25/100 トルーマン・カポーティ著「草の竪琴」/そこを含めて私は私
人生でいちばん勇気を出したのは、前の夫との離婚を決めた時だ。子を産んだら家庭に軸足を置いてほしい、というのが元夫の望みで、家庭観が合わない以外は理想的な人だった。私が少々仕事をセーブして、子を育てることに軸足を置く。それだけでいいはずで、ただそれが私には耐えがたいように思えて、数年間葛藤した後、離婚する、となった。
離婚届にサインをして元夫に託した時、怖くなかったかといえば嘘になる。ただそれでも決して振り返らないと決めて、それまで全く見当したこともなかった道に足を踏み出した。
そのほか20で大学をやめて別の大学に編入したり、離婚後安定していた会社をやめ、名も知らなかったアメリカの会社に転職を決めたり、このことから私は思い切った選択をする人間だと自負していた。まだコロナの状況が不透明な6月にとある旅行に行くと決めた時もそのつもりだったし、だから万が一、のリスクをどうしても許容できずに出発の1週間前に行くことを諦めた自分に少し驚きガッカリもして、特に、本当なら、大自然に囲まれているはずの今日は、IF もしも、の先にあった未来の自分をついつい考えてしまう。
過去と未来とは一つの螺旋形をなしていて、一つのコイルには次のコイルが連なっており、またその中心主題も含有しているということを、いつか本で読んだことがある。恐らくそのとおりなのだろう。だが、僕の人生は、むしろ閉じた円、つまり環の羅列であって、決して螺旋形のように次から次へと連なっていくことはなく、一つの環から次の環へ移行するには、すべるように伝わっていくことは不可能で、跳躍を試みる他にない。そのような形に思えるのだった。僕の気をくじくのは、環と環の間にある無風状態だった。つまりどこに跳んだらよいのかわかるまでの間、その間のことである。ドリーが逝ってからというもの、僕は長いこと無為の日を過していた。
トルーマンカポーティ著「草の竪琴」
この一節に出会った時、人生とはまさに環の羅列、そう思った。跳躍しなきゃ届かない環に手を伸ばす時の怖さは、掴むことができなければずっと底まで落ちてしまうことへの恐れととてもよく似ていて、そして今の私は跳躍を試みたのに躊躇して、あっという間に遠のいた環の残像を、指を咥えて名残惜しくみているように思った。
ただ、今から1週間前に戻っても、やっぱり私は同じ選択をするようにも思う。たとえ1週間後の自分が残念に思っているのを、よく知っていたとしても。
次の行きたい先の環には飛び移れるように、だけど、時には今回のように選べずに歯がゆい思いをする。そこも含めて私は私で、そんな自分を再発見した、そんな心持ち。