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ドリルと日記
#note100本ノック
Day 76
小学生の頃、毎日日記を書いていた。
自由に取り組む家庭学習は、「自分のやりたいことをなんでも」やってよい。なので毎日日記を書いて、週に一度、先生に提出していた。
先生、あのね
わたしは担任の先生に伝えるために、自分の日常から楽しいことを切り取っていた。先生からのお返事も楽しみにしていた。
漢字ドリルや計算ドリルの宿題は全く楽しくなかったけれど、日記を書くのはとても楽しくて、ちっとも苦ではなかった。
あるとき
でもあるとき、周りの友達はみんな、家庭学習として国語や算数のドリルに取り組んでいることに気づく。
6年生で日記を提出しているの、わたしだけだ。
急に自分だけが幼い取り組みをしているような気持ちになり、恥ずかしくなった。だからちょっと背伸びをして、書いていた日記の最後に、
「今度から国語や算数の勉強もしてみようと思います」
と書いて提出した。
先生からの返事
先生からのお返事はこうだった。
待ってました、その言葉!
そのお返事を読んだ時の、複雑な気持ちが今でも忘れられない。
そうか、
自分がやっていたことは「正解」じゃなかったんだ。
家庭学習って、
国語や算数のドリルをやらなきゃいけなかったんだ。
日記を書いて、
先生からのお返事もらうの楽しかったんだけどなあ。
その後、6年生のMAKIは漢字ドリルや計算ドリルの家庭学習を始めるも…すぐに続かなくなった。何も面白さを感じなかった。
日記は書き続けていたが、提出するのをやめた。だって、先生は漢字や計算をすることを望んでいるんだもの。つまり、わたしは家庭学習をやめてしまった。
ここでわたしは、
日記を書くことは「学びではない」と認識した。
ドリルより価値がない
教育に携わるようになってから、時折、あのときのことを思い出す。
小学生だった わたしは、先生の言葉からこういう概念を受け取ってしまった。
日記は、ドリルより価値がない。
国語や算数のドリルに取り組むことは価値あること。でも自分の日常を切り取った日記(ストーリー)には意味がない、と思い込んでしまった。
そして、その概念は大人になっても特に更新されることはなく。自分の語るストーリーに価値を見出すことなんて、ずっとなかった。
日記は、学びとは切り離された娯楽、のようにも感じていたかもしれない。
あなたのストーリーには価値がある
しかし去年、ストーリーテリングについて学んでいたときに、こんな一節に出会いました。
あなたのストーリーには価値がある
その本には、有名な方や偉人のスピーチにだけ価値があるのではなく、どんなひとの語るストーリーにも価値があることに気づくべきだと書かれていた。
なるほど、と納得した。
今、このnoterが面白い!
先日、『今、このnoterが面白い!』に選出していただいた。
この記事を選んでいただき、とても驚く!
なぜなら、この記事は「面白さ」をねらって書いたわけではなく、ただ自分の日常を切り取って書いたものだったから。それはいわば、小学校6年生で日記を書いていた時と、なんら変わらない姿勢で描いたもので。
小学校のとき、日記はドリル以下と思い込んだけど。今回はこの日記は面白い!って言ってもらった気がした。「あなたのストーリーには価値がある」って。
先生は最大の環境である
あのときの担任の先生は、きっとわたしとのやりとりは覚えていないだろう。
でもわたしにとっては、日記はドリルより価値がないという概念を形成してしまう、とても大きなひとことだった。
先生は生徒にとって最大の環境である、という言葉がある。自分の子どもの頃を思い起こしても、それは本当に事実であるといえる。
だからこそ、学校は知識を与えるところ、ではなく概念に気づかせるところだと感じる。だって、その担任の先生に習った知識については全く記憶にないのに、40年経った今でも、受け取った概念は脈々と受け継がれているのだから…。
ストーリーの持つチカラ。
そして、アウトプットすることで、得られるもの。
「日記はドリルより価値がない」なんて、思いたくないし、思わせたくない。
もちろん、今のわたしよりもずっと若いあのときの担任の先生を責める想いは一切ない。だってあのときの教育としては、それが最先端だったのだろうから。
いまは21世紀。令和の時代。
ここからの教育に携わるわたしが、次世代に渡したい概念は、こちら。
日記は、ドリルより価値がある。
追伸:
厳密に言えばドリルと日記は学びの目的が異なります。ドリルに価値がない、と伝えたいわけではありません。この言葉は、小学生だったわたしのような経験を次世代に引き継ぎたくないとの思いから、極端な表現になっています。