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バンクシーの絵に対しての評価
はじめまして。まきなと申します。ここからである調にします。
noteを使うことはなかったが、使ってみることにした。理由はnoteで見たい記事があったからである。
noteをネット友達が使っていて、noteで読むのは楽しいなと感じ、私も何かしら書こうと思ったが、表現できるネタが少なくて恐縮である。彼女のようにアウトプットを沢山して、完成させられる人は伸び代が大きいので、私も真似していきたいと思うばかりだと常々思いながら表現を見させてもらっている。
(継続しながら凄い量をアウトプットしているので、継続できない自分には憧れである)
と言ってもネタがないので、昨年の暮れにみたバンクシーの絵の話を書く。
私自身、バンクシーはポップな絵を描く話題の芸術家という印象しかなく、バンクシー展へ行こうと思ったきっかけも単純に「バンクシーが何故ここまで騒がれるのか知りたい」という純粋な欲求からだった。
私はバンクシーを知らない。勿論彼はプロフィールを公開していないから知る良しもないけれど、まず第一にパッとみの絵は楽しげに見えた。
バンクシーの絵は写真を撮ることを許されている。撮ってから観て、みんなインスタにあげてるし、特に写真を撮ることは許可されてるからか注意もされないし、一言で言えば常識がわからなくなるような凄い展覧会である。
最初はビデオ、ポップで可愛い女の子、汚いネズミ、女性、子供、男性。テイストは「思っていたバンクシー」だった。これだこれだ、バンクシーじゃん、と言いたくなる絵をみて「こんな物のために1800円も出したのか?」と疑問したが、1800円以上の価値のある鈍器で殴りつける絵はその先にあったのだ。
人が群がる絵を遠目で見た時、そういう絵に対して何故か心は落ち着くのだが、近くに寄らない絵を眺めれば何か能ある鷹が爪を出してきたような表現しにくい恐怖が重くなっていく。群がる絵はtheバンクシーみたいな絵で、群がらない絵は闇を感じるのだ。
見れば見るほどどんどんと心が病んできて「早くここから逃げ出さなきゃ」とポップな絵を観ているはずなのに思うのである。どこにもそんなこと書いてないし、みんな楽しそうに観ているのに、どうしても闇を感じるし、これは1人で葛藤しているのではないかと思った。
そこに先ほど載せたちょこんとした死神、ニコチャンマークの死神。その後に続くのは答えのない、だけど人間が見つけなきゃいけない問題。
最後の方の記憶が曖昧だが、おそらく風船と少女はバンクシー展なりの「救い」だったのだと思う。その前に沢山の「答えなき問い」との向き合いで疲労は蓄積され、全身から脂汗が大量に出る。真冬だぞ?!と自分に問うも、真冬でも「本物が見せる表現」は心に鋭利な傷跡を残すのである。
周りが「可愛い絵だった」「ポップでいいよね」「あの絵、みたことあってよかった」とサワサワ話している中、叫びたさと狂いたさに押しつぶされていく。なんて救いのない絵なんだ。ここまで救いを表現できていない絵は初めてみた!と騒ぎたくなる衝動。その時、誰ものバンクシーに対しての表現を聞きたくなかったし、バンクシーの表現の恐ろしさと、彼の底なし沼の如く深く深く闇と孤独を抱えている表現をポップだと思っていた自分に対しても浅はかだと騒ぎたくなる衝撃が襲ってきた。
彼らは見たのだろうか。見た上で、楽しげだと思っているのだろうか。孤独を垣間見た上で楽しいと思えているのだろうか。この孤独感すらも楽しいと表現できているのであれば、彼らは本当に強く、自分なんかよりも数倍は生きることに対して上手なのだと思える。……強い主張の裏にある孤独との戦いのような表現は、鋭利で触れば血が出てくるような痛みを伴う。心にダイレクトに鈍器で殴りつけるような感覚である。バンクシーの絵は徐々に徐々に答えのない問いを永遠と表現する。
バンクシーはユニット説に対して「あの闇を抱えている人が複数人もいるはずがない」と思えるような鋭利な表現だと思っていた。よく観ている人たちはこう言った現代には答えのない絵に対して素晴らしいと思うのかと芸術を見ることのできる人たちに敬意を持った。
(何故なら自分はそれを直接見るまでわからなかったからである)
何故かその時に友人と観に行ったルノワール展を思い出す。ひとつだけ衝撃を隠せなかった絵があった。それを思い出しながら「中世の画家の一部には問いを表現する人もいた物であるが、今の私たちが見るとその問いは哲学者や心理学者が答えを出しているから美しいだけで止まっているのだろう。ただ、バンクシーのように答えのない問いを表現する絵を当時の人が見た心境は、今の私のようなのではないか」と。
そう思うと過去に生きた人たちの気持ち、表現をさらに古典で知りたくなり、岩波文庫があってよかったと思うのであった(岩波信者)
私はタイムマシンに乗って1300年の頃を生きていた先輩たちに聞いてみたい。それはそれはペストの時代、救いは地球にないのではないかと苦しんだ時代の彼らは、それを表現する画家の問いに対してどう感じたのであろうかと。