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2021/8/4 没落していく風景

いい記事を書いてバズりたい。そう思って試行錯誤していた頃に、ああなれたらいいなあと憧れていた人たちがいた。そして当時、眩しかった人たちを2021年現在、ふいに見かけるとき、とても複雑な気分になる。

その頃私はライター向けのイベントに時折顔を出しては「バズる秘訣」を会得しようと必死だった。曖昧な言い方をせずに言い切ろうという、当時もてはらされた「バズる秘訣」通りに、時には過激な物言いを試みた。ただ、どうしても炎上リスクが気になり言い切ることができない。結局会得しないまま、バズることを諦めた。

当時バズっていた人たちがその過激な物言いがうえに飽きられたり呆れられたりしているのを見かけるたび、もし私があの時「バズる」に全力を注いでいたらどうなっていただろう、と考える。注いだところでバズれなかったのか。それともちょっとはバズり、ただバズり続けることはできずに、没落していったのか。

最近気になっている作家に村上春樹が敬愛するスコット・フィッツジェラルドがいる。1920年に出版した処女小説で大ブレイクし、一世を風靡したものの、歳月を重ねるたびにどんどんと落ちぶれ、再起を願いながら叶わず、1940年に不本意に、心臓発作で死ぬ。
そしてちょうど時代の寵児からそうでもなくなっていく過程の1932年に、その暗い未来を予測していたエッセイがあって、何だか胸が締め付けられた。

思い出だけを残して、何もかもが消えてしまった。それでも時折、私は自分が一九四五年の「デイリー・ニューズ」紙を不思議な興味を持って読んでいる図を想像する。

五十男、ニューヨークでひと暴れ
フィッツジェラルド放蕩のあげく、
激昂したガンマンに射殺さる。

となれば私はいつの日にかまたその街に戻り、本でしか読んだことのない新しい経験をすることになるらしい。それまでのしばしの間に私にできるのは、失ってしまったあの素晴らしい蜃気楼を思い嘆くことだけである。ああ、戻り来よ、純白に輝けしもの!
スコット・フィッツジェラルド「マイ・ロスト・シティ」

時代の寵児になるのと引き換えに、この哀しい予感を引き受けられるか?

他人と自分を比較することに意味がないのは、こういう所なのだと思っている。


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