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「あ!」という感覚は何を示すのか。

言語にしたり普遍的にしたりすることで、体験というものが表せなくて抜け落ちると思う。

登壇者の先生からも、伝わるときは説明しなくても「あ!」で伝わるよね、って話があった。
共通の体験、共通の感覚、そのときその場で一緒に感じた何かを、「あ!」っていうだけで、この何かだと認識できる、そういう感じ。
(っていう説明も多分全然伝わらなくて、あのときにあの場で、あの「あ!」っていう説明を聞いた人に「あの"『あ!」』"」で伝わるんだと思う。)

そのときその場にいて同じ体験をしていたら、同じ「あ!」で伝わってその体験を共有できる。
でも、同じことを見聞きしていても、感じることとか気づくこととかはそれぞれで、見えていることや聞こえていることもそれぞれちょっとずつ違ったりして、体験している事柄が同じでも、体験そのものは別々だ。

そしたら、その「あ!」で伝わること、共有していることってなんなのだろう?
体験を伝えあったり共有したりしているはずだけど、その体験そのものはまったく同じものではない。
その人が体験したことはその人にしかわからなくて、ほかの人と一緒に見えても一緒でない。

そう思うと、「あ!」というのは、その「あ!」が発生したそのときに、それぞれが戻るきっかけの共通語なのかもしれない。
あのときのあれのことだ!と、そのときその場で感じたり得たりしたものを、思い出しにいったり追体験したりする。
「あ!」というものによって共有しているのは、過去のそのときのことではなくて、そのときのその感覚を共有している気分という、今ここで起こっている体験なのかも。
「あ!」で、同じタイミングで同じようにそのときの感覚を今感じ合っているのだ、ということが伝わっているのかも。
だから、同じ体験をしていないと共有できないし伝わらないものなのかな、と思う。



だったら、その「同じ体験」というのは何を指すのだろう?とも思う。
そのときその場で一緒にいて同じものを見聞きしているのは、「同じ体験」だと思うけど。(ちゃんと見てなかった、違うこと考えてた、みたいなのは除く。)

そのときに、リアルの場所として一緒にいなくても、オンラインでも「同じ場」にいて、一緒に体験していると思う。
でも、オンラインでリアルで同じ場にいるときと「同じ体験」なのかがわからない。
限りなく同じに近い気もするし、それならリアルで同じ場にいてもそれぞれちょっとずつ違う体験をするのだから、「同じ体験」と言っていいような気もする。

アーカイブ視聴の場合はどうなのか。
個人的にはアーカイブはデータでしかない気がしていて、リアルで起こったことをあとから情報として取り入れたり理解したりするもののように感じている。
だけど、それは私のアーカイブの見方がそうなっているだけかもしれない。
データで情報でしかない、って思って見ているから、データで情報なだけに見えるだけではないか。
リアルにいるときの気分で、そこにいる人に擬態する感じで見てみたら、ほぼ「同じ体験」になるかもしれない?
想像力とかなりきり力とかによるかもしれないけど、ミミズになりきるくらいにそこにいる人になりきったら、リアルタイムで体験してるのとどれくらい「体験」として違うのか。
(と考えてみたけど、やっぱりミミズはあくまでも「なりきって自分を見てみる」体験だから、同じようになりきってみても、体験としては違うかも。)

リアルで体験したあとのアーカイブ視聴は、リアルを思い出すためのデータと思うけど、はじめて知るのがアーカイブの場合、やっぱりそれは「体験」ではあるのだと思う。
「同じ体験」になるのかどうかがわからないけど。
リアルタイムとはやっぱり何かが違う気がしてしまう。

「あ!」と言われていくところが、リアルの場やオンラインでリアルタイムで体験していたら、そのときの感覚に飛べる気がするんだけど、アーカイブで見ていると、アーカイブで見たみんなの様子とかそれで把握できた思考的な方にいってしまう気がする。

体験とか共有ってなんだろうな?って疑問に思うまま続く。

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