「育てる」という言葉。
以前、人材開発・組織開発の話をしていたときに、「人を育てる」という言葉が出た。
「育てる」っていう言葉自体が、もやっとして好きではなくて、気になってしまう。
「育てる」ってなんなのかな?って思う。
赤ちゃんとか小さい子を「育てる」のはわかる。
それは、ほんとに最低限ちゃんと生きれるためにやらないといけないことがあるから。
だけど、成長して自分で動いたり考えたりできるようになったら、他人の何を「育てる」というのだろう?
その人の、何がどうなったのが「育った」と言えるのか?
何がどうなったら「育った」のかを、人が決めたりジャッジしたりするものなのか?
なんで、自分が(「育てる」と言う人が)、そんなことを決めれたり、それで導いたりできるのだと思えるのだろう?
って思ってしまう。
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その人がどうなりたくて、どの方向に伸びたいかって、人それぞれが考えたり決めたりすることだと思う。
もちろん、その人が持ってるスキルレベルがあがるとか、できることが増えるとか、一般的にわかりやすい、汎用的に認識されるような「成長」っていうのはあるけども。
そうなるように仕向けるのが「育てる」かもしれないけど。
でも、本人がどの部分をどの方向に伸ばしたいかと、外野がこう伸ばすべきと思うことが同じとは限らないし、同じであっても結果論だと思う。
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そのときの話は、文脈としてはわかると思ったし、多分考えていることもそんなに違わないと思うのだけど、だからこそ「育てる」って言い方が気になったのだった。
「育てる」だと上から目線な感じだから苦手で、「育つ」のがしっくりくるし、そういうものだと思う。
お花とかみたいに、水やりはするけど、どう育つかはわからない、っていうイメージ。
想定どおりに変わるとかないけど、何か変わるかもしれないし、変わらないかもしれない、みたいな。
結局は本人の力だと思う。
サポートとかヒントとかがあるとしても、活かせるかどうかって本人次第じゃない?
同じ人が「育てた」からって、誰もが同じ結果になるわけではない。
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そういうわけで、「育てる」って使いたくない。
子供のことでさえ、「育った」って感じでいるから、他人のことだとなおさら。
そう言うならそもそも、「人材開発」って言い方もどうなん?って感じではあるけども。
開発ってどういうこと?っていう。
けど、「development」の訳し方の問題で、「開発」って訳すからおかしいだけで、「発達」とか「成長」みたいにしたら自然な気がする。
開発ってやっぱり上から外からな感じだから、ほんとは訳し方変わったらいいなと思う。
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