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質的研究とは何か

質的研究の本について、気づきを投稿しようとしたら、同じ筆者の論文について下書きしていたものを発見。先にこちらを投稿しちゃお。えいっ。


この問い、半期に一度は投稿しているかもしれない。わりといつも考えている、質的研究とは何か、と。(聞かれたりするし)

今回は、大谷尚(2008)質的研究とは何か-教育テクノロジー研究のいっそうの拡充を目指してという論文を題材にした、とある質的研究の勉強会で印象に残ったことなどから考えたことを記しておく。

教育とはなんだ

そもそも、教育とはなんだ

勉強会における先生からの問い

今は、教育テクノロジーがあるということを前提として、何に教育の意味、意義を見出していくかが問われている。もちろん、テクノロジーそのものを学ぶにとどまらず、テクノロジーがある環境において、何を学ばせていくかということ。

英語教育においては、英語「を」学ばせるのか、英語「で」学ばせるのか、という問答も存在するので、それと同じかなあ。

私のなかには、教育とは概念理解をうながすこと、というひとつの教育におけるテーマがある。IBに出会い、それが言語化されてからずいぶんと気持ちが楽になった。

これまで自分が習ってきたたいていのこととは異なるものだが、概念理解をうながすことは、現にいま、学生が授業で心を動かされる場面のひとつになっている。

先生の英語の授業では、これまで考えたこともなかったようなことを考えることが新鮮で面白いと感じる。

学生のコメントより


質的研究とは

さて、教育における質的研究とは学びをどう見取るかであり、教師として、学習者として、今、学びの場で起きていることをどう解釈するかの学問である。

目の前の事象について、理論化することを意識しながらこのケースにおける特徴はなんだろうと見取ること。そして対象物だけを見るのではなく、その対象物が置かれた環境も合わせて見る。(それが対象に影響を与えている可能性も含めて)


一般化を否定するわけではないが

(質的研究は、)研究対象の有する一般性や普遍性より、その個別性や具体性や多様性に即して分析する。

大谷尚(2008)質的研究とは何か-教育テクノロジー研究のいっそうの拡充を目指して より

量的研究は、一般性を最重視する。しかし質的研究はむしろ対象の個別性・具体性を重視する。

大谷尚(2008)質的研究とは何か-教育テクノロジー研究のいっそうの拡充を目指して より


なので、量的研究をもとに一般化を最優先するひととは、ゴールもそれに向かうプロセスも異なる。この違いを理解した上で議論できればいいが、ここが理解されていない場合、議論にすらなり得ない。量的なゴールをイメージしながら、質的に行っていることについて否定することの理不尽さにすら気づいてもらえないことも多い。

大学院でそんな時間をよく味わったが、大学院を出てからも味わうことがある。そもそも目指すところが違うんだけどな、と思う。質的にアプローチしているときに目指してるのは一般化ではない。目の前の事象をどう解釈して理論化するか、だ。


立ち位置を明確に

なので、

「人」がその人のメガネ(視点)で分析するのだから、解釈が異なって当たり前。同じ数値を同じ統計にかけたら同じ結果が出るのとは違う。同じ事象でも、解釈する人が異なれば、結果は変わる。

だから、この解釈はこういう環境にいて、こういう風に生きてきた(生きている)「私」がしています、と立ち位置をなるべく明確に示す。

自分の立場を明記する。
自分はこの視点で、問題をとらえていると明らかにする。

もうさ、どちらが正解でどちらが間違っている、ということではなく、私が私のメガネ(視点)で分析した、ただそれだけ。不毛な議論(いや、議論にすらなり得ないこと)をふっかけるのをやめてほしい。

質的研究の一般性は、量的研究の一般性とは質が異なっている。


質的研究の一般化可能性

質的研究の一般化可能性は、論文の結論自体にはなく、それはむしろ、研究のオーディエンス(論文読者等)が論文を読み、それを自分の抱えているケースや、その他のケースと「比較」しながら「翻訳」することで、適用が可能となり、一般化が実現されるのである。

大谷尚(2008)質的研究とは何か-教育テクノロジー研究のいっそうの拡充を目指して より

つまり、質的研究の一般化可能性は、その「比較可能性」と「翻訳可能性」によって提供されるものと考えるべきなのである。

大谷尚(2008)質的研究とは何か-教育テクノロジー研究のいっそうの拡充を目指して より


結果をそのまま示すのではなく、読み手に概念が伝わるように、つまり読み手がそれを翻訳して理解するという可能性を秘める。

ここで話題になったのはストーリー仕立ての車のCM。読み手(視聴者)に自分のストーリーに転じて感じさせる、考えさせるという手法。

そういえば質的研究の論文の書き方でも、そのような手法があると聞いたことがあるな。粋でいいよね。答えをそのまま伝えるような無粋なことがない。


なぜ、質的に教育に迫る必要性があるのか

researcherが多様な視点でデータを分析し、質的に迫ることで、
多角的に教育をとらえる姿勢が養われるのではないか。

勉強会での先生のことば

教育における質的研究とはつまり、多角的に教育をとらえる姿勢を養うこと、というこのことばはグッとくる。


とあるプロジェクトにて、

MAKIさんの分析がすごい

とあるプロジェクトで言われたことば

というお言葉をいただいた。

事象について一般化を目指しているのではなく、それぞれの置かれている環境や状況も含めて、その事象から浮かび上がる理論、をいつも考えているから。

ベクトルが向いているのは一般化ではない。事象をシェアしてくれた人自身に、なんらかの概念理解を促されるような気づきがあればいい、そのためにその事象をどうとらえるか、どう解釈するかにいつも向き合っている。

わたしは日々、質的研究としての鍛錬をおこなっているのかもしれない。早く教育の世界にも質的なアプローチが浸透して、互いの解釈を尊重しあいながらクリティカルに議論ができる日がくるといいな。


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