小林幸一郎さん✕岩橋由梨さん
すごい人には三種類いる気がする。
「すごい人になるぞ!」と意図して、そうなった人。
生まれた時から才能に恵まれ、その才能に半ば振り回されたり、こき使われている天才的な人。
自分がすごいなんて、これっぽちも思っていなくて、ただ淡々と身に降りかかってきたことに向き合い続けたら、いつの間にか、周りの人に大きな影響を与える存在になった人。
小林幸一郎さんは、三番目に書いたような〈すごい人〉だ。
私は、小林さんが主演しているドキュメンタリー映画(第33回日本映画批評家大賞ドキュメンタリー賞を受賞)をまだ見ていない。
でも、メンターと仰ぐ岩橋由梨さんが熱く映画の感想を書いてて、小林さんのお話会が地元東村山で開かれると知った時には、平日夜で、子連れで、はた迷惑になるかもしれないってことも全部上回って、レジェンドに会いに行かなければ!と思ったのだった。
そして、昨日、こばさんとゆりさんをお繋ぎすることができた。
ゆりさんは耳がいい。私には気付くことができない、様々なことを、ゆりさんの耳感性はキャッチする。そのゆりさんが、こばさんの声をこう表している。
いわれてみれば、その通りなのだが、私には、同じ声を聴いても、
そんな風に受け取った印象を変換できない。
なので、初めてお会いした時も、二回目にお会いした時も、
こばさんのフラットな存在感を、ゆりさんに共感するような立場で感じていた。
ところが、家に帰ってきて、ふとした時に、
自分が直前にLineに打っていた言葉や絵文字の選び方が
それまでと違っていることに気がついた。
そして、それは明らかにこばさんの影響だと思った。
こばさんを前にした時に、こばさんの落ち着きが私にも伝播して、私も自分を取り繕っていなかった。
普段なら、相手に気に入られたいとか、機嫌を取りたいという気持ちが、自分でも無意識的に、常に働いている。大げさなものではなく、それは例えば感謝の気持ちを1とすると、それを相手に伝えるときに、1.1とか1.2に少しだけ膨らませるとか、相手の話しを聴いて反応する時に、表面的な部分で盛り上げたりとか…
こばさんとゆりさんと90分お話して帰宅してみると、それはする必要がないし、これからはできるだけやめようと、意識的に決意するまでもなく、自然に、余計なものをそぎ落としてコミュニケーションを取り始めている自分に気がついた。
じわじわと、自分が貼り付けていた嘘に気づき、お二人との時間が教えてくれたことの大きさに衝撃を受ける。
ほど良い|ちょうどいい。
そのバランスは、常に、ちょっと少ないとちょっと多いのせめぎ合いの中にある。
仏様も仰っている中庸は、難しい。
そして、ひとりひとり、「ほど良さ」の加減も違う。
でも、他人の「ほど良さ」(好み)に合わせようとしていくと、
自分の「ほど良さ」を見失ってしまう。そして、自分に従っているのか、相手に合わせようとしているのか、相手にも段々分かってきて、「気を遣われて、それがちょっと疲れるな」ということもあると思う。
こばさんが設立された障害者クライミング普及活動を行うNPO法人モンキーマジックのHPにこんな記載がある。
先日チームコーチングの演習で、「多様性を尊重するあまり、かえって言いたいことが言えない風潮がある」ということがテーマになったのだが、「社会が敏感になり過ぎ、本質が見えなくなっている」というのと、どこか通ずるものを感じる。
「本質を見る」とは、何だろう?
多様性は、究極的には個別性になっていく。
だから、目の前の人を知ろうとする。配慮しすぎて何も言えなくなるのではなく、自分の感じていることも誤解なく伝えることにトライしてみる。
コミュニケーションも、表現も、私はそんなエッジの上を歩いていきたい。
それは、まるでサーフィンみたいだ。サーフィンはしたことがないので、素人イメージだけれども、「ほど良さ」加減をギリギリ狙っていく。相手と自分の間合い。適切と不適切の際。上手く波をつかめた時に、本当の意味で誰かや何かの本質と出会うことができ、心の琴線に触れる感動がある。
やっている余計なことを極限までそぎ落とす。一は一のまま出す。足さない、引かない。それが、目下のテーマとなりました。
こばさん、ゆりさん、本当にありがとうございます。