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娘の「二十歳のつどい」の日。

昨日は成人式の日。
今は「二十歳のつどい」だけど、やっぱりなんか「成人式」がしっくりくる。
慣れてないだけで慣れたら普通になるのかな?

娘が成人式の年なのだけど、以前から、あとで友達と着物写真だけは撮るけど成人式には出ないと言われていて。
お好きにどうぞ、と言っていたし、本人がしたいようにするのが1番だと思ってるけど、晴れ着姿であるいている子たちや、SNSでの成人式写真などを見たら、晴れ着姿見れてないのがちょっとさみしくなった。
いずれ写真を見せてもらえるとは思うけど、当日見るのと写真撮影のために着てる写真見るのとはやっぱり違う気がする。

とは言っても、この日に着てほしかったってほどではなくて、ちょっと感傷的になっただけなんだけど。
ないものを目にして、うらやましくなって。

大学に行ったときに家を出てるし、なんなら高校の途中から家出て高校近くに一人暮らししていた娘なので、もうすっかりひとり立ち風味ではある。
まだ学生だから、大学費用や教材費とか寮費光熱費とかの支払いはしてるけど、ご飯とか服とか遊ぶ分とかほぼバイトでがんばってるし、学費さえなんとかなればひとりで暮らしていける力はあると思う。

もともと、私がいつ死んでも生きていけるようにというのもあって、自分がやりたいことは自分でやるようにってしていたし、ある程度なんでもまずやってみてもらって親でないといけないところだけ私がやるって方針にしていたし。
もう今は18歳で成人というのもあって、成人なんだから手続きとかも含めて自分でやってもらうことが多いし。

帰ってきたときくらいは多少何かしてあげたりするけど、お金以外は完全に手が離れてる状態。

それでも、「成人式」ってなると、記念の日と思うからか一区切りみたいな感じにもなり感慨深い。
別にこの日は実際には何かの区切りなったりしないのに。

晴れ着の写真だけならあとで見れるし、実際に晴れ着着たとしても私は一緒に撮らないし(今回会わないで写真だけだからでなく、一緒にいてもきっと自分とわざわざ撮らない)、親子3人で撮ったりもしないと思うんだけど。
それなのに、もう親子でとか姉弟でとか、記念写真撮ったりするタイミングってないなぁと思って、もうないんだなってこと自体にさみしさはあるかもなぁ。

もともとそんなにマメに連絡し合わないし、写真撮ったりもしてないのに、成人して自立していったら、様子を知ったり写真見たりもあまりなくなるんだなぁと思ってしまう不思議。

「二十歳のつどい」になったけど、やっぱり、「成人式」なんだろうなと思う。
大人が用意する子供のための(という名目の)最後の儀式だなと思うし、それが感慨深さを連れてくるのだろう。

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