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椿原天満宮、天神町から見る一向一揆と金沢

久しぶりに、椿原天満宮へ参拝しました。

前田利家が金沢城に入城して以来、加賀藩は産土神(うぶすながみ)、土地の守護神としてこの神社を守ってきました。

椿原天満宮は、藩の庇護を特に受けていた「金沢五社」と呼ばれる5つの神社の筆頭格です。

椿原天満宮と地震

到着すると、驚いたことにものものしいテープが張られています。

椿原天満宮 正面階段

遠回りすれば参拝できるとの矢印にしたがって進んでいくと、階段左側の狛犬がいなくなっていました。

崩れてしまった狛犬の台座

狛犬は本当に死んでしまってたのかとよくよく見てみると、倒れてはいますがいました。

狛犬

地震が起こる前に参拝したときには、凛々しい姿を見せてくれていたので残念です。

地震前の狛犬

神社脇の石柱にも被害が。

(左)地震前  (右)地震後

でも、本社は無事でした。

椿原天満宮

お参りして、御朱印をもらいます。聞いたところによると、今年の元旦に起きた能登半島地震の被害です。

鳥居も少しずれてしまい、万一、天満宮の額や鳥居の一部が人の上に落ちてくると危険なので先のロープが張られていました。

すでに半年以上経つので、早く復旧することを祈ります。 

椿原天満宮の由来

椿原天満宮は、加賀藩と関係の深い神社ですが、その歴史は江戸時代よりもさらに遡ります。

鎌倉時代、加賀国の守護、冨樫(とがし)氏が北野天満宮より勧請します。

場所は、兼六園に程近い現在「賢坂辻」と呼ばれるところでした。
地名の由来には諸説ありますが、もとは「剣堺辻」だったというものが有力です。

「辻」とは、十字路のことを指しますが、出会いと別れの場所、境界という意味も含みます。

境界は、古より神秘的な力があるとされ、道祖神が置かれたり、辻で占いをする「辻占」がされたりしていました。

金沢のお正月の風物詩「辻占」という中に言葉が書かれた紙の入ったお菓子の由来もここにあります。

辻占

「賢坂辻」の名は、椿原天満宮と久保市乙剣宮の氏子の境界だとつけられたといいます。 

出典 :  金沢市街図 明治初年
金沢市立玉川図書館蔵
久保市乙剣宮

加賀一向一揆が起きたことにより、田井村(現在の小姓町)へ移され、地名がついて、田井天神と呼ばれ、その辺り一帯の産土神となります。

さらに、都市整備に伴い、小姓町が惣構(そうがまえ)の中に入り、田井村は馬坂ノ下へ移動し、本社は藪の下へ。

馬坂

1635年、武家屋敷が広まって、田井村が再度移動し、本社は、現在地へ移動されました。

一向一揆の砦、椿原山砦

ここは、一向一揆の大将が陣屋を置いていた椿原山砦のあった場所です。
※砦も地震後から立ち入ることができません。

地震前の様子


金沢城の庭園、兼六園へつながる台地上にある大切な守りの要です。
お城は江戸時代で一向一揆の時代には無関係じゃないのと思いましたか?

金沢城は、一向宗の拠点、尾山御坊(金沢御堂)のまさにその場所に建てられたので、一向宗にとっても重要な場所でした。

砦の石垣はいつ作られたものかは、はっきりしませんが、隅は算木積みのようになっていてお城の櫓を彷彿とさせます。

砦の算木積み部分

金沢城の中の極楽橋は、尾山御坊へ参拝するための橋だったと言われています。
その石垣を思い出しました。

金沢城の石垣

蓮如上人が布教をして広めた一向宗、浄土真宗は、北陸に強い勢力を持っていて、金沢だけでなく福井県や富山県にもお寺がたくさんありました。

この椿原天満宮のふもとにある道は、福光街道という重要なルートでした。
金沢の若松町にあった有力寺院の若松本泉寺  
、そして城端の善徳寺、井波の瑞泉寺へつながる道です。

若松本泉寺は、金沢御坊と同じくらい大切な拠点だったので若松御坊の名も残っています。

椿原天満宮に関する資料を見ると、若松御坊防御のための図面もありました。

若松御坊防禦配備要圖
金沢市立玉川図書館蔵

若松本泉寺は残っておらず、現在は別のお寺の墓地があり、ひっそりと若松御坊跡の石碑がたたずんでいます。

若松御坊跡

天満宮から旧街道沿いの天神町は、もともと宿場町でした。

歴史ある椿原天満宮ですが、椿原の名がつけられたのは明治に入ってからです。
もともと境内から馬坂にかけて、野生の椿が生い茂っていたためです。

天神町緑地(冬撮影)

天満宮の近くには、天神町緑地があり、そこには多くの種類の椿が植えられています。

馬坂から天神町を見てみると、旧街道の両脇に町家がきれいに並んでいるのが分かります。

馬坂から見た天神町の街並み

奥の山沿いに見える2つの町のうち、右奥が若松町で若松御坊があったところです。

椿原山砦から、当時は若松御坊も見えていただろうし、当時の人は何を考えて見ていたのかと想像するとタイムトリップ感覚におちいります。

金沢の町家の宝庫、天神町

現実に戻り、天神町を歩いてみると、雰囲気のある町家が並んでいます。

天神町の街並み

江戸時代を思わせる2階の背の低い町家。

2階の低いタイプの町家

格子があり、2階の背が高い町家。

雰囲気のある格子のある町家

さらに進んでいくと、旧高田桶屋があります。 
こちらも、2階の高さが低く、フラットな屋根から、石置き屋根だったという江戸時代の特徴が現れています。

旧高田桶屋

文政8年の町の並びを金沢町名張で確認してみると、天神町にあたる場所には、桶屋のほか木挽職、大工と木材関連の職業の人が多くみられました。

左の田井天神から右の馬坂までの町
出典 : 御小人町・柿木町・天神町・吹屋町・主計町等絵図
金沢市立玉川図書館蔵

この辺りに、いい作りの町家が多いのはそのためかもせれません。
軒下がせがい造りでも、より装飾的な二重せがい造りの町家もちらほら見受けました。

軒下の腕木が二重になっているせがい造り

金沢の町家について興味のある方はこちらをどうぞ。

椿原天満宮と天神町から、一向一揆からの金沢の歴史が見えてきました。

堅苦しいのはちょっとと思ったら、例祭に訪ねてみるのがオススメです。
昔懐かしい屋台が、町家の通りに並び、にぎやかです。

例祭のときの天神町の様子

まだ8月になったばかりですが、次の例祭は9月25日。
正面の鳥居を括り、参拝できますように。

参考 
「金沢わすれ話」
「稿本金沢」
「復刻新版金沢・町物語」
「椿原天満宮資料」
「金沢町名張」

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