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ただ純粋に楽しんだり喜んだり快楽を求めるのが罪悪感ってなんでだろう?

自分が、特に理由もなく、単純に楽しいとか嬉しいとか心地よいとかでいることに罪悪感がある。
人がやってるのは別にだめだと思わないし、むしろうらやましいのに。
うらやましいのに、できない。できないからうらやましいのだと思うけど。

さめじまみおさんのこの記事がすごく共感だった。

ただ気持ちいい、おいしい、楽しい、とかでいいのにね?

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実は最初タイトル見たときは、どういうこと?と思ったのだけど。
私はいつもこのタイトルの逆で、手段が目的になってるのどうなの?って思うから。
「○○のために□□する」のはずが、○○となるかどうかおいといて、「□□できるように」って目的化しちゃうの多くない?それがすごくいや。
でも書き方は逆だけど言いたいことは同じかなと思って。

そして、それ以上に、仕事とか美容や健康とか、何かのためでないと自分が嬉しいことができない、という話にすごくうなずいた。
そうなの!何かのためだと理由をつけないと、ただやりたいっていうのができないの!って思って。

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何年か前から、自分の感覚を大事にしたいと思って、好みのものや合うものを選ぶように、感覚に合わないものはできるだけ取り入れないようにと思って過ごしている。

そういうのもあって、「おいしい」はあまり理由なくてもできるかも。めちゃくちゃおいしいのを選んでいるというわけでもないけど、食べたくないものを食べないとか、そのとき選べるもので1番食べたいもの、とかはできる。

「身につけていて心地よい」とかも同じかな。めちゃくちゃよいとか全部が大好きとかまでではないけど、そのとき着たいもの着て身につけたいものをつける。好みでないのに場に合わせてとか年齢相応にとかしない。着心地よいとか着ていて嬉しいとかでなく、扱いやすさとかも考えてしまうことも多いけど。

と書いてみていて思ったけど、食べるのとか身につけるのとかは、どうせやるものだからその中で選ぶのに自分の感覚優先がしやすいのかもしれない。
新たに何かをするのではないから、理由をつけずにすむのかもしれない。
そもそも「どうせやるものだからその中では」っていうのも、好きなのを選びたいための理由にしているのかもしれないけども。

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実際には、なんだかんだと理由をつけてはやりたいことをそのまま目的にしてやっている気もする。

ここで文章を書いているのも別に何か仕事になってるのではないけど、でもいつか何かにつなげるつもりだしと理由つくって書いてる。
仕事でなくて自分の描きたい絵を描いてみようとするのも、自分がやりたいから、これをいつか仕事になるようにと理由をつくって描こうとする。
つかれてるから癒やしが必要だしと、のんびりまんが読んだりするし、もう身体限界だからプロの手が必要だとボディケア行くし。

でもやっぱり、理由がないとやれないし、わざわざ理由つくって自分に言い訳するようにしてやることに罪悪感を覚えてしまう。

ただやりたいからやる、でいいのにね?
楽しいから、おもしろそうだから、気持ちいいから、嬉しいから、やりたいのでいいのにね?

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みおさんがこんな風に書いていて、なるほど!と思ったのだけど

手段が、目的のための手段であるうちは、そこにあるほんとうのパワーというものは生まれないのかもしれない。手段は目的のために貶められ、損なわれてしまう。

けれど、手段が目的そのものにまで昇華したとき、ていうかそもそも目的なんてなくて、”ただそれがある”だけだった、ということに気づいたとき、そこからありとあらゆる可能性が花開いていく。

それに加えて、「何か理由がないといけない」(みおさんの言うところの「目的」)と感じていて、そうでないと罪悪感を覚えてしまうことも、パワーが失われるとか、そのものが損なわれるとかの原因にもなるかもなと思った。

罪悪感があるような、そのことを純粋に楽しめていたりしないような、そんな、ちょっとマイナスが混ざったようなエネルギーのままやっていると、そのことをただ単に純粋に楽しむことができないだろうなと。そのことを味わいきれないし受け取りきれないだろうなと。

だからといって、罪悪感はいらないとか、そこに集中すればいいのだとか、思考で制御して「そのままそこにいる」のでもなんか違うんだろうなと思ったりもする。
ただ純粋に、というのも、純粋という言葉があっているのかわからないのだけど、自分の感覚に従って感覚に委ねて自由に動けるといいのかな。

いちいち理由をつけないと動けないとしても、そのときにそのままに自由に自分の感覚が求めるようにしていられるだけで、なんか違ってくるようにも思うのだ。

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