池澤夏樹「夏の朝の成層圏」/小説を読む人の特権
先日参加している勉強会「コルクラボ」で読書会があった。第3回目の題材は小説。古典・エッセイが題材だったそれまでと比べて、参加者がとても少なかった。
参加者が少ない分、深い話ができたのはよかった。ただ、小説を読む、ということが多くの人にとって、とっつきにくいものになってはしないかと気になった。
そこで今回は、私が思う、小説の魅力について書いてみたい。
愛して止まない小説の1つに、池澤夏樹が書いた「夏の朝の成層圏」がある。新聞記者の主人公は、マグロ漁の取材のため、漁船に同乗する。が、甲板から落ち、何日か生死の境をさまよう。その後、幸運にも南の島に流れ着き、そこでサバイブする、というのがストーリーのはじまりだ。
南の島でサバイブする、は物語のモチーフとして、繰り返し用いられている。古くは「ロビンソン・クルーソー」「十五少年漂流記」、最近ではアメリカで大ヒットしたドラマ「LOST」も、主人公(達)が事故によって、南の島に漂着するところから、物語がはじまる。
ただそれらの物語と、この「夏の朝の成層圏」がやや異なるのは、物語の途中で、主人公が、サバイブする必要がなくなることにある。
物語の中盤で、主人公は、たどり着いた島のひとつに、とある映画俳優が借りている別荘があることを発見する。
そう、この小説の醍醐味は、主人公がこの別荘を発見したあとの戸惑いにある。偶然に南の島に流れ着き、助けを待ちわびながら、必死で生きていた主人公。ただ、いざ「助かった」となった時に彼は大いに戸惑うのだ。
生きるために働く。
少なくとも今の日本人にとってこの言葉が空々しく感じるのは、そうはいっても、貯金があれば当面食いつなぐことはできるし、たとえそれが底をつきても、家族に頼ったり、生活保護を受けたりというオプションがあるからだ。
ただ南の島でサバイブする場合は違う。働かなければ、ヤシの実がとれなければ、死ぬ。働くことは生きることだ。そこにはとてもシンプルな「生」がある。
南の島への漂着によって、シンプルな「生」を知った主人公にとって「別荘」の発見は、再び「文明」という世界線に放り出されるパラダイムシフトだ。まさにしばらくの間「自分」の力だけで生き抜いた主人公にとって、その事実が、単純に喜ばしいものではないことが、私にもよく分かった。
そして物語は、主人公が島を出るところでおわる。最終的に「文明」を手放せない自分を、主人公は知った。
この主人公の体験は、私の中にある。たとえば仕事やプライベートが上手くいかない時、人は時折「全てをリセットしたい」そんなことを思う。
でも私は知っている。「記憶」がある中で全てをリセットするのはとても困難なことだ。「夏の朝の成層圏」の主人公が散々悩んだ結果、「文明」をとらざるをえなかったように。
私が「人生をリセットしたい」そう思うことがないのは、「夏の朝の成層圏」の主人公の体験が私の中にあるからだ。
そう、小説を読む人の特権は色々な人生を体験できること。主人公の思考を文字を通して体験し、そして主人公の進んできた道筋を自分ごととして体験できること。そしてその体験は人生の色々な局面で役に立つ。
人生において迷った時、はて、あの時、あの小説の主人公はどうしただろう、そう考えられることは、とても幸福なことだと私は思う。
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