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笑顔の理由

「本当は、泣きたかとやろうに、泣いてよかとに、無理して笑ってから…」

2022年の7月に、祖母が他界し
それまでと、そこからの境目に
とても図太い線を引かれた気がした。

それから間も無く、母が怪我で入院。
2ケ月程で、一人暮らしを再開するまで
回復できたことは、今となっては
不幸中の幸いだったと思う。

平成元年に新築の建売で買った実家は
私が小学5年生から、22歳で結婚するまでの
12年間、祖母と母と私の3世代女子3人で暮らし、時々、弟が帰ってくる。

結婚してからは、母と祖母の2人暮らし
長崎の大学へ進学した長女も
入学から半年、お世話になった。
2020年に祖母が、ホームを転々とする頃から
住人は、母一人に。

母にとっては、二人三脚で生きてきた祖
母を失い、自身も怪我をしたことで、これからの人生を見直さざるを得ない状況になった。
もちろん、それは、私の人生にも
大きく関わってくる。

一人住まいには、広過ぎる一戸建てを
早いうちに、手放したい、
母に、そんな願望が芽生えた秋の終わり
そこから、あれよあれよと
有り難いご縁に恵まれ、すぐに買い手が見つかり、翌春には、引き渡すことに。

掃除、片付けが得意な母でも
これまで溜め込んだ一軒分の荷物の処分は
至難の技。
私も、佐賀から通いながら手伝う。

急な梯子で登り降りする、屋根裏を主に担当しながら、長年、そこに居座り続けた「物」たちと対面する。
記憶にあるもの、無いものも
必要なもの、そうでないものも
最終的には、全部を出す必要がある。
懐かしいものに、時々、手が止まりそうになりながらも、ゆっくり浸る時間を削いで、仕分けてまとめておいた。

佐賀に持ち帰った荷物の中にあったのが、小学5、6年生の頃に、担任の先生とやりとりした日記帳。

つたない文字に、誤字脱字。
11歳の私は、人よりも成長が少し早くて、背伸びをしていた自覚もあったけど、ちゃんと子どもで、でもやっぱり、先生に見せてもいい内容を意識しているのが、わかる。

教師3年目(25歳)、初めての5年生の担任を受け持った先生の赤ペンで書かれた文字は
「先生」の言葉でありながら、時に、友だちのようなところも。

どうして、この宿題を始めたんだろう?
40人近い全員と。
そんな疑問も生まれ、当時は、見えなかったその労力を思うと、今となっては、信じられなかった。

2022年の春頃から再開していた日記を
母が入院してからは、ストーリーズで
公開するようになった。
佐賀と長崎を行来し、製作室も閉めたまま。
今後の見通しが立たない中でも
そこで、私の動向を知ってもらいたかったし
何より、私自身が、繋がっていたかったのだ。

そんな折に、見つけた日記帳。
私の原点は、そこにある気がしてならなかった。

ストーリーズの日記も1年以上続き
365日分を1冊にまとめたZINEを作ることにした。
2023年の12月の発売に合わせ
「日記展」という名の生活発表会も。
先生との日記帳も、会場で展示。

佐賀での会期後、長崎でも年末に1日だけ。
もう今では、長崎でも見てもらいたい人たちが居る。
そんな有り難い状況も、書くことや、言葉や文章がキッカケとなり、繋いでくれた賜物。

改めて考えると、先生が定年の頃だと気付き、同級生に尋ねてみると、その日のうちに
連絡先が送られて来た。
何をどう伝えて、切り出せば良いのかもわからず、でも、やりとりしていく中で、長崎での展示に来て下さることになった。

卒業以来だとしたら、32年ぶり。
あまりに長過ぎる年月を、手繰り寄せるように確かめ合う。
やりとりした日記帳を、会期が終わったら、ゆっくり読みたいとおっしゃって下さって、再会を約束。

UNIMAKIZINE2024、長崎での会期スタート。
赤いランタンで彩られた街中を
観光客に紛れながら、先生が予約して下さった
行きつけのお店へ向かう。

手前から奥に一直線に伸びたカウンターの
奥から2席に横並びで座る。
背後の壁までは、人一人が通れるのがやっとで、そのコンパクトさが、先生との距離を近くし、BGMが、よりあの時代に引き戻してくれた。
何より「横並び」が好きで、話しやすい。

これまでのこと、日記帳を見つけ出した経緯も改めて話ながら、お互いに当時の記憶の扉が、開いていく。

「本当は、泣きたかとやろうに、泣いて良かとに、無理して笑ってから…」

その中で、先生の口から出た一節だった。

先生は、見抜いてくれていたんだ。
そう感じた瞬間、溢れる涙と、どこかで、ほっとする自分が居た。

同級生にも、母や祖母にも、話せなかった、見せなかった、私のこと、私の一面。
先生が、見守ってくれていたことが、やっぱり、救いだったんだと思う。

笑顔でいなきゃいけなかった。
「泣くこと」は、悲しいからで
それは辛くて、シアワセなことじゃない。
幼い頃の私が、置かれた環境で学んだことだったんだと思う。
シアワセで居なきゃいけなかった。
笑っていなければ。

「泣きたいのに、泣けない私」は、今では自由に、そして、むしろ無意識に泣いてしまえるようになった。
ありのまま、そのまま。
それってやっぱりシアワセなことなんだと思ってしまう。

「泣くこと=不幸せ」じゃないことも知った。

むしろ私の場合、心が動いた時、心という器の中にある液体が、揺れて、波打ち、溢れたものが、目から涙となって、こぼれてくる。
そんなイメージだ。
そこに、いろんな感情の色は、あったとしても、悲しいだけが理由じゃない。

「笑ってたね」
「自由に生きてシアワセそうだったね」

いつ終わりが来ても
あなたの思い出の中の私は
笑っていて欲しいと思っている自分が居る。
出会えた人たちと
一緒に写真を撮れるようになったのは
その笑顔が、カモフラージュじゃなくなったからかもしれない。

笑顔の裏側。
今のそれは、昔とは、別物。
本当は、そこも知っていて欲しいと思うのは
やっぱり私のエゴで、それが通じる人
受け止めてくれる人が、知ってくれてたら
それでいい。

当時の私を、教えてくれた先生。
そもそも、覚えてくれていたことも有り難い。
教師生活の半分となる後半、支援学級を担当されたことも、私と弟とのことを話しやすかった理由なのかも。

ここまで来たら、「22+22=44」も、先生に読んでもらいたい気もするけど、もう一つのキーワードの存在を知られると、先生を傷付けるかもしれないと尻込みする。

「これからは、友だちとして…」
そう言って下さったことにも感謝して
先生と生徒でありながら、また新しい距離感で、少しずつ、答え合わせしていけたら。

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