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「持ち帰ってもらう」ものは人それぞれでいい。

ワークショップやセミナーを検討しているとき、何をテーマにするのか、そこで何を伝えたいのか、などを話していく。

そのときにいつももやっとするのは
「何を持ち帰ってもらうように設計するか?」
という話になるとき。

持ち帰ってもらうものを決めるってなんなんだ?
何を持ち帰ってもらうのかを決めて、そうなるように構成するってどういうこと?

私たちが伝えたいことがある。
それを伝えたくて構成する。
参加した人がそこから何を感じ何を持ち帰るか、感じることも持ち帰ることもなかったか、それはその人次第でよくない?

何を見て何を感じるかはそれぞれだ。
同じものを見て聞いても、響くところや気になるところなどは、その人の状況や背景でも変わってくる。

だから、伝えたいメッセージがあっても、それが届くかわからないし、届いても違うように受け取るかもしれない。
まったく届かないかもしれないし、届かなかったと思ってたのに後から思い出したりしてじわじわ届くかもしれない。
その人には届かなかったけど、その人のまわりに届いたりするかもしれない。

それでいいじゃん?

伝えたいのはなんなのか、どうやったら伝わるだろうか、というのはめちゃくちゃ考えたらいいと思う。
伝えたいことが伝わるようにすごく考えたい。

でも、それを伝えてみて、結果どう受け取るかは自由だよね?
こんなことを伝えてここが大事と思って持ち帰ってほしい、みたいなのがすごく不自然で違和感ある。
ここが大事だよ!って押しつけているみたいでいやだ。

たとえば、映画を見て、みんながこの部分に感動するように、とか言わないと思う。
本を読んで、みんながこの文章が響いたと思うように、とか言わないと思う。

全然違うもので比較にならないかもしれないけど、でもそれくらいの違和感。

何を持ち帰るようにとか意図するのは、誘導してるみたいでいやだ、と言うと、「誘導はしない」「意図しておくだけ」と言われたり、「何を持ち帰れるか明確な方が参加しやすい」「これが持ち帰れたと明確な方が満足してもらいやすい」などと言われたりして。

でも、誘導するつもりでなくても、意図していてそうなってほしいと思うと無意識にそうしてしまうじゃない?
こうなってほしいという想いは、コントロールしようという意識になりがち。

効果や大事なものが明確だとわかりやすいけど、そういうわかりやすさは学びにとっていいとも思わない。
特にキャリアとか自分のことを考えるようなとき。

結局この話も、なんか上から目線みたいなのがいやなのかもしれない。
こういう風につくりました、これが大事だとわかるようにしました、だからそれを大事だと思って心にとめてね、っていうような。
大事なことを知っているから、それをちゃんとわからせるのだ、というような。

そういう風に思ってるわけではないのだろうけど、でも、自由でいいじゃん、むしろ自由に自分がどう感じたかが大事じゃん、っていうところで、こういう考え方をしたくないのだ。

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