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ボコボコと自己肯定感

ようやく快方に向かってきたので書くのだが、昨年の秋に突如、顔中に100個くらい吹き出物ができた。いやもっとあったかもしれない。もう面白いほどボッコボコである。2年ほど前の晩秋にもなったことがあるのだが、仕事を詰め込みすぎて食事が簡素なものばかりになると――私はほとんど外食をしない――発症するようだ。とにもかくにも憂鬱である。ちょうど原稿が詰まっている時期でもあり、外出したい気分がまるで湧かないのは都合がよかったのだが。

外出はしないが家にはパートナーがいる。まいったなあ、こんな顔見せたくないなあ。鏡に向かってしょんぼりしていると、彼は「ちょっと赤くなっているね」と言った。数日後にまたしょんぼりしていると、「前より良くなったね」と言うのだった。この人らしいな、と思う。

私のパートナーは、事実にネガティブな価値判断を付け足すことをしない。たとえば「顔がボコボコである」ということから「適切な治療をすべきだ」と判断はしても、「だから汚い」とか「だから気持ち悪い」といったことを一切言わないのだ。接していてわかるのだが、おそらくは考えてもいない。そして問題解決――励ましや治療の勧めなど、彼ができること――の努力は惜しまない。徹底した問題解決型思考の人間なのである。

これは自己評価についても一貫している。事実を事実として見つめ、解決したいと思えば具体的な行動に出る。解決できないことであれば考えない。たとえば、人から見て「太っている」という状態だったとしよう。「太っているからダメだ」とか「太っているからモテない」といったようなことは一切考えない。ただ「体が大きい」と認識し、健康に問題があるとわかれば運動する、食事を改善するといった行動に出るだけなのだ。当然、卑屈なことも一切言わない。仮に身長など、努力では解決できないテーマだったとしたら、彼はただ「自分の身長は○○cmである」とだけ認識し、どうこうしたいと考えることはないだろう。おとなの身長は努力で伸びない。

振り返ってみると、私は自分に対していろいろな評価を付け加えてきた。顔がボコボコになったから人からどう思われるだろうとか、下半身デブだからダメだとか、座高が高いからアレだとか、頭が悪いからどうのとか、事実にあれこれ付け加えては卑屈になってきたのだ。それがどれだけ、生きる力を損なってきたか。「こんなボコボコの顔じゃ、嫌われるんじゃないか」と思うのは自分で、実際に誰かに嫌われたわけでもないのに。自分に意味づけするのはいつも自分だ。顔も体型も、人生さえも。

自己肯定感というのはしばし、自尊感情と混同されがちだ。自分が好きとか大事とか思う以前に、「自分はここに生きていて、自分らしく存在していい」と思えるような感情を自己肯定感という。彼のような人を、自己肯定感が高い人と言うのだろうなあと思う。

治りかけた私の顔を見て、彼は「すっかりきれいになったね」と破顔した。考えてみれば私も、誰かがボコボコになったからといって嫌いになったり、汚いと思ったりすることはないのだ。痛くはないだろうかとか、早くよくなってほしいなと思う一心で、否定したり傷つくようなことを言ったりすることなんか、ないのだよね。無駄に自分を自分で損なわなくていい。彼と一緒にいると、そんなことをしみじみ思う。

ちなみにこの問題解決型思考が「三角関数に全く関心のないパートナーにその素晴らしさを伝えたい」「元素表の面白さを共有したい」といったことに向けられた場合、なかなかに厄介なことになる。ことあるごとに三角関数の有用性をアツく語りかけてくるわ、テーブルにさり気なくNewtonが置いてあるわ、録画してある映像が全部サイエンス番組だわ。まあいいんですけどね。なんにせよ、彼には感謝しているのだ。


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真木あかり
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