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1.六畳二間の家族の繋がり

プロローグからの続きです。

生まれたとき、既に父親は居なかった。
離婚したらしい。
写真も残っていないので何の記憶もないけれど、
ギターリストをしていたということを大人になってから教えてもらった。
23歳で私を産んだ母の精一杯の選択だったのだと言い聞かせるも、
後に私自身の淋しさに繫がっていったと言っても過言ではない。


当時は私と母、祖父母の4人暮らしをしていた。
六畳二間の借家住まい。
だからといって特段「貧しい」などと思ったことはなかった。
祖父母は友人が多く
多い時には10人くらいの人がギュウギュウに集まるような家。
お酒を飲んだりマージャンをしたり、
一般家庭とは思えないほどの人が出入りして賑やかなことが多かった。
そんな私の家。私の家族。
誰がどんな存在なのか分からなくなることがよくあった。


そもそも祖父は祖母の再婚相手。
祖母よりだいぶ年下で、私と40歳という年齢差だった。
だから私は祖父を小学校に入るまで「父」と勘違いしていたほどだ。
私が生まれたときにはサラリーマンとなっていた祖父だったが、
若い頃ハワイアンとジャズのバンドを本業としていた。
仕事から帰ると、ダルマと呼ばれるウィスキーを飲み、
「缶ピース」と呼ばれるタバコをくわえながら
私を傍に座らせ、
ハワイアンの曲をウクレレで弾き語りしてくれた。
実子の居ない祖父であったが子供好きで
マジックをしてくれたり一緒になって遊んでくれることが多く、
祖父は私の友だちの間でも人気者だった。
缶ピースの匂いが私の記憶の「父」の匂い。
そして、甘い歌声が私の記憶の「父」の声。



祖母は母の実母。
「粋」という言葉がピッタリと当てはまるような、
そんな祖母だった。
普段から着流しの着物をさらりと羽織り、ネイルを紫に染め
タバコをプカプカさせながらコーヒーを飲み、
近所へ買い物に繰り出す時にも人一倍目立っていた。
とてもじゃないが、サラリーマンの奥さんという風貌ではない。

祖母は戦前生まれで、幼い頃裕福な庄屋にもらわれて行ったらしい。
だから、祖母も私同様に実の父母の記憶が無い。
一緒に育った妹すらも別の家庭から庄屋にもらわれて来たから
家族に誰一人血縁関係のない状況で育ったようだ。
何人も子供たちを養うのだから、当時にしては裕福な庄屋だったのだろう。
戦前には珍しく私立の「女学校」へ通わせてもらったということが
祖母の誇りだった。

でも、そんな誇りである女学校時代、
祖母は第二次世界大戦に遭い日本橋で空襲に遭い
その時、ほとんどの友人を目の前で亡くしたと聞いている。
当時こんな風によく話していた。

私は泳げなかったのよ。
でも熱くて熱くて水を求めてみんなで隅田川を目指したの。
友達は次々に飛び込んでね。
でも、私は泳げなかったから飛び込めなかった。
すると、水の上を勢いよく炎が覆い、みんな目の前で焼けてしまった。
泳げなくて私は命拾いしたのよ。


そして母。
母から見たら義理の若い父と実母と暮らす借家に
私を連れて帰ってきた感じになるのだろう。
肩身が狭かったのか、性格が合わないのか…
小さな六畳間にも関わらず、
一人距離を置いている感じが常にしていた。

当時の母は、
昼は語学学校の事務、夜はジャズダンスの先生をし
教室を掛け持ちし、いつも忙しくしていた。
幼い頃コンクールで優勝してから、ダンスだけで生きてきた母。
そんな母がギターリストと出逢い何があったのだろう。
今となりふと思うことがあるが、もう知る由も無い。


私は、祖父母と過ごす時間が多かった。
朝保育園へ母に送ってもらい、
祖父母が迎えに来ていたことも多かったように思う。
お迎えの時、
「マキちゃん、おじいちゃんがお迎えに来ましたよ」
と呼ばれるたびに、
先生はいつになったら私のパパを覚えるのだろうと思っていた。

そして家に帰ると
いつものように祖父がタバコをくぐらせながら
ウクレレを手に取る。
時には私に教えてくれて、
今でも「カイマナヒラ」という曲だけは覚えている。

生粋の浅草生まれ浅草育ちが自慢だった祖父は
ウィスキーが進んでいくとご機嫌になり
江戸っ子とは…と流暢に若かりし日々のことを話しては
歌を歌い、音と声が響く中での夕食。
そして、夕食は大抵酒のつまみ。
それをおかずにして私だけご飯を食べる。
私はこの時間が好きだった。
祖父が大好きだった私は、自分のご飯を済ませると
いつも祖父のあぐらの中にすっぽりおさまっていた。
私の特別な居場所だ。

でもなぜか、いつも時間が経つにつれて
決まったかのように祖父母の喧嘩が始まる。
二人とも「江戸っ子だから口が悪いだけだ」
と言っていたけれど…
幼い私には
普段とは違う喧嘩の怒号が怖くて怖くてたまらなかった。

あんなに優しい祖父を、その時ばかりは直視できない。
激しい時には茶碗が飛び交い、
自分の部屋というものがない私は
その脇に敷かれた煎餅布団に頭から包まり、
すべてが静まるまでただ時間が過ぎるのを待っていた。
ただただひたすら待った。

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心理カウンセラー小園麻貴(こぞのまき)
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