9.夢の階段を上った先に…
プロローグより続いています。
高校受験でみんなが塾に行っている頃、
私は一人家庭教師や英会話スクールなどで
アメリカの高校に向けた勉強をしていた。
そして、合格発表が終わり卒業式が過ぎても、
ひたすら英語の勉強だけが続いていた。
行き先の高校が決まらなかったからだ。
母や義父からは「アメリカは9月入学だから」だと言われ、
友達が次々に高校生になる中
一人電車を乗り継ぎ、六本木近くにある
留学生向けのスクールに通っていた。
そして、やっと5月頃に行き先が決定したのだった。
メリーランド州にあるボルティモアという
港町の素敵な全寮制の女子高だった。
アメリカでは珍しく制服がある。
そして、語学力がまだまだ足りなかった私は、
9月の入学前にヴァーシニア州にある
語学スクールに入ることとなった。
6月。
義父、母、弟の見送る中、私は単身成田空港を出発した。
後に母から言われたことだが
私は一度も後ろを振り向かなかったらしい。
そんな私を見ながら
涙を流して手を振っていたと数年経って母から聞いた。
ヴァージニア州にある大学の一部屋が
語学スクールとして開講されていた。
同じように9月から各地の高校に入学する日本人が
対象の語学スクール。
初めての寮生活が始まった。
同じスクールに通う日本人の女の子との二人部屋で
食事は毎回広い構内のカフェテリアに食べに行く。
午前中は英語を学び午後は自由時間。
それでも英語で授業を受けるほどの語学力もない私には
宿題が山のようにあり、
よく大学内の図書館に友人と連れ立って行っていた。
そしてそれ以外の時間は
大学内にある音楽室へ毎日通い
ひとときの楽しい時間を過ごしていた。
防音設備の整った部屋にグランドピアノが一台ある。
そんな部屋がいくつもあって
その大学の学生でない私もいつでも自由に使えた。
当時練習していたのが、
日本で最後にピアノの先生に習ったショパンのワルツ曲。
スクールには、
私と同じように将来音楽大学へ進みたいという人たちもいて、
特に仲良くなった二人といつも行動を共にし
互いの夢を語り合っていた。
一人はピアノをやっている男の子。
一人はフルートをやっている女の子。
3人でいつも音楽室へ行ったり
時にはアンサンブルをしてみたり
本当にその時間は夢のような時間だった。
2ヶ月半ほどそんな生活を送り、
それぞれの学校へ行く日が来た。
特に仲良かった二人とは離れがたく後ろ髪を引かれたが、
今度は日本、いや、どこかの音楽大学で会おうね!
とお互いの連絡先を交換し、
それぞれの地に散らばって行った。
ボルティモアにある高校は、
地平線までが敷地のような広い森の中にあった。
東海岸の北の方に位置するボルティモアは
9月には少し葉が色付き
敷地内には鹿やリスもよく見かけるような
港から森まで広がるような自然豊かな場所だった。
全校生徒のうち、日本人が3~4人。
敷地内には寮が何棟か建っており、
みんな別の棟に住むため、
日本人同士でちょくちょく会えるような環境ではなかった。
きっとここが
私の初めてのアメリカでの生活と言っていいのかも知れない。
そこでのルームメイトは韓国から来た女の子だった。
日本人同士が一緒の部屋になることは無かったが、
アジア人はアジア人で寄せられているのだということは
すぐに気付いた。
そのため私の一番仲良くなった人は、
一年前からその学校に来ている台湾の女の子だった。
英語のつたない私をいつも世話してくれた。
洗濯の仕方やシャワールームの使い方まで
事細かにジェスチャー交えて説明してくれた。
本当に優しい女の子だった。
各寮には先生方の住まいが併設されており、
困ったことがあれば何でも聞いて欲しいと言われるが、
まだまだ自分の要求をスムーズにできるほど
語学力は達していなかったため、
そんな時にも台湾の彼女がいつも手取り足取り教えてくれた。
新学期と共にすぐ授業が始まる。
入学式などは特に無い。
数学、理科(科学)、国語(英語の古典)、
アメリカ史が、一年目の私に与えられた授業だ。
英語も分からないのに、古典なんて分かるわけもない。
一つ一つの教科が辞書のような分厚い物だから、
授業中はほんの数行を翻訳するので精一杯。
だからと言って誰も特別扱いはしないため、
毎晩消灯の10時を過ぎてからも宿題に追われ、
クローゼットに懐中電灯を持って深夜遅くまでこなしていた。
そんな生活を送る中、
ホームシックになったことも多々あった。
そのため一週間に一回だけ、
週末になると国際電話で自宅に電話をかけることが
楽しみになっていった。
携帯もスマホもない時代。
寮内の公衆電話に小銭をたくさん持っていき、
毎週末かけるのだ。
この間はね
クラスメイトの誕生日に自宅から馬が送られてきたの~!
車が送られている人は見たことあるけど
大きなリボンの付いた馬が送られてくるのよ~!
そんな、日本では体験しないであろうことを
母に電話することが唯一自分の心がホッとする時間だった。
もちろんネットすらも普及していない時代だ。
寮の中に設置された公衆電話もたった一つで、
30分も話を続けていると後ろの人が合図してくる。
それでも毎週末、私はこの時間を待ちわびていた。
週末になると、学校主体で男子校で開催されるパーティーや
クルージング等にも連れて行ってもらえる。
サンクスギビングスデーになると学校はお休みになるから、
近くのホームステイ先も学校が紹介してくれ
伝統的な料理でもてなしてもらえる。
英語が分からず相変わらずアメリカ人の友達も少なかったが、
それなりにアメリカでの高校生活を満喫していた。
高校に来て数ヶ月経ったある日
週末になり家に電話した時のこと。
電話に誰も出ないことがあった。
そして、その代わりになぜか祖母から電話が
学校に掛かって来た。
戦前生まれの祖母だ。
英語なんて話せやしない。
今でもどうやって私に取り次いでもらったのか
不思議に思う。
マキ!マキ!マキプリーズ!
そう連呼したのだろうか。
電話に出ると、祖母は言った。
麻貴、冬休みに日本に戻ってきなさい。
日本までのチケットはこっちから送るから、
身の回りの大事なものを全部トランクに詰めて
戻ってきなさい。
祖母の声は遠い日本からのものであっても、
切羽詰ったものだということは感じ取れた。
なぜ?
冬休みに帰るだけなのに
そんなに荷物を持って帰らないといけないの?
アメリカの学校も冬休みは短い。
その高校はほんの2週間程度だった。
それでも祖母は、
大事なものを全部持って帰るんだよ。
震えるような押し殺した声で
それしか言わなかった。