々は彼に同情的だった。温厚で気のいいこの猟師は、村の人に慕われていたし、また腕のいい猟師は村の財産でもあったからだ。
判断のつかぬまま一週間が過ぎた。そして新たなテールズが捕まえられた。今度は生け捕りだった。檻に入れられたテールズは、鼠のような声で鳴くだけで、人語を解さなかった。裁判官でもあり、村の司祭でもあった男は、猟師に対し無罪の判決を下した。その論旨は以下のようなものだった。
これは人の言葉を解する能力を持っていない。人の言葉を理解できないものが信仰を持てるはずがない。もし仮に、これが獣であるのならば問題はない。そして万が一これが人であったとしても、信仰のないもの、つまり神の不在に生きるものであるのならば、それは獣にも劣る存在である。従ってこれが獣でなかったとしても、人では有り得ないのだ。因って、被告は無罪である。
獣、とは云い切っていないが、結果的にそう云ったも同然の判決だった。その日から、畑を荒らす害獣であるテールズは、狩猟の対象となった。
人が増え、村はどんどんと大きくなって町となった。そうして生活にゆとりができるようになると、人々は楽しみのためにテールズを狩るようになった。阿呆のようにただ殺されるの待っている他の獣と違って、テールズは動きも敏捷で、激しく抵抗し、中には逆に向かってくるものさえいた。この島で最も大きな獣であるテールズはかっこうの標的となったのだ。二十年が過ぎ、三十年が過ぎ、畑は広大になり、人口は更に増し、それに従い幾つもの町が造られ、町は集まって一つの国となっていった。そこにこの国特有の文化や、風習、政治が生まれ、貧富の差は階級を生んだ。
ジョシュアは貧しい農夫の六男として生まれた。変生の祭りまでまだ四年。前髪を垂らしたままの子供だった。優しい顔立ちのジョシュアは、そのために女の子のように見え、よく仲間たちにからかわれていた。そんなこともあって、ジョシュアは一人で遊ぶことの方が多かった。
その日も彼はお気に入りの丘の上にいた。小さなその丘の上には樅の林があり、そこにエイモンという老人の住む小屋があった。〈下降する御使い〉の水夫をしていたというこの老人は、ジョシュアに様々な異国の珍しい話を聞かせてくれた。
ジョシュアはエイモンと並び、柔らかな春の下生えに腰を降ろしていた。エイモンは風のにおいがした。ジョシュアはそのにおいが好きだった。
エイモン老人はいつものように火の消えた煙草を唇の端に挟み、話を始めた。
「わしがちょうどおまえさんのようなガキだった時分の話さ。わしらはいつもの仲間と一緒に川のそばに隠れ家をこしらえておった。おまえさんもやったことがあるだろ。棒きれだの、石ころだの、布のきれはしだのを使って隠れ家を作ったことが。わしらは一週間かかってそれを作った。いらん家具なんぞを集めてな。少しずつ少しずつ。で、ようやく完成した。自分らでも感心するほどの出来だったよ。ところがわしらをいつもいじめていた年上の奴らが、わしらのその特別製の隠れ家を見つけよった。奴らはその家を空け放せと云った。勿論わしらは断った。恐ろしかったがね。何しろ奴らは皆、わしらより頭ひとつ大きいんだ。だがこの隠れ家は特別だった。みんなで苦労して建てたんだ。わしは奴らに云ってやった。おまえらのような腐れ頭に渡すくらいなら、今すぐ潰したほうがましだとな。当然喧嘩になった。何かを解決する時、喧嘩ほどいいものはない。何しろ勝つか負けるかだ。はっきりと結論が出る。ところがその時はそうではなかった。奴らのなかに頭の悪い奴がおったからだ。奴らはみんな頭が悪かったが、そいつはその中でもとびきりの馬鹿だった。おまえらの仲間にもいるかもしれんな。何が良くて何が悪いかがまったく判らない奴が。まだ悪いことを悪いと知ってやる奴はましだ。後で反省したり、居直ったり、悪いことを知る頭があるなら良いことも判る。ところがとびきり馬鹿な奴にはそれが判らない」
「それで」
ジョシュアは話を促した。
「それで、その馬鹿はナイフを取り出した。当時わしらがみんな持っていたやつだ。木を切ったり削ったりするのにな。だが誰もそれを喧嘩に使おうなんて思わなかった。どうなるか判っているからね。ところが奴にはそれが判っていなかった。やつはナイフでわしの腹を刺した」
エイモンは燐寸を擦って、煙草に火を点けた。深呼吸のようにそれを吸う。赤く燃えた煙草の先端がぱちぱちと音をたてた。大きく煙を吐き出すと、エイモンは話を続けた。「奴はわしの身体から離れたが、ナイフはわしの腹にくっついたままだった。柄が腹から生えているみたいにぶらぶら揺れていたさ。不思議と痛みは感じなかった。暖かいものが腹から股に、股から脚に伝わっているのが判った。前を見ると、みんながわしを見とったよ。驚いた顔でな。わしを刺した馬鹿は血の気が失せとったよ。ところが、それが急にしゅうっと景色が狭まって、真っ暗になっちまった。あれ、あれ、と思っていたら、眼の前に大きな蛇がいた。わしの身体の倍ほどもある蛇だ。嘘じゃない。ほんとにわしはそれを見たんだ。その蛇は馬鹿でかい頭を持っていた。そいつはそのでかい頭をもたげてわしに云ったんだ。『今度会おう』ってな」
エイモンは再びゆっくりと煙草を吸い、溜め息のように吐き出した。それから地面を見て、黙っていた。
ジョシュアがエイモンを起こそうと思った頃、エイモンは口を開いた。
「さて、薪を拾いにいこうか」
「ねえ、それでどうなったの。爺ちゃんは死んじゃったの」
「今おまえが幽霊と話しているんじゃないのなら、わしは助かったのさ」
老人は愉快そうに笑った。笑うたびに口から煙が吹き出した。
「これだよ」
エイモンはシャツをたくし上げた。右の脇腹にひきつれた傷が残っていた。まるでそれは火傷の後のようだった。
「すげえ」
ジョシュアは感嘆の声を上げた。
「さてと」
シャツをズボンに入れ、老人はゆっくりと腰を上げた。上げかけた。そしてその姿勢のまま後ろに倒れると、悲鳴をあげた。
「脚を、脚を」
エイモンが叫んだ。その足元に蛇がいた。扁平な頭を持つ蛇だ。それはジョシュアを見ると、嘲笑うように舌を二、三度出し入れして逃げていった。
この国には蛇はいなかった。危険な動物は何ひとついなかったのだ。蛇は、〈下降する御使い〉に乗って、この大陸にやってきたのだ。彼らとともに。
「腿を縛ってくれ。頼む、ジョシュア。縛るんだ」
ズボンの裾がはちきれそうになっていた。中でエイモンの脚が腫れ上がっているのだ。その脚をばたばたと見えない自転車をこぐように動かすエイモンを、ジョシュアはただじっと見ていた。何もできなかった。指一本動かすことが出来なかった。
恐ろしかったのだ。
老人の顔色が変わった。最初赤らみ、次に蒼白に、そして紫に。全身が腫れ、まるで水死体のようだ。大きく膨れた彼の顔はところどころ皮膚が裂け、血がにじんだ。
もう老人は喋ることが出来なかった。歪んだ赤い芋虫のような唇から、腐敗したはらわたそのものの舌が突き出ていた。
関節や筋肉は頭以外の何かの命を受け、凄まじい早さで老人の身体を動かせていた。
エイモンは踊っていた。
死の舞踏だ。
膨れ、歪んだ顔は、長い舌をへらへらと動かして、笑っているように見えた。
ジョシュアが覚えているのはそこまでだ。
彼が自分のベッドで目覚めたのは、それから三日後のことだった。
それから眠るたびに、ジョシュアはエイモン老人の夢を見た。夢の中の老人は醜く太った道化で、人とは思えぬ速度で踊っていた。踊りながら老人は腐っていった。腐りながら笑っていた。そして笑いながら彼は云った。
「蛇だ、ジョシュア。縛ってくれ」
夢を見ては目覚め、再び眠りに就いては夢を見た。死病に犯されたようにジョシュアは痩せていった。それでも両親の懸命な看病の力もあってか、夢を見る間隔も少しずつ長くなってゆき、やがて悪い夢は見なくなった。
すでに半年近くの時が経っていた。夢を見なくなることで、ジョシュアの体力はどんどん回復していった。一時は骸骨のようであったジョシュアの身体も、一年と経たぬうちに元に戻った。元に戻ってからも筋肉がつき、身長も伸び、ジョシュアの身体はどんどん逞しくなっていった。
そして変生の祭りがやってきた。
変生の祭りに参加するのは十三歳になった男の子だけだ。彼らはこの日前髪を切り、男になるのだ。
ジョシュアの町では彼を含めて三十六人が参加することになっていた。広場にしつらえた会場で長々と町長の挨拶を聞いたジョシュアらは、壇上に上がり、順に前髪を切り落とした。切り落としたといっても、司祭が剃刀でひと房の髪を切り取るだけだ。そして切り取った髪を持って樅の林に行く。これからが変生の祭りの本番だ。そこには五つの穴が開いている。
蛇の穴だ。
そう子供たちは聞かされていた。その中に彼らは今切り取ったひと房の髪を入れなければならない。勿論それは勇気を試すためのたんなる儀式にしか過ぎず、穴は大人たちが掘ったもので蛇などいない。
子供たちは順に穴に髪を入れていった。穴に投げ入れるようなことをすれば、後で憶病者と罵られる。だから彼らはできるだけ穴の奥に腕を挿し入れて髪を置く。
ジョシュアの前にいたのはヒルという少年だった。彼はぐいと穴の中に腕を入れた。次の瞬間、ヒルは壊れた笛のような声をあげ、腕を穴から出した。手首に蛇が牙を突き立てていた。扁平な頭を持った大きな蛇だった。
大人たちは慌てて駆け寄り、蛇の頭をもぎとると棒で殴った。その間にもヒルの腕は手頚から肘、肘から肩へと蒼黒く腫れ上がっていった。皮膚には赤い血管が浮かび、弾けて血を回りに振り撒いた。
「蛇だ、ジョシュア」
ジョシュアは、そう叫ぶエイモン老人の声を聞いた。
慌ただしくヒルの回りを動き回る大人たちが蝿のように見えた。ジョシュアの視界の中ではっきりと人間であるのは死にゆく少年だけだった。身体を歪め、跳び、のけぞり、人間には不可能な舞踏を続ける少年だけが、ジョシュアの視界の中にあった。
ヒルもまた、舌を伸ばし、へらへらと笑っていた。死へと堕ちゆく者の哄笑だ。生きることを嘲笑っているのだ。ジョシュアはそう思いながらヒルを見ていた。見ることが使命であるかのように、じっと見ていた。
エイモン老人の事件を知っているものが、気遣って声を掛けてきた。ジョシュアはそれに笑みで応えた。
ヒルは死んだ。そして変生の祭りは延期になった。一週間後に行われた祭りの続きに、ジョシュアは加わらなかった。事情を知っているものたちは、それを咎めはしなかった。結局、ジョシュアが祭りを迎えることはなかった。だから彼は大人になれなかった。かといって子供というわけでもなかった。男にもなれなかった。かといって女というわけでもなかった。なにものにもなれないまま、ジョシュアは二十歳になった。
二度の死に穢れ、なにものでもないジョシュアは禁忌となった。生ける禁忌であるジョシュアは何をすることも許されなかった。男手が足りない彼の家族も、彼に何事を強いることもなかった。彼は生活から排除されていた。貧しい農夫の家庭に、役たたずを食べさせておく余裕はなかった。余裕はなかったが、そのことをジョシュアに告げる者もなかった。ジョシュアもそのことには当然気づいていたのだが、だからといってどうしていいのか判らなかった。
家を出たい。それが彼の思いだったが、家を出てからどうすればいいのかが判らなかったのだ。それを思いついたのが二十歳の時だった。
ジョシュアは誰にも告げずに家を出た。家を出て森に入った。狩りをするためだった。食用になるわけでもなく、他に何の利用価値もないテールズは、純粋に狩猟の楽しみのためにだけ狩られた。従ってテールズ狩りは町の上流階級のためにあった。優秀な猟犬と多くの使用人を使って行われる行事、それがテールズ狩りだった。
ジョシュアが狩ったのもテールズだった。だが彼は遊びのためにそれを狩ったのではない。
生きるためだった。
彼は生きるためにテールズを狩った。テールズを狩ることで彼は生きることができた。
ジョシュアは狩りに弓を使った。彼の手製の弓だった。
まず彼の狩りは、まだ見ぬテールズの後を追うことから始まる。足跡、糞、小便、食事の跡(テールズは食べた昆虫の頭を残し、樹の根方に捨てる)。それらの痕跡は優秀な猟師にとってテールズの残した手紙のようなものだった。そしてジョシュアは優秀な猟師だった。
テールズが近くにいることを知ると、ジョシュアは慎重に風下の方に回りこむ。テールズは敏感な臭覚を持っているからだ。風下に回ると、ゆっくりと、ゆっくりと、彼は獲物に近づいていく。限界まで近づき、テールズが立っているなら、そこで待つ。もし腰を降ろしたら、それはテールズが緊張を解いた証拠だ。
ジョシュアは弓を絞る。
ジョシュアの手を離れた指は真っ直に獲物の脚を射る。ジョシュアはいつもテールズの脚を狙う。そうして、再び逃げるテールズの後を追うのだ。
今度は見逃すことはない。血の跡を追けていけばよいのだ。しかも相手は怪我をしている。ジョシュアはゆっくりとそれを追う。時には町で手にいれた煙草を吸いながら、ゆっくり、落ち着いて、獲物の後を追う。
やがて力尽き倒れているテールズに追いつくと、ジョシュアは再び弓に矢をつがえる。そして疲れ果て、動くこともかなわぬテールズをしばらく見ている。
テールズは動かぬ脚を懸命に動かし、両手で這って逃げようとする。ジョシュアは矢尻でそれを追う。怯え、強張った顔を見て、ジョシュアは尋ねる。
「どんな気持ちだ」
テールズは答えない。答えないことを確認して、ジョシュアは矢を放つ。矢は眉間に深く刺さる。そしてジョシュアは再び聞く。「どんな気持ちだ」
誰もテールズを食べない。いくら獣であると判断が下されていても、それは食用にするには、あまりにも人間そっくりだった。
だが、ジョシュアはテールズを食べた。テールズしか食べなかった。
殺したテールズは、まず腹を裂き、腹から腕、脚、頭の皮まですっぽりと剥ぎ取る。大振りのナイフと別に、彼は皮剥ぎ用の湾曲した刃のナイフを持っていた。
皮を剥ぎ終わると、四肢を切り落とし、頭も切り離す。それが済むと胸の下あたりで上半身と下半身を切りわけ、内臓を掻き出す。からっぽになった下半身に頭のないトルソを逆さに突っ込み、縄で縛る。四肢と頭は、背からとった腱で繋ぎ、背負う。そして縄で縛った胴を引きずり、彼の小屋へと持ち帰るのだ。
テールズの肉は岩塩をかじりながら、焼いて食べる。時には皮膚の下の脂肪を生のまま焼いた肉に重ねて食べることもある。脂肪はほのかに甘い。
ほとんど身体のどの部分も食べるが、頭だけは食べない。食べずに、小屋の近くに並べて置いておく。そこには何十もの頭が置かれてある。下に置かれたものはすでに骨になっている。一番上は、まだ置かれて間がない。上から下に降りるにしたがい、頭は順に腐敗していく。皮膚がとろけ、粘液をたらし、眼球が眼窩から白い繊維を引きずり這い出、無数の太った蛆が柔らかくなった筋肉の間から米粒のようにぽろぽろと落ちる。
ジョシュアは暇さえあればここに来て、腐りゆく頭を飽きずに眺めた。濃厚な腐臭も気にならないようだった。
その日ジョシュアは、いつもなら来ぬ森の奥にまで入り込んでいた。血の跡は奥へ、奥へと彼を導いていた。
ジョシュアは紙巻き煙草を取り出して火を点けた。
あたりを見回す。
樹々は彼の小屋の近くにあるものの倍ほども太く、昼の陽光は、かぶさるように茂る枝に遮られ、ジョシュアは深海深く潜っているような気になった。
煙草の火を指先で揉み消し、再びくわえると、ジョシュアはさらに奥へと脚を向けた。
地面に落ちた血の跡に集中していたジョシュアは、彼が近づくのに気づかなかった。
ふいに肩を掴まれた。
振り返ると、鼠に似た貧相な顔の痩せた男が立っていた。異臭がした。
ジョシュアはその腕を振りほどいた。
「ここから先へは行くな」
「何故だ」
ジョシュアの問いに、男は顎で大木の根元を差した。そこには立て看板が釘で打ちつけてあった。看板にはこう書かれてあった。『禁猟区』
「しかし、俺は・・・」
「いくらあんたがヒトデナシであっても、ここから先に行っては駄目だ」
生きた禁忌であるジョシュアは陰でヒトデナシと呼ばれていた。ジョシュアもそのことは知っていたが、面と向かって云われたのは初めてだった。
「それでも俺が行くといったら」
ジョシュアは腰のナイフに手をかけた。それと同時に、男は背から銃を取り出した。銃口がジョシュアの腹にあたった。
「ここから先には行けない」
「判った」
ジョシュアはそう云うと、ナイフの柄から手を離した。
満月だった。暴くように照りつける太陽の光とは違い、月と星の明かりは優しかった。ヒトデナシと呼ばれるジョシュアにとってもその光は慰めだった。狩りの支度を終えて、ジョシュアは小屋を出た。道は覚えていた。あの禁猟区まで間違いなく行きつけるはずだった。
ジョシュアは炬火を掲げ、夜の森に踏み入った。
炬火の光に闇がにじんだ。一歩踏み出すたびに、闇はするすると逃げた。天に伸びる枝葉に邪魔されながらもたどり着いた月光は、森を仄かに蒼白に輝かせた。病んだ王女、それが夜の森の貌だ。
ジョシュアは歩いた。胸の中に、魔女の家に着く前の兄妹のように怯えた心があることを楽しんでいた。
禁猟区と書かれた板を見つけた。
「待て!」
後ろから声をかけるものがあった。ジョシュアは振り向き、汗でも拭うような自然な動きでナイフを投げた。相手が誰かも確認しなかった。する気もなかった。その声がジョシュアを止めたから、声のする方に投げた。それだけだった。手を離れたナイフは、声を掛けた男、あの鼠のような小男の胸に吸い込まれていった。
「やはり、おまえか」
ジョシュアは呟いた。
「今からでも間に合う。帰れ」
最後の息でそう云うと、男は前のめりに倒れた。胸のナイフはさらに深く男の胸に刺さった。
「俺はヒトデナシ。法の及ばぬいきものだ」
応えることのない男に声を掛け、ジョシュアはその先に続く獣道に脚を踏み入れた。焔が風にざわめいた。夜露を含んだ下生えが脚にまとわりつく。名も知らぬ獣や虫が、噂話をする老女たちのようにうるさく鳴いていた。
ふいに森が途絶えた。
広く森が切り開かれている。ポロの試合が観客つきでできるほどの広さだった。そのそこかしこに白い塔が建っていた。突然隆起した地盤のような、あるいは巨人の赤児が砂浜で戯れに造ったような、稚拙で荒々しい、源初的な力を持った塔だった。森の樹々にも増して高くそびえるそれらの塔は、その高さを別にすれば白蟻の巣に似ていた。ただ、それには丸い窓が、眠らぬ百の眼球のように穿たれていた。そしてその窓には灯りが点っていた。滴る月光に濡れて白く光る数十の塔は、異国の墓標のようだった。
塔のひとつから人影が現れた。ジョシュアは慌てて樹の陰に隠れた。人影は二つ。
男のようだ。
何も身につけていない。全裸だった。
影はジョシュアの間近まで来ると異国の言葉で会話を始めた。
ジョシュアは見た。
男たちの尻の後ろで、蛇のようにくねる長いそれを。
尾だ。
奴らはテールズだ。ここはテールズの巣なんだ。
そう思ったジョシュアは反射的に弓を手にしていた。矢をつがえ、弓を引く。
右にいたテールズがジョシュアを見た。「誰ダ」
そのテールズがそう云うのと、ジョシュアが矢を放つのは同時だった。矢は見事にテールズの喉を射抜いた。
悲鳴がした。悲鳴をあげたのは左のテールズ。喉を射抜かれた方ではなかった。そして同時に、何十という塔からも同じ悲鳴が聞こえてきた。それは塔の間をかけ巡り、おう、おう、おう、と大地を振るわせた。悲鳴は長く長く続き、やがてそれは高く、低く、男に貫かれて高みに昇りつめる女の歓喜の声へと変化していった。それは官能的な読経、恍惚へ至る合唱だった。
喉に矢を突き立てたテールズが、がくりと膝を折った。
顎を突き上げ、苦悶の表情で月に吠えていたもうひとりのテールズも、それに合わせるように跪いた。テールズの陽根は天を差し、堅く強張っていた。まるで股間を矢で射抜かれたかのようだった。
ジョシュアが弓を射たテールズが後ろにのけぞるように倒れた。それと同時にもうひとりのテールズが精を放った。長く、大量に、膝の間に溜ができるほど、白い体液を流し続けた。
森の中に響く声は、ひときわ大きく、ああと呻いて終わった。
唐突に静寂が訪れた。騒がしく囁きあっていた虫や獣までが口を閉ざしていた。
肩で荒く息をつきながら、残った方のテールズが云った。
「私にも弓を引いてくれ」
ざわつきが戻った。塔からテールズたちが出てきたのだ。
何十、何百といるそれらはジョシュアに近づいてきた。皆、肩で息をつき、眼を潤ませて、口々に呟いていた。
「私を射よ。私の喉を」
「私は胸だ。胸にその矢を」
「腰のナイフで私の腹をえぐってくれ」
「私は素手がいい。その手で私の首を締めてくれ」
「私を、私を先に殺してくれ。お願いだ」「私だ。私を殺せ」
ジョシュアはへばりついたような唇をむりやり開き、乾き、固まった舌を動かせて云った。
「おまえたち、喋れるのか」
「喋れる」
ジョシュアの前にいたテールズが云った。
「この村の中でなら喋れる。外に出たら喋ることはできない。そのように誓ったからだ」
「何故だ。何故そんなことを誓った」
「おまえたちに殺してもらうためだ」
「それは……」
言葉が続かなかった。
「私たちが喋れなかったからこそ、おまえたちは私たちを獣と定めた。それで何の躊躇もなく私たちを殺すことができるようになったのだ。さあ、私を殺してくれ」
「何故だ。何故おまえたちは殺されたい」
そのテールズは首を傾げた。
「理由が必要か」
ジョシュアは頷いた。
「私たちは死なない。老いることがない。肉体が古びると、分裂する。分裂して古い身体は消え、新しい身体が残る。だから私たちは死なない」
ジョシュアが理解していないのを見てとったのか、テールズは説明を重ねた。「植物を考えてみろ。植物は枯れる。が、枯れても根は残り、新しい幹をつくる。それが種子であれ、地下茎であれ同じことだ。植物は群れとしてある。群れが滅びぬかぎり、植物は死なない。私たちもそれと同じだ。ここには危険な生き物もいなければ、病気も存在しない。私たちが死を経験することは稀だ。何かの事故で一年に一度、あるかないかだ。私たちは感覚を共有している。だから誰かが死ねば、それを私たち全員が体験することが出来る。死は、苦痛だ。これ以上ないほどに甘美な苦痛だ。死は、死は……、頼む、私を殺してくれ。お願いだ」
「なら、自ら命を絶てばいいじゃないか」
「私たちは私たちの手を私たちの血で汚してはならない。それは誓いだ。誓いは守らなければならない。だから、誰かに殺してもらわねばならないのだ。さあ、もういいだろう。私を殺してくれ」
「嫌だ。俺は帰る」
テールズたちは哀れむように笑った。
「何がおかしい」
「おまえにここを出ることは出来ない。あの司祭のように」
「司祭?」
「そうだ。ここに来る前に会っただろう」
「あの小男か」
「あの男が私たちを獣であると裁決を下した男だ。そして初めにこの場所を見つけた男でもある」
「馬鹿な。その裁判が行われたのは今から五十年も前の話だ。あの男はどう見ても三十過ぎ、四十には見えない」
「彼がそれを望んだので、彼には死なない身体が与えられた。彼はこの村の番人であることを望んだのだ。おまえはどうする。道は二つだ。番人か狩人か」
「どちらも選ばない。俺は帰る」
「おまえにこの村を出ることは出来ない。尻に手をあててみろ」
ジョシュアは尻のあたりに手をやった。何かが尾骨の上にあった。それはだらりと垂れ下がり、ズボンの中、ふくらはぎのあたりまであった。
「嫌だ。俺は嫌だ!」
ジョシュアは絶叫した。
「嫌がってはいない。おまえが望んだからそうなったのだ。さあ、弓を手にするんだ。おまえは私たちに死を振る舞ってくれる。そのためにここに来たのだからね」
「嫌だ!」
ジョシュアはこちらを振り向いた。
「それは俺の望みではない。それはおまえの望みだ!」
ジョシュアは僕に向かってそう叫んだ。
そう、僕に向かって。
僕の眼の前にドゥルガーの顔があった。
「ドゥルガー、とうとう物語の中に僕が登場してしまった。いや、物語がこの世界に浸食し始めたんだ。穴が開いてしまった」
「二つの物語の間に」
「そう、二つの物語の間に」
ドゥルガーは、それから、といった顔で僕を見ていた。僕は狼狽してしまったことが恥ずかしくなってきた。
「お坊ちゃまは何を怯えてらっしゃるのですか」
「判らない。気が狂うことかもしれない」
「語られるのが恐ろしいのかもしれません。モノとして。でも、お坊ちゃま、すでにあなたはモノなのに」
彼女は僕のペニスの先にあるリングに指をかけ、それを弄んだ。血液がそこに流れ込んでいくのを感じた。
「さて、次の物語を見ましょうか」
ドゥルガーは云った。
ゆうべの秘密
僕は小さなストゥールに腰掛け、ドゥルガーにルビーを縫い付けてもらっていた。針で指を突いてできた血の滴そっくりのルビーには、金具で金の鎖がつけられており、それを木綿の糸で背中に縫い付けていくのだ。痛みは身体の前半分に集中して、後ろで痛みは感じないというが、まさにその通りで、僕は仕立屋に仮縫いをしてもらっているような気がしていた。
できましたわ、というドゥルガーの声で、僕は合わせ鏡でそれを見た。それは血で描かれたアラベスクだ。マニエリスムじみた執拗さで、様式化された赤い草花が僕の背中をびっしりと被っていた。
「素晴らしい」
「有難うございます」
ドゥルガーがそう云った時、突然扉が開かれた。
僕は立ち上がった。全裸だった。ペニスと睾丸についた鎖がじゃらじゃら鳴った。大きく開いた扉に、にやにや笑いながら立っていたのは、あの医者だった。
「おまえは……」
「大変結構なご趣味をお持ちですな、お坊ちゃま。さぞやご両親もお喜びでしょう」
「どうしておまえがここにいる」
さすがに僕も狼狽していたようだった。
「私の治療器具が最近よく盗まれるのでね。いったい犯人は誰かと、私なりに推理したわけですが、見事に的中したようですな。陰茎や睾丸に穴を開けるのに必要だったわけだ」
「ドゥルガー」
僕はそう云って後ろを見た。そこには誰もいなかった。ドゥルガーの姿は一瞬のうちに消えてしまっていた。
「エドワード坊ちゃま」
云いながら医者は僕によってきた。好色な笑みが唇の端に垂れ下がっていた。
「どうせなら楽しみは分けあいましょうか。一人よりも二人の方が楽しめる。そうでしょう、エドワード坊ちゃま」
僕は後ろ手でテーブルの上を探った。思ったとおり、そこに手術用のメスがあった。僕はそれを取り、喉に刃先を当てた。
「これもおまえの商売道具だね」
医者は赤い口腔を見せて楽し気に笑った。
「純潔を守るために死のうというのかね、エドワード君。おまえにそんなことが出来るわけが……」
僕はメスを喉に立て、力を入れた。
何の抵抗もなく、刃先は皮膚を裂いた。
暖かい血が喉から胸を伝った。血が流れることで、僕は自分を取り戻していた。
「云っておくけれど、僕は死ぬことを少しも恐れていない。おまえが僕にそれ以上近づいたら、このメスで確実に頸動脈を断ち切ってみせる」
医者は立ち止まり、僕をじっと見ていた。
これ以上ないほど優しい声で、僕は医者に囁いた。
「おまえはこの国の寺院を見たことがあるかい。無数の男女が交わる図柄が彫られた寺院を。この国では交合によって神の真実に向かう方法が研究されていてね。僕もそのことに関して研究したんだが、そこでどうだろう。僕はその研究を実地に試してみたいんだが、協力してくれないか。此の世では得ることの出来ない快楽をおまえに与えることが出来るはずだよ」
医者は狡猾そうな眼で僕を見ていた。頭の中では、損得の天秤に分銅を乗せたり降ろしたりするのに忙しいに違いない。
ようやく医者の口が開いた。
「いいだろう」
「明日の正午ちょうどに僕の部屋に」
「裏切るなよ。裏切ったらおまえの秘密を全部両親に報告してやるからな」
医者は扉を乱暴に閉めて出ていった。
「僕には両親に秘密なんてないさ」
僕はそう呟いた。
「お見事ですわ」
振り返るとドゥルガーがそこにいた。ドゥルガーがそこにいることが、僕には初めから判っていた。僕は深々と御辞儀して、云った。
「有難う」
頭に穴を開ける、と聞いた時はさすがに僕も驚いた。だが逃げ出すにも、僕は椅子に皮のベルトで拘束されていて、頭ひとつ動かすことができなかった。
「恐れることはありません。何万年もの歴史を持つ術ですわ」
ドゥルガーは僕の頭頂部の毛を剃りながら云った。医者を迎える準備を終えて、ドゥルガーは僕を椅子に縛りつけた。そしてメスやドリル、剃刀を取り出して、頭に穴を開けると云ったのだった。
メスが僕の頭に刺さった。ちくりと痛みがあった。それだけだった。痛みはその時だけで、ごりごりと頭蓋骨に穴を開ける時も、その振動が顎まで伝わって気味が悪かったが、痛みはなかった。穴が開いた時、何か解放感のようなものがあった。狭い箱の中に閉じ込められていたのが、突然荒野に投げ出されたような、溜め息とともに不安が襲ってくるような解放感だった。ドゥルガーは一本の、髪の毛のように細い銀の針を僕の眼の前に持ってきた。
「頭のこの部分には王冠の車輪があります。それはサハスラーラと呼ばれ、千の花弁を持つ蓮華でもあります。ここには光が、光だけが存在します。蛇は長い旅をここで終えるのです。ここにこの針を入れます。これでお坊ちゃまの蛇は目醒めるでしょう。そしてエドワード坊ちゃまは俗世の法から解き放たれるのです」
針が僕の視界から消えた。
つっ、と針が僕の脳に入り込む感覚があった。そして、そして……。
白光が視界を閉ざした。眼球の中で光が生じたようだった。眩しい、というような物理的な障害は何もなかった。僕の回りに純粋に光が存在していた。
浮遊感があった。僕は速度を感じていた。上へ、上へ、僕の身体は徐々に加速しながら上昇していく。
下腹のあたりに、ずん、と熱が生じた。それは心地好く暖かかった。
熱と光がペニスを中心に拡散していく。
熱は脊髄を通って上昇していった。腰のあたりで、再び爆発するように熱が広がった。下肢に激しく汗が流れるのが判った。それから急激に冷えていった。冷水が血管の中を通っていくようだった。身体の中にある汚泥が消え去ったような清浄感がひとつひとつの細胞にまで染み入る。上昇する熱は臍のあたりで再び爆発した。熱い飛沫がちりちりと内臓を焦がしている。腹の中に太陽が誕生したのだ。熱は更に上昇し、今度は胸で爆発した。鼻や口から、そして臍や肛門や尿道から、更には毛穴から、ごうごうと風が吹き込んできた。風は炎を煽り、太陽は白く熱く輝き、ついには四散した。僕の身体の中には粉々に千切れ飛んだ太陽の破片が星のように光っていた。熱は喉にまで上がってきた。今度は爆発は起こらなかった。爆発ではなく、身体の中に広がっていったすべてのものが逆に凄まじい速度で収縮していく。太陽も星も熱も風も水も、すべてが一点に収縮されていき、ついには消えてしまった。僕の身体の中はからっぽになった。本当にそこには何もなかった。何もないということさえなかった。その何もない、からっぽの僕の身体の中に蛇が生まれた。いや、それはずっと僕の身体の中にいたに違いない。僕の感じていた熱がこの蛇だったのだ。蛇は白く輝きながら何もない僕の身体の中を昇っていく。蛇のとおるところに花が開いた。白い蓮だ。蓮の花弁が蛇の進む後に大きく開いていく。白い蓮の花弁の間を輝く蛇が上昇していく。
音がした。それで今まで全くの無音だったことに気づいた。音は人の声のようにも聞こえた。何千の男たちの呟く声。あるいは囁き合う何万の少女たちの声。鐘の音にも聞こえた。千の鐘、万の鐘が響く音。オムともオンともつかぬその音がすべてを告げた。僕はその時すべてを知ったのだ。世界を、時を、宇宙を、人を、身体を、僕を。そうして蛇はとうとう頭の頂きに達した。再び光が世界を満たした。僕は身体が果てしなく膨張していくのを感じた。やがてそれは宇宙と重なりあった。僕の身体は宇宙を包みこんだ。そして、そして……。
十二時ちょうどに医者は僕の部屋の扉を開いた。几帳面だな、と僕は医者に云った。医者が何か応えようとした時、僕は彼の後ろに回り込み、隠し持った注射針を首に突き立てた。薬液に血が逆流し、その薬液がまた首の中に流れ込んでいく。
「何を……」
医者は首筋を押さえて僕から離れた。
「さあ、楽しもうじゃないか」
「何をした」
「おまえの好きなことさ」
医者は腕を前に出し、僕に飛びかかってきた。僕はマタドールよろしく、彼を間一髪でよけた。
「いくらでも暴れてくれていいんだよ。父は仕事に出ている。母は友人たちとポロを観戦に行った。使用人たちは芝居小屋に行っているよ。僕が券を買ってあげたのさ。たまには彼らも楽しまなくてはね。僕たちのように」
医者は駆け寄ってきた。もう足元がふらついている。
僕たちはしばらくの間そうやって追い駆けっこをしていた。医者は椅子と机を倒し、壁に頭をぶつけ、やがて意識を失った。
眠る男を運ぶのは大変な力仕事だった。僕は彼の両腕に縄を掛け、いつもの僕のように滑車で持ち上げた。口には短い鉄管をくわえさせている。鉄管には横に鉄の棒がとおしてあり、それを皮の紐で結んで頭に固定した。これで医者の口は開かれたまま、閉じることができなくなった。脚は大きく広げて棒で固定した。勿論彼の服はすべて剥ぎ取って、下着一枚身に着けさせていない。
そして僕は待った。彼の眼が醒るのを。
瞼が細かく痙攣し、開いた。
「やけに太った殉教者だな」
医者は呻いた。大量の唾液が鉄管を伝って流れ出た。
「さてと、どうしよう、ドゥルガー」
「舌が邪魔ですわ」
僕は椅子に乗って彼の顔に手が届くようにすると、ペンチを持って彼の舌を捕まえようとした。舌はくねくねと逃げ回ったが、それでも僕はその先をペンチで捕らえた。ぐい、と引くと、舌は意外なほど伸びた。伸びたそれの先を万力で固定した。
「本格的な手術に取り掛かろうか」
僕は椅子から降りた。僕の眼の前に彼の萎んだペニスがあった。僕は縫い針に糸を通した。
「大丈夫。成功させてみせるさ」
やはり堅く縮まった睾丸の皮を引っ張る。その皮でペニスを左右から包むと、その合わせ目を縫った。
睾丸に包まれた先に、亀頭が顔を覗かせている。それに針を通し、太い糸で、睾丸に包んだペニスをぎゅうっと肛門の方へ巻き込んだ。糸の先を尾骨のあたりに縫い着ける。即席の女陰が出来上がった。
「ほら、見てごらん。これでおまえは女になれたんだ」
僕は鏡を指さして云った。
「血が滴っているよ。日が悪かったようだね。これじゃあ今夜、おまえを抱くことが出来ない」
医者は豚のように呻いた。その声は僕を苛立たせた。血が、もっと血が必要だった。僕はナイフを手にした。
刃を下腹に押しあて、上にすっと切り裂いた。白く厚い脂が現れ、血がざあざあと流れ出た。血臭はたちまち部屋に満ちた。脂の層を切るとトウモロコシのような黄色の粒があった。それを裂くと、腸が顔を出した。腸は腹圧のために、凄まじい勢いで飛び出してきた。まるで奇術師が帽子から取り出す万国旗のように、腸が次から次へと溢れ出てきた。僕はそれを身体に巻き付け、モデルのようにポーズをとった。部屋の隅で二人の飢えた天使が、それを羨ましそうに見ていた。血と糞のにおいは大気をチーズのように濃厚なものに変えた。
「ドゥルガー、僕を見て」
ドゥルガーは微笑み、僕を見ていた。もっと血が欲しかった。僕はナイフで自らの腕を切った。丸く、輪切りにするように、何本も何本も傷をつけた。阿片を搾り取るように、僕の腕から血が流れ出た。意識が混濁してきた。
暗転。
目醒めた僕は法廷に立っていた。被告の席だ。僕の隣には汚れたエプロンを着けた逞しい男が座っていた。彼からは肉のにおいがした。男は片手にランタンのように生首を掲げていた。金髪の美しい青年の首だった。肉のにおいのする男にも、その首にも見覚えがあった。彼はハリだ。肉屋のハリだ。そしてその首はスワンの首だ。
裁判長が木槌をならして開廷を告げた。いや、木槌をならしたのは大男で、どうもそれが裁判長ではないようだ。裁判長はその隣にいる外套をまとった男だ。どこかで見た男だった。忘れられる顔ではない。細い首。その上のいつも左右に揺れている頭。歪んだ花弁のような唇。
ヴィッタルだ。裁判長は探偵ヴィッタル。その隣にいるのは巨人ラジャスだ。
さっそく僕の罪状が検事によって読み上げられる。検事は初老の筋肉質の男だった。彼は布でくるんだ赤ん坊を抱いていた。赤ん坊の顔はおたまじゃくしそっくりで、濡れた半透明の皮膚を持っていた。僕の罪状を読んでいるのはその赤ん坊だった。検事はビーマ。赤ん坊は彼が人魚に産ませた子、クンデラだった。クンデラは重々しい口調で、僕が医者を残虐な手段で殺した最悪の殺人鬼だと述べた。
まったくそのとおりなのだが。ハリが立ち上がった。ハリは僕の弁護人のようだった。ハリはスワンの首をぐいと前に出した。スワンの首は話し始めた。
「彼が行なったのは解放だ。肉の檻が被害者である男の魂を捕らえて離さなかった。だから彼は肉の檻を破った。それは医者のために必要であったからだ。責められるようなことは何もしていない」
弁護側の証人が現れた。おそろしく太った女だった。間違いなくそれは〈脂の導師〉だった。彼女は六人の男たちに担ぎ上げられ壇上に上がった。「彼が私をつくった。彼が私を夢見た。彼が私に与えた未来は安らぎのある解放だった。彼につくられた私は彼の手で解放された。今ここにあるのは彼が解放を与えてくれる前の肉体だ。誰もが得心のいくよう、この姿で現れた。彼はこの肉体から虚空を抜き取り、私を解放した。望むなら欲望に相応しい肉体を与えよ。私はそれが真実だと信じる」
〈脂の導師〉は六人の男たちに運ばれ出ていった。次に検事の要請で証人が現れた。証人は檻に入れられていた。王冠を被ったその男の隣には女の亡霊が付き添っていた。脚が前後逆についた男。彼は〈聖なる鴉の王〉だった。隣にいるのは王妃ガーヤトリーだ。王は証人台に呼び出されたことを毒ずき、呪いの真言を唱えた。檻の中に凝った悪霊が太ったヒルとなってぽたぽたと落ちてきた。風が法廷内を吹き抜け、雷が大音響とともに傍聴席に落ちた。何人かが黒焦げになって運び出され、〈聖なる鴉の王〉は裁判長ヴィッタルの命により退場となった。この失策を取り戻すべく、検事は新しい証人を呼んだ。
娼婦ディーヴァと、その美しい子供、カストラートだった。ディーヴァは云った。
「楽しみさ。あの男が医者を殺したのは楽しみのためさ。それは私が一番よく知ってる。私がそうだからね。血だよ。血が欲しかったんだ。カストラート、血だよ。私に新しい血を」
「彼の身体は趣味が悪い」
カストラートはひと言そう云うと、母親の方を向いて微笑んだ。
「裁判長、さらにもう一人の証人を喚問させて下さい」検事クンデラが丸く突き出した口でそう云うと、新しい証人が現れた。そのぼろをまとった青年は、弓を手にし、尻から長く尾を垂らしていた。
「こいつだ」
青年、ジョシュアは僕を指差した。
「こいつが勝手にすべてを語り、勝手に世界をねじ曲げた。何もかも快楽のためにね。誰もが彼に語られることで不幸になる」
「不幸のどこが悪い」
呟く僕をハリが制した。
「発言は裁判長の同意を得てから」
スワンの首がそう云った。ハリが挙手し、僕の発言を求めた。ヴィッタルはそれを認めた。
「僕はすべての法から自由だ。何故なら僕は世界だからね。ここにいる皆さんは僕が物語ることで生まれた。どれも僕の中にいるものたちだ。僕は宇宙だ。僕の身体は世界だ。僕は、神だ」
陪審員席から、おお、と声があがった。そこにいるのは死んだ蜘蛛のように身体の歪んだ紳士や、人魚、尾を持った男たち、その他様々の過剰と不足を抱えたものたちだった。僕の発言は物議を呼び、法廷は僕が神であるのかないのかで揉めた。検事側はあくまで僕の死刑を求めたが、今や世界と化していた僕に、そのような罰を科すことは不可能だった。つまり僕はヴィッタル裁判長から無罪の判決を得たというわけだ。当然のことさ。だって僕はここでこうして語っているんだからね。
僕は無罪になったが、病院に入れられることになった。怪我をしていたからだ。いろいろと。病院は僕の国の病院だった。父親が仕事を終え、母国に帰ることが決まっていたからだ。あの不思議な国は、それからしばらくして僕の国と手を切り(当り前だ。いつまでもこんな国と関わっていたら腐ってしまう)独立した。
両親は時折思い出したように僕を訪れた。そして初めて聞いたのだが、両親はドゥルガーという女を雇っていなかったというのだ。ドゥルガーだけではなく、女を使用人には雇っていない。雇えなかったのだと。両親が嘘をついているのかどうか、僕には判らない。だが、ドゥルガーが実在したことに間違いない。病院にいる間も、彼女は何度も僕の部屋を訪れた。彼女は蛇の身体を持っていた。だからどんな隙間からも入ってこれるのだ。彼女が僕の身体の中の蛇であったことには、とっくに気づいていた。だから彼女がその姿で現れた時にも驚かなかった。僕は彼女に話をして聞かせた。病院にいる馬鹿どもの話だ。彼女はそれを笑って聞いていた。僕は五年間、その病院にいた。退院してから、僕はさらに沢山の物語と出会った。その話はまた今度してあげよう。何しろ僕には時間がたっぷりあるのだから。
了