“居心地の悪さ”を友達にする -Authentic Communication-
NVCの講座を3つ受講している。
一つは、Restorative Circle。コミュニティにおいて対立を健全に扱うための修復的な対話の文化を育むアプローチのひとつ。
もう一つは、The Spirituality of NVC。NVCの精神性をセルフ・コンパッションを生きるエネルギーから探求していく時間。
そして3つ目が、Authentic Communication Group。NVCやIFS(インターナル・ファミリー・システム)、プロセスワークなどのモダリティを取り入れたファシリテーターによる「いま・ここにあるありのままの姿から関係性を紡ぐ場」。
どうしてもとりたかったそれらのクラスがすべて水曜日に重なり、水曜は集中学習デーのようになっている。内容にどっぷりつかること。それから「伝える」という在り方について、3人の異なる個性から学べることがとてもおもしろい。「そうか、そう切り出すのか」「このようにデザインするのか」。対話一つひとつの間合い。そこにもたらされる意図や、言葉の選択。学びながらいくつものチャネルが開いていく感じで(英語ということもあり)、体力的にもどっと疲れる。
今日のハイライトは、2回目の集いとなった「Authentic Communication Group」だ。月に2回、6ヶ月間にわたり少人数(9人+ファシリテーター)で顔をあわせる場。アジェンダはない。事前に個人面談があり、プログラムの意図が説明され、合意をした人が参加する。未知に飛びこむ。そこから何が起こるかをみてみたい。そんなところが共通認識と言えるかもしれない。NVCやIFSを教える場というわけではない。それらのもつエッセンスが場に反映されている・・・そんな空間とも呼べるかもしれない。
そう言えたのは2回目を終えた今日だからのことで、実をいうと初回は正直「とても退屈で」、本当にこの先6ヶ月もモチベーションが持つだろうかとがっかりした気持ちで閉じた。
ファシリテーターは不快なまでに「何もしない」。「はじめまして」のメンバー同士、ぎこちなくチェックイン(自己紹介のようなちょっとした挨拶)を一周する。コーチ、CNVC認定トレーナー、コンサルタントなどなど、コミュニケーションに携わるプロフェッショナルが多い。面白そうなメンバーだ。どんな展開になるのだろう。ワクワクしたのものの、そこからの展開が微妙なのだ。どのように進めるか提案がでたりもするのだが、変に気を使いあったりして、どうも上滑りしてしまう。「誰かがファシリテーション役を担うというのも違うよね」という気持ちが、この場に対してある。「ひとまず2ラウンド目で話してみようか」。その時ひとりが「じゃあ、よくあるアイスブレークみたいなものだけれど、名前の由来を話さない?」と言った。ちょっと微妙な提案だな、という気持ちが過ぎる。まあ、でも反対と声をあげるのもなんだし、なんにせよ互いを知り合うことになるだろうし、いいか・・・。やってみるとそれはそれで、それなりに楽しかったのだが「このレベルの深さ」ではまったくもって満たされない・・・。
回を閉じる「チェックアウト」の一言で、そのことを気を使いながら言葉にする人が何人かいた。同じように退屈を感じていた人がいたことに安堵する。提案をした人は明るく振る舞っていたが、やはりどこかバツが悪そうだ。こんなに爽快感のないクロージングは久しぶり!でも、その違和感を持ち帰った分、次回は少しは違うだろうか・・・。
そして迎えた2回目の今日。果たして本当に、それは前回とはまったく違った場になった。きっかけは参加者の一人が声をあげたこと。「実は前回、競争意識のようなものを感じていたんだ。この場をいい流れにする一言が言えないかって。xxが提案したとき、自分も負けられないぞっていう気持ちがあった。職業的にもライバル心のようなものが芽生えたんだと思う。これを聞いてどう感じる?みんなは似たような感情があっただろうか?」。
無防備さの扉が開かれたためだろうか。導入から一気に、深く、自然と本音が響き合う空間が生まれた−–−自然発生的に。その後もいくつか、エネルギーが停滞したり、ヒートアップする場面があった。今回はファシリテーターもその場に少し介入する。何かのエッセンスに気づくためのヒントをおいていく感じ。おそらくこういった介入は今後少しずつ減っていくのだろう、とも感じた。参加者がありのままでつながり出した。エネルギーの蠢き。おもしろい時間だった。
これを記しながら、脳はまだ、学んだこと・体験したことの咀嚼と意味づけの途中でカタカタと言っている。それなので、今の段階で何かしら深い洞察があるわけではないのだけど、この感覚は忘れないよう記しておきたいと思った。
クラスで起きたことをわりと詳細に書いたのは、イングリッシュな世界には知られることのない、異国語の日記ならば許されるだろうな・・・と思ってのこと。何事も母国語になると生々しさが増す。英語は大変だけれど、その意味においては日本語よりはずっと楽とも言えるのかもしれない。