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【映画】さよならテレビ
大阪十三・第七藝術劇場で、「さよならテレビ」を鑑賞。「テレビがマスゴミと揶揄される中で、いまテレビの現場では何が起きているのか?」をテーマに、東海テレビが身内にカメラを向け、取材したドキュメンタリー。
冒頭でカメラを向けられた澤村記者が、圡方監督に問いかける。「ドキュメンタリーは現実ですか?」。マイクをつけられ、カメラを向けられた時点で人の振る舞いは変わる。果たしてそれを現実と呼べるのか?
最後にまた、澤村記者は問いかける。「テレビではよく成立する・しないという言い方をする。『成立』させるために映像を切り取ってつなげる。その枠に収まり切らない、深さや奥行きは捨てられる。テレビの闇は深い」と。
衝撃のラストシーン
そのカットの直後に、ある種のどんでん返しが起きる。これまで取材対象に誠実に向き合っていた監督たちの「裏での会話」が流されるのだ。「主人公の福島アナはあくまでも、親しみが湧くような『いいもの』にしたいんだよね~」「この上司の顔、怖ぇ~。いかにも悪役って感じ」。キャラ設定でもしているような話しぶりである。話し声も映像もどことなくダーティーな雰囲気が漂っている。
つまり、澤村記者が指摘した「テレビの闇」は、「さよならテレビ」ドキュメンタリー班の手法に向けられたものだったという入れ子構造、ある種の「オチ」が用意されているのだ。そして、テーマ音楽が流れ「さよならテレビ」のタイトルが大写しになり、ドキュメンタリーはエンディングを迎える。
私がこのラストシーンで感じたのは、監督の「したり顔」だった。「テレビの闇を追求して撮影していた私たちドキュメンタリー取材班も、実は同じことをやっていたってわけですよ。どう? 驚いた? ハッハッハ」という、ある種の自虐的で挑発的なラストに感じたのだ。
そこがどうしても納得がいかなくて、上映後のトークショーで質問した。「ラストの裏側でのやりとりは、あれは実際に現場で交わされていた会話なんですか?」と。はっきりと言葉にはしなかったが、「オチをつけるために、作り物の会話をしたのではないですか?」という含意があった。澤村記者の指摘の直後に、あのどんでん返しを持ってくるとうことは、そういう演出なんだと思った。
圡方監督の意外な答え
圡方監督は誠実に答えてくださった。そこで私が得た回答は、意外なものだった。
「あの『裏の会話』は、実際に現場で交わされていた会話です。本当はあの映像を使われるのはとても嫌だった。でもカメラの方には、そういう(浅ましい)ところも含めて撮るようにあらかじめお願いしていた。あと、澤村記者のテレビの闇への問いかけのシーンが、ラストシーンの直前に入ったのは、本当に偶然です。真ん中あたりで挿入される可能性もあった。その時系列の編集も、編集の方にお任せしていた」
つまり、すべて圡方監督の意図どおりに作られているわけではなく、監督からも一定の距離を置いて作られていたことが分かったのだ。この回答を聞いて、私は安心した。公正だな、と思ったからだ。なにより、目の前で一生懸命、私の質問に答えようとしてくれている圡方監督の表情が信頼できるものだったからだ。
圡方監督は、別の質問者への答えでこう言った。「ドキュメンタリーにも、エンターテイメントとして成立させるための演出が必要です」。それは分かる。物語を作る上で、深刻な場面を描く必要がある場合、はりつめた空気を緩和させるために、おとぼけキャラを登場させることがある。ドラマには「対立」が必須なため、一方をわるもの、一方をいいものとして描くことがある。外部からやってきたよそ者の視点を借りた方が組織の内部は描きやすい。そういう意味で、サイドストーリーとして新人記者の「渡邊くん」の奮闘を追ったのは、大当たりだったと思う。
優れたドキュメンタリーとは
エンターテイメントとしても、テレビの現場で奮闘する人々の「ストーリー」としても楽しめた「さよならテレビ」。そのように「成立」させるために、あえて切り落とした場面もあったという。だから本作は闇なのか、だから「さよなら」なのかと言われると、私はそうではないと思う。
何をするにもたどたどしい新人記者の渡邊くんが取材であくせくするシーンは、観客のあたたかい笑いを誘っていた。初々しく、素朴で、常に笑顔の彼は、私たちが想像するテレビマンとは真逆のタイプだ。だからこそ可愛がられ、知らない人も心を開いてくれるのではないか、今までにないタイプの記者として成長するのではないか。誰もがそう期待して、彼を応援していたはずだ。しかし1年後、彼は契約期間満了を以て解雇を言い渡されてしまう。力ない足取りで長い廊下を歩き去る彼の背中を見て、私は思わず涙してしまった。
言いにくいことだが、私は本作を見るまでテレビ、とりわけニュース番組に対して強い不信感があった。「衝撃映像」と称して、痛ましい事故の映像を流す。動画やネタ、果ては「世論」までSNSから拝借すればいいと思っている。政府の失態を追求するよりも、芸能人のゴシップを優先する。画面の向こう側にいるのは敵、そんな意識さえ持っていたような気がする。
だがスクリーンに映し出されたのは、日常を生きている私たちとなんら変わらない姿だった。いつ契約を切られるか分からない身分。ミスをして怒られる。いいところを見せなければ、間に合わせなければというプレッシャーからいい加減な仕事をしてしまう。権力を監視するという崇高な目的を抱えながらも、実際にやっているのはスポンサーの要望に応える取材。どんなに会社に貢献しても交替を余儀なくされてしまう。まるで自分自身を見ているかのようだ。
画面の向こう側にいる人のことが、わがことのように感じられる。彼らも、私たちとなんら変わらない同じ人間なんだと思える。これこそが、優れたドキュメンタリーなのではないか。たとえ、ストーリーとして「成立」させるために取材対象の人選をし、映像を切り取って、結果そこから零れ落ちたものがあったとしても、「さよならテレビ」は見事なドキュメンタリーだと私は思う。
ドキュメンタリーの神が降りて来た作品
それにしても、新人記者の渡邊くんの奮闘ぶりは本当に面白かった。花見の取材のときに小さな男の子にまとわりつかれ、最初は「ごめんね、仕事だから」と断ったのにも関わらず、いざ花見客にインタビューをしようとすると誰からも断られ、けっきょく最初の男の子にインタビューを頼むくだりは、笑いの神が降りて来たのかと思った。「やっぱり俺が必要なんじゃーん」がトドメを刺してくる。
もうひとつの神シーン。仕事を終えた福島アナにインタビューをしている途中に奥さんから電話がかかってくるシーン。「遅くなってごめん。すぐ帰るから。うん、だって…今日は『あの日』だったでしょ」。あの日とは、誤ったテロップを流してしまい放送が打ち切りになった日。以降、東海テレビは、「放送倫理を考える全社集会」を毎年行っている。このタイミングで奥さんから電話が入ることで、「あの日」が福島アナとその家族に与えた影響は計り知れないものだったことが浮き彫りになる。
もうひとつの神シーンは、「猫の殺処分をなくそう」という特集の映像を、契約期間終了で解雇された渡邊くん、メインキャスターを降板した福島アナが見ているシーン。ふたつの映像がオーバーラップするのは決して狙ったのではなく、たまたまそこに渡邊くんがいたのを撮影の中根芳樹氏が捉えていたのだそうだ。
本作には奇跡のような偶然とカメラマンの機転に恵まれた瞬間がいくつも収められている。これは、ひとつは密着期間が長かったことが大きかったと監督は言っていた。それにしても、あんな劇的なシーンがそう上手く撮れるとは思えない。やはり、「さよならテレビ」はドキュメンタリーの神が降りて来た作品なのだ。
多少の消化不良
質疑応答で、「生ぬるい」「もっと裏側が知りたかった」という声があがった。たとえば、権力を監視することを使命に掲げる契約社員の記者と、正社員が対峙する場面などが見たかったと。たしかにそのとおりだ。「桜を見る会」を追求するべきタイミングで芸能人のスキャンダルを最優先に放映するニュース番組の裏では、実際どんなやりとりが行われているのか、私たちはそこが知りたいのだ。嬉しかったのは、圡方監督がその感想に対して「よし来た! オッケーです!」と答えたことだ。
ドキュメンタリーってなんだろう
アフタートークの途中でプロデューサーの阿武野勝彦氏が冗談で言った。「澤村記者の部屋、あれセットなんですよ」信じた観客から「えっ」という声があがる。阿武野Pはつづける。「あの報道デスクもセットで、主演の他はみんな役者さん」「(ざわめき)」「…って、とある場所で言ったら、その場の半分くらいは信じた。その時ぼくは思ったんです。ドキュメンタリーって、いったい何なんだろうなって」。阿武野Pはいたずらっぽく付け加えた。「澤村さんの部屋がセットかどうか、答え知りたいですか? 知りたい人はあとで個人的にどうぞ」。ドキュメンタリーとは何かを深く考えさせられた一言だった。