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怒ったり戦ったりは価値観を守るため。

小さい頃、完璧主義で短気だったので、「早死にしそう」ってずっと言われていた。
そんなのもあって、私は長生きしないでそうそうにぽっくり死ぬ予定だと思っている。
単に、自由が効かなくなったまま長生きしたくないだけだけど。

という話をしたときに、今のイメージからは想像できないねって言われたりもしたんだけど(と言っても今でも結構すぐいらっとしてると思う)、多分小学校から高校くらいまでがずっと、基本的に完璧主義で短気っぽい感じだったと思う。

そうでなくなったのは、戦わなくてよくなったからではないかと思っている。
戦わなくて、自分を守らなくてよくなったから。

子供の頃って、自分の考えと違うものを押しつけられることが多いし、いやだったら戦うしかないじゃん?
親とか先生とかに屁理屈って言われつつ反抗するとか、クラスの子と意見が合わないときなどどっちが正しいか争うとか。

今思うと、完璧主義なのも、自分の好みでそうしていた部分もあるんだけど、戦うときの防御でもあった気がする。
完璧にしておいて、正しさを担保できるように。
自分が思う完璧にできているから、だから攻撃されない、だから勝てると信じるために。
1番とか、正確さとか、そういうのがあれば、負けにくい気がしていた。

戦うとか勝つとか負けるとか、そういうの自体、同じ価値観にいないといけない前提だなぁと、今なら思うけど。
戦おうとか勝とうとかする時点で、自分の価値観の押しつけだよね。

それが、大人になるにつれて、いろんな社会を見れるようになったら、いろんな価値観があるのがあたり前になって、戦う意味がなくなっていった。
私は賛同はしないけど、考え方は違うけど、そういう価値観とか考えの人がいるのはわかるかもなぁ、と思ったり、立場とか状況が違うとそう思うかもなぁ、と思ったりする。
(そうは言ってもときどき戦ってしまうけど。)

いろんな価値観や考え方があるのに、自分の価値観が正しいのだ、同じ価値観にいるべきだ、ってなると、もしくは、そうやって自分の価値観が侵害されたときに守りたいとなると、戦うことになってしまう。
お互いそれぞれに、自分が大事なものが大事で、ただ、大事にするだけでなくてそれを強要するからおかしなことになってしまう。

すごい極端な話をすると、戦争とかってその大きなバージョンじゃん?
自分が正しい、自分の価値観や考えに従え、だったり、自分こそ正しい、相手の価値観に屈しない、だったり。

それぞれ違う、のままでいたら、どっちが正しいとか争おうとしなければ、もっと戦いは少なくて平和になれるよね?と思ってしまう。

戦わないでいるために、距離をとったり境界線ひいて共存できるようにしたらいい。
個人的には、境界つかって共存するよりも、違いを楽しみつつ境界線なく混ざり合えるのが楽しいと思うけど。

少なくとも、それぞれ認め合える受け止め合えて、怒らなくても戦わなくてもよい状態がデフォルトになるといいなぁと思う。

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