不確かな世の中で生きていることを実感する
時々、実は自分はこの世に存在していないんじゃないか、とか、
いま見ている世界はぜんぶ自分の想像で、誰とも共有できていないんじゃないか、とか、
そんなふうに思うことがある。
先日たまたま時間がポカッと空いたので、自宅で加入している動画配信で久しぶりに映画を観た。
それこそたまたま目についた、アン・ハサウェイ主演の「パッセンジャーズ」。
アン・ハサウェイがとにかく魅力的で、改めて好きになってしまったのはともかくとして、
信じがたい現実や自分の状況を受け入れることの苦しみと、
その後の心の解放みたいなことが描かれていて(まぁ実際はそんな解放感はないかもしれない、けど誰も知る由もない)、
まんまと感情移入して目を泣き腫らしたのだった。
観たあとで、自分がほんとうはこの世に存在していないんじゃないか、とあえて疑ってみた。
普段はふとしたときに突然頭や心を過ぎるのだけれど、
でも無意識にでも思うということはいつも潜在的に考えているのだろうし、
だからもうその時点で自分が存在しないなんてことは現実的ではないような気がするけれど、
要は、自分という実体に自信が持てないということなのだと思う。
やることに追われていたり、時間が無かったりして精神的に余裕がないとか、逆にすごく落ち着いているとか、特別そういうことはあまり関係ないようで、
誰かと話をしているときとか、一人でカフェにいるときとか、ふいにそんな感覚が湧き上がったりするものだから、いつもしばらくぼーっとしてしまう。
そして少しの間、朝起きてからのことなんかを時系列に沿って思い返して、誰と話をしてどんな反応があったかなんていうことを思い出していく。
そうすることで少しずつ、自分は確かに存在するのだ、
いま自分に見えているものは確かに存在するのだ、と、
それですっかり自信が持てるわけではないのだけれど、たぶん大丈夫、と言い聞かせることができるようになる。
でも、はたして、この世の中に“確かなこと”なんてどれくらいあるんだろうか。
つかみどころがなくて、奇妙で、不可思議なものに溢れていて、
日々感じる幸せでさえ、いつ失われるかわからないほど脆くて儚い。
自分を確かに感じることが、生きているということの実感。
だとしたら、確かなことを感じにくい世の中にあって、
生きていることそれ自体を疑ってしまうのも無理はないなと思うのは、やっぱり私だけかしら。