Netflix「オクジャ」/肉を喰らふということ
「オクジャ」をみた。Netflixオリジナル配信の映像作品だ。無類の肉好きの私にとって、非常に考えさせられる作品だった。
オクジャとは、ミジャという少女が飼っているスーパーピッグだ。育てやすいように遺伝子操作された、巨大な豚。何年か育てたら返す約束で、ミジャの祖父が、引き受けた。そしてもともとの約束どおり、精肉を扱う企業に返したオクジャをミジャが取り返そうとするのが、この「オクジャ」という映像作品のあらすじだ。
この映像作品を見ながら、ずっと私の頭にあったのは、アメリカ出張中に立ちよった、コロラド州にあるグリーリーという街のことだ。グリーリーには、全米で最大規模の食肉工場がある。日本のスーパーで売られている「アメリカ産○肉」の大半はその工場から出荷される。そしてその街には、血の匂いと、糞尿の混じった匂いが、充満している。
初めてその地に足を踏み入れた時、強烈な臭気に吐き気がした。一刻もこの場所から逃げ出したいという、衝動に駆られた。
もちろん商談を捨てて逃げ出すことはできず、立ち止まるしかなかった。けれど、吐き気をこらえながら、息を吸うのは、初めての経験だった。
その夜に、ステーキを食べた。
グリーリーでは、大量の牛、豚、鶏が殺されている。街に死臭が漂うほどに。だけどそんなプロセスがあったとは露にも感じさせないような、白いよくみるトレイにパッケージングされて、その死骸は「肉」として、世界各地に出荷されるのだ。
みなかったことにはしない、とステーキを食べながら、その夜決めた。醜悪なプロセスを経て、私は肉を喰ふ。今までも。そしてこれからも。
「オクジャ」のラストシーン。ミジャは、受け入れたように私は思った。彼女が家族として扱ってきたオクジャは食肉用の豚だということ。そしてそれは屠殺され、食肉として外に出るべきもので、その輪廻からオクジャを助け出すには、対価が必要だということ。
殺されるために育てられる命がある。自分はそんな残酷なプロセスに関わらないという生き方もある。
私はそれでも肉を喰ふ人生を選ぶ。ただ決して、グリーリーで嗅いだ匂いを忘れない。
可愛がっているから、真剣だから、少女がそう願ったから。そんな理由でオクジャを解放するエンディングじゃなくてよかった。そう思う。