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自分が与えられるものはなんなのか?

何かを差し出さないと受け取ったらいけない気がする、という思考癖があるな、と思ったのは「お金が必要のない世界にいたら?」というワークをしたのがきっかけだった。

お金がなくてもなんでも手に入るしなんでもできる世界で何がしたいか、を考えてみたら。
行きたいところに行くとか、やりたいことをやるとか、好きなものを持っているとか、そういうのは思いつくのだけど。
誰かに会いに行く方法がない!と思って、会いたい人に会いに行くとか書けなかったのだった。

お金がいらなくてなんでも手に入る世界で、誰かに会いたくても相手に差し出せるものがない。その世界ではほかの人もなんでも手に入るから、何かを差し出すことに意味がない。
何もないのに会ってもらえる価値が自分にない。どうしよう?という。

価値がないとかなくて、会いたいなら会えるものだ、というのは理論的にはわかるけど、それはお金がない世界でもある世界でも同じなはずなのだけど、実感としてそんな感覚が持てない。

と思っていたところで、ふと見たのがこれだった。

君子さんが書かれている、「出し惜しみなくGIVEも TAKEもしていいこと」に、"ほっといてもダダ漏れする「私のそのままの在り方」"とあって。

それなんだな、と腑に落ちた感じがあった。

自分の在り方とか感覚とかの、自然に発してたり伝わったりするものでGIVEできるように、自分の在り方を整えていけたらいいんだなって。
そうなるのを目指したいなと思った。

そして、多分今の自分でも何かしらはダダ漏れていて、誰かに何かをGIVEできているということだとも思う。
今の自分からダダ漏れることではないことをGIVEしていきたいなら、自分が変わるのだ。

一方で、私がいつも取られている気分になる「GIVE」だと思っていることは、君子さんの書かれているGIVEとは違うなぁとも思った。

会いにきてくれた人に、惜しみなく与える、というのがベースに見えるので。
持っているものを惜しみなく与える、でも与えるばかりだとTAKEもしたくなる、という話だと思う。

私の場合、何かを差し出さないとそこにいられないと思って、TAKEのための GIVEみたいな形なので、GIVEがベースではないのだ。
自分のためにGIVEっぽい形を取っているだけ。

そういう、自分のために相手に与えようとするのは、GIVEではなくて。
与えることで自分に何かを得ようとしている、TAKEなのだと思う。
同様に、自分の欲求を満たすために与えるのも、TAKEなのだと思う。

そんな感じのGIVEっぽいふりしたTAKEはやめたいなと思うし、GIVEと TAKEをバーターにしないで、与えたいなら与える受け取りたいなら受け取るってしたいなと思う。

在り方でGIVEしたいとか、GIVEをベースにしてGIVEしたいとか、かんたんに書きつつ、それができなくて難しいんだよなと思うけど。
意識していることで少しずつでも変えていけたらいいなと思う。

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