ちっぽけな私から抜け出して「医者と患者さんの橋渡しをしよう!」と思ってSNSを始めるまで。#1 大学病院時代の栄光と影
「医者として役立たずな私」。
今年の4月、私はこんなタイトルのメルマガを配信しました。
医者として、「世の中の役にたちたい!」そう思っていたのに、何もできない悔しさ。
でも・・・私にも何かできるかもしれない!そう思って発信したメルマガに、
「勇気づけられました」
「安心して情報を手にできます」
そんな感想をいただいた時。
私は自分の使命に気づくことができました。
私は「医者と患者さんとの間をとりもつ、懸け橋になるんだ!」と。
子供を出産し第一線の現場から離れ、さらに知り合いのいない東京へ転勤。
友達も相談相手も周りにいず、イライラをため込んでいた日々。あの頃は、自分がとってもちっぽけな存在だと思っていました。
そんな時期を乗り越えて、SNSで情報発信をするようになった今では、多くの女性がかかえる、更年期への不安、生理痛の辛さ、生理前のどうしようもないイライラを、解決する方法をお伝えし、とても充実した毎日を送っています。
今回、「診察室から飛び出した女医」として私が活動しようと思ったのはなぜか?
私が「どん底時代」から、今の「自分の発信に自信がもてるようになり、女性の共感をえる」までの「マイストーリー」を、三回にわたってお伝えしたいと思います。
第一回 :大学病院時代の栄光と影
第二回:お孫さんですか?と言われた子育ての暗黒期
第三回:東京で味わった孤独と新しい仲間との出会い
では、第一回スタートです。
第一回:大学病院時代の栄光と影
・30代のガン患者さんとの出会い
私は山形大学医学部を卒業後、複数の公立病院で5年間研修し、大学病院にもどりました。
当時、私を含め5人の女医がいて、とても楽しかったです。
産婦人科は主に、「産科、不妊治療、更年期、筋腫・子宮内膜症・卵巣のう腫などの良性の病気、婦人科がん」などのグループに分かれています。
研修を終えたばかりの私は
ある時教授に呼ばれ、こう聞かれました。
「ところで、君はどの専門分野をやりたいのか?何に興味がある?」
そう聞かれて、頭に浮かんだのが、30代で子宮体がんになって治療した、患者さんの顔でした。
「腹腔鏡の手術かガンをやりたいです」
私が医者になりたての頃、ガン、特に婦人科のガンは、50代以降の女性に多い病気だと思っていました。
しかし、研修病院で担当したのは、30代という若い方の子宮体ガンでした。
その方は、ガンと言っても初期だったので、手術だけで退院していかれましたが、
私は、「若い人がなる子宮体ガン」と「50代以降がなる子宮体ガン」があるということ、
それぞれ、ガンになる背景が違うということに衝撃をうけたのでした。
そして、頭の中にしっかりと「若い人でもガンになる」ということを焼き付けたのです。
・大学病院時代
その後、教授から「婦人科の腫瘍グループに入るように」と言われ、私はガンの患者さんを担当することになりました。
私が担当した患者さんの中には、20代の患者さんが数人いました。
不正出血を生理不順だと思い、受診が遅れてしまった方
妊娠がきっかけで、子宮頸がんがみつかった方。
30代前半だった私は、歳の近い患者さん達のことが他人事とは思えずにいました。
特に印象的だったのは、20代の子宮頸がんの患者さん達でした。
「先生、私、手術がこわい」
そう打ち明けてきてくれた患者さんに
「大丈夫。万全の準備をしてのぞむから安心して」
そう伝えた時の、ほっとした顔。
妊娠と同時に子宮頸ガンがみつかった患者さんの治療のため
「お腹の赤ちゃんとお母さんにとって、最善の方法をみつけましょう」
そう言って、英語の文献をむさぼり読んだ日々。
若くして子宮頸ガンになった患者さんを前に、治療で治したいという気持ちと共に心に芽生えたのが
「ガンがもっと早く発見されて、ガンの予防もできたらいいのに」という想いでした。
大学病院では、教授や講師の先生が、メスを握って手術をしたり、治療方針を決めるのですが、主治医として患者さんの毎日を支えることができた日々は、とても充実したものでした。
「先生が主治医で本当によかったです」
そう言ってくれた、患者さんの家族もいました。
病気になったことは患者さんのせいではない。
大学病院に紹介されて、家族と遠く離れて治療している患者さんを、私が支えてあげるんだ、そう思って働いていました。
とはいえ、教授に怒られたり、患者さんから医者としてみてもらえなかったり、病気で亡くなられた方を見送ったり。
辛かったり悲しかったことは、たくさんありました。
しかし、そんな生活でも、「やめたい」と思わなかったのは、純粋に婦人科のガンの患者さんを治療することにやりがいを感じていたからだと思います。
・片道1時間半の遠距離通勤
しかし、そんな生活が一変したのは、結婚してからでした。
結婚前、夫とは長距離~中距離の遠距離恋愛で、結婚式をあげた時も別居状態。同居したのは結婚してから半年後のことでした。
しかも、出身大学も専門分野も違ったため、それぞれの勤務先は約60キロ離れていました。
新居はどこにしようねぇ・・・。なんて深く考えることもなく、私達は夫の勤務先の近く、仙台に新居をかまえました。
その理由は、別居はしたくなかったこと、私の方がフットワークが軽かったことと、山形よりも都会である仙台に住んでみたいという下心もちょっぴりあったからでした (笑)。
そんな感じで、新婚生活がスタート。
私は当直の時以外、自分で運転したり長距離バスをつかったりして、山形と仙台間を片道1時間半かけて大学病院に通っていました。
今でも思いますが、あの時の私、本当によくがんばっていたと思います。今、同じ事をやれと言われたら、絶対無理ですもん。
そんな生活をしていた私は、第一の挫折を味わいます。
・念願の妊娠の結果は…
私が結婚したころ、職場は出産ブームにわいていました。まわりの産婦人科医のところに、お子さんが次々に誕生するのに、私は全く妊娠しません。
結婚して2年たったころ。もうこれは治療するしかない!そう思って不妊治療をうけ、間もなく妊娠しましたが、初期に流産してしまいます。
その時は、この世界なんて今すぐなくなってもいい、くらいに私は不幸だ!と思っていました。
ちょうど夏休みをとっていた時期だったので、1週間ずっと家にこもって泣いていました。これは流産後のホルモンの変化によるものだったのかもしれません。ほどなく、職場復帰。
立ち直ったばかりの心と体で出勤すると、病棟では同じように流産した人を担当することになり、また思い出しては泣く日々でした。
元気な赤ちゃんをみても、可愛いな~と思いつつも心がちくちく。
もっとつらかったのは、さまざまな事情で妊娠を断念する方の人工妊娠中絶でした。
この世って、欲しい欲しいと思っても手にすることができないことがあれば
望まなくてもそれを手にする人がいる、というやりきれなさでした。
そうこうするうちに、次第に元気をとりもどし、気持ちをきりかえてのぞんだ不妊治療で今の子供を授かります。
妊娠したらバラ色・・・とはいかず、妊娠初期におなかが2~3分ごとにはり、流産の危機か?!と顔面蒼白になりましたが、お腹の張り止めと自宅安静でそれをのりこえ、安定期に突入。
実は私、この時も片道1時間半かけて、大学病院に通っていました。
しかし、さすがに切迫流産のことや37歳での出産ということもあって、大学に通うのは週一回で、他の日は自宅近くの健診クリニックで働いていました。
・三日間苦しんだ陣痛と帝王切開
切迫流産で薬を飲んていたこと以外はかわりなく、ついに妊娠10か月に突入。この頃の私は「もしかして双子ですか?」と聞かれるくらい、お腹が大きくなっていました。
〈予定日の三日前〉。夜中にお腹が痛み出しました。
もしかして陣痛?!
半分ドキドキ、半分ワクワクしていましたが、お腹の痛みは強くならず。小量の出血(おしるし)があったものの、朝になったら陣痛は遠のいていました。
〈予定日の二日前〉。昼間は弱かった陣痛が、夜になってから強くなります。これはついにきたか!!!と思い、病院に行きましたが・・・。
子宮の入り口が開いておらず。まだまだ子供は生まれません。
〈予定日の前日〉。陣痛が強くなり、私はひいひいふうふういっていました。その前の日から、夜になると陣痛が強くなるので、ぐっすり眠ることができません。
それでも、もうすぐ生まれる?!そう思って耐えていましたが、中々生まれない赤ちゃんに、だんだん心も体も疲れてきます。
「ねえ、いつぐらいに生まれる?」
陣痛でひいひい言っている私に、そう言った夫。
「知らんがな!そんなのがわかったら、産婦人科医も苦労しないわ」
そう逆切れしたのを覚えています (笑)。
生まれる時は生まれるし、生まれないときは生まれない。
私もだんだん焦ってきました。
〈予定日当日〉。私はすでに限界に達していました。今日生まれなかったら無理だろう・・・そう思ってのぞんだこの日。
陣痛はガンガンくるのに、赤ちゃんが下におりてきません。
私はもう、しゃべる気力すらなく、ひたすら陣痛に耐えていました。
「産婦人科医のくせに・・・」って言われるのが嫌で、声を押し殺して耐えていました。結構な負けず嫌いですよね、私。
でも心の中では「もういやだーーー」って叫んでいました。
昼頃、診察にきた先生に、「あまりかわりませんがどうしますか?」そう聞かれて、私が答えた言葉は
「もう十分です」
その言葉を合図に、帝王切開となりました。
診断は「児頭骨盤不均衡」。赤ちゃんの頭のサイズとお母さんの骨盤のサイズがあわないことにより、自然分娩では産めない状態です。
まあ、なんとなく予想はしていました。だって、双子みたいね、と言われるほどの大きく育った私のお腹。生まれた赤ちゃんは、3600gを超える大きさ。
身長153cmの私には、ちょっと・・・大きすぎました。
三日三晩苦しんだ末に生まれた我が子は、本当に可愛くて、寝不足でふらふらだった私は、ああ、これで終わった。そう思っていました。
が、しかし、これで終わりではなかったのです。
・・・続く
マイストーリー、第一回目はここまで。
出産後のドタバタ劇、そして、夜泣きに悩まされ、記憶にないくらい睡眠不足だった育児生活については、次回お伝えいたします。
いかがでしたか?
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お読みいただき、ありがとうございました。
MAKI