弟
私が10月生まれ
弟は翌年の9月生まれ
年の差は
1歳離れていない
私が1歳になる前
弟が母のお腹に居た頃
二世帯住宅が完成して
引っ越しをした
詳しいことは
未だに
聞けずにいるけど
その時に
母の体調が急変して早産
妊娠6ケ月
1000gくらいで
弟は生まれてきた
かなり長い間
保育器に入っていて
一緒に暮らし始めるには
相当時間がかかったんだと思う
手術もしたけど
脳性麻痺で
歩けない
幼少期は
体も弱く
咳き込むと
ゼロゼロして
吸入器
夜中に
発作が出ると
救急車で
運ばれて行くこともあって
怖かった
小さい頃は
バギーに乗っていても
さほど目立たない
でも
年中・年長くらいになると
通りすがりの子が
お母さんに耳打ちをする
あの子なんで
まだベビーカーに乗ってるの?
長崎は
路面電車
バスなどの
交通機関が充実していて
自家用車か無くても
暮らせる町である
弟の保育園の送迎をキッカケに
母は車の運転免許を取った
父が居ない日常で
何処へ行くにも
母が弟を抱えて
家から階段を登って駐車場まで行く
弟が小学校に上がる時
「おねえちゃんと同じ学校がいい」
そう言った
母は
学校に相談しに行くも
設備的にも受け入れ体制が
整っておらず
難しいと言われる
弟にも
そう説明していた
長崎市内にも
いくつか
障害のある子が通える学校があって
見学にも行ったようだった
結局
諫早にある
養護学校に通うことになった
と言っても
母は仕事に出ていたし
毎日の送迎は難しく
学校に併設された寮に
入ることになった
6歳から
寮に入った弟
毎週土日は
うちで過ごす
母が休みの時は
土曜日に車で迎えに行く
休みじゃない時は
祖母と私とで
JRで諫早まで行き
そこから施設までタクシー
帰りはその逆のパターンで
長崎まで連れて帰って来る
日曜日は
祖母と母と弟と私
時々 はとこ家族に混ぜてもらって
出掛けたり
一緒に食事をしたりして過ごし
夜 母が運転する車で
諫早まで送っていく
別れ際
弟は
いつも泣いていた
母の苦渋の選択
親になった今なら
なんとなく
わかるような気もする
遅かれ早かれ
親が先に旅立つ
残された子が
一人でも生き抜く力を
身に付けさせておきたい
ある意味
守られた環境で
生きやすさは
あったのかもしれない
そしてもう一つ
私のためだ
そう感じるようになったのは
結婚する頃
もちろん
旦那さんや旦那さんの家族にも
弟を紹介した
でも
式に
弟は参列しなかった
弟の意志というより
祖母の意向
私は納得いかなかったけど
祖母の心配は
理解できるところもあって
受け入れるしかなかった
車椅子に乗っていると
周りの人は
その様子を見ただけでは
その理由や原因までは分からない
早産によるものであっても
先天性によるものと
誤解された場合
私のイメージが悪くなる
そう判断したようだった
そんなこと
若い私には考えもつかなかったこと
弟には申し訳ない気持ちで
いっぱいだった
それまでを振り返っても
私の幸せの隣には
いつも弟の我慢が
あったような気がして
いつか
その仕打ちが来るんじゃないかって
びくびくしていた
幸せなことを
そのまま受け止められない
その悪い癖は
そのずっと前からあったことも
思い出した
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