「ふりかえりはわかちあい」
ふりかえりはしていても形だけになっていないか?という疑問があって。
ふりかえりのふりかえりをするようにしてみた。
その後、前回のふりかえりをふりかえる、というようになって。
以前よくなかったからこう変えよう、と決めてみたことが、よくなったかどうか、などを確認していく習慣はついてきているように思う。
うまくいかなかった反省とかだけでなく、よかった点や感想だけでも書いていこうと話したら、よかった点なども話す人が増えてきている。
以前よりはふりかえりはよくなってきているようには思うのだけど、話さない人は話さないし、何が起こっててどうよくなっているかよくわからないと思ってしまう。
「ふりかえり」ができていないのではないけど、やりたかったことがこれじゃない感がある。
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うまく進んでないし、課題があるはずなのに、何も見えなくて不安だし。
困っていることとか、困りそうとか、ちょっとしたことでもなんでも話してほしいと伝えても、そんなに困っていないと言われたり、なんでもと言われると何を言っていいかわからないと言われたりして、聞けないからわからないままで、余計に不安になってしまう。
不安になっているのは自分の問題で、なんで不安なのかがほかの人たちに伝わらなくてただ不安感だけが伝わってしまうのも問題のように思う。
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どうすればいいんだろう?って思って。
「よかった」「よくなった」「うまくできなかった」というようなときに、もっと深く聞けたらいいのかもしれないとも思う。
でも「なぜできなかったか」は聞く人も話す人もいるけど、時間がなかったから次はできるとか、わからないことがあったから相談して進めるとか、そういう表面的なところで終わってしまう。
時間がなくてそれ以上ひとつひとつ聞いていく余裕もないし。
タスクの進捗については個人の問題になっていてチームの問題にできていないところもあるかも。
別のチームでは、「気づいたことや問題点」を話すようにしていて、そこでは「問題ってほどではないけどちょっと気になって」と話が出ることもある。
そういう、問いかけのしかたで変わる部分もあるのかもしれない。
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そういう中で、ふりかえりはわかちあい、と書かれていた内容を見て。
そんな感じに進められたらいいなぁと思ったのだけど。
進め方とか内容よりも、意識の持ち方の違いが大きいのかも、とも思った。
ふりかえりをもっとよくしたい、と考えているのが、方法を考えてしまっていて、「わかちあいたい」気持ちとずれてしまっている気がする。
こんな風にできたらいい、みんなが話せたらいい、対話で深まるといい、とかを考えて、どうしたらそれができるかって手段を考えていたけど。
よかったことは共有してもっとうまくやりたいじゃん、ってことだし、困ってることや気になってることは共有してみんなでなんとかしたくない?ってことだし、そういうことを伝えられていないなぁと思う。
共有すれば何かが起こる、共有した方がよくなる、ということを共有できていないと思う。
といってもそもそも、言葉で説明して共有するものでもないとも思うけど。
ふりかえりの時間の中でできる方法を考えると手段とかやるべき論みたいになってしまうので。いろんなシーンで話しながら体感できるようにしていけるといいなと思う。
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