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伝えたい映画について語る-21:「ひろしま」
今朝8時15分に、大阪に住む5歳の姪が黙祷したと聞いて、広島に住む父が「ありがとう」と言いました。「次の世代に“ヒロシマの記憶”を受け継いでくれて、ありがとう」という意味だと、私は受け止めています。
次世代にバトンを繋いでいくのが私たち3世の使命だと思い、昨年8月、広島の八丁座で観た映画「ひろしま」について記します。
※追記:今年も、8月7日〜13日まで、八丁座で「ひろしま」が上映されるようです。
上映の前に訪れた平和記念資料館
昨年の盆、帰省した折に、大好きな八丁座で「ひろしま」が上映されると知り、この機会は逃せないと行ってきました。
上映前に、昨年4月にリニューアルオープンした広島平和記念資料館に行ってきました。本当に久しぶりの訪問でした。
海外の方、県外の方々で、入場待ちの長蛇の列ができていました。夏休み期間中だったこともあり、観光客の方が本当に多かったのです。ありがたいことです。
リニューアル後は“被爆再現人形”が撤去されていて、市民から寄贈された実物資料が多く展示されていました。
子供の頃、人形を見て心から震えたのですが(泣き出す子もいたように思う)、爆心地で生きていた人達の遺品や手紙を見て、読んでいくたび、ここで人間が人間として扱われず、核兵器の実験として葬られていったのだと、怒りと無念で、体が空洞になりました。
平和記念資料館があるあたり、中島町というのですが、この中島地区を再現した銅板製の復元地図がありました。
これは湯崎広島県知事のお父様が丹念に調べ、復元されたそうです。
爆心地の近くにたくさんの家や店やお寺があり、ひとつひとつに名前があります。ひとつひとつに、人が生きていたのです。
資料館に行かれた際は、是非、丹念に見ていただきたいです。
「八丁座」にて鑑賞
その後、八丁座で、「ひろしま」を観てきました。
(今年は「8:15」を上映されているようです。八丁座で観たかった)
「ひろしま」
長田新の『原爆の子』を八木保太郎が脚色し関川秀雄が監督した反戦映画。8万人を超す広島市民がエキストラとして参加し、原爆投下直後の広島を再現した。ベルリン国際映画祭で長編劇映画賞を受賞した。
広島にある高校。北川が受け持つ三年生のクラスで、生徒の大庭みち子が鼻血を出して倒れた。それは原爆による白血病が原因だった。このクラスでは、実に三分の一の生徒が被爆者だったのだ。あの日、ゆき子の姉は疎開作業中に被爆し、川の中で絶命した。遠藤幸夫の父親は、建物の下敷きになり炎に包まれた妻を助けることができなかった。原爆投下から七十五年は草木が生えないといわれた広島に大根の芽が出たとき、人々はその芽に希望を見いだしていた。(Yahoo!映画より)
原爆投下から8年後に制作され、被曝した8万名強の広島市民が出演した、原爆投下前後の広島を克明に描いた映画です。
反米要素が強いというので、当時、日本の配給会社が手を引いてしまい、日本では上映されなかった映画。私も親も知りませんでした。
それが八丁座で観れるというので、2時間弱、“原爆の悲惨さと向き合い続けなければいけない”ことへの怖さもあったけど、知りたい一心で観てきました。
「ひろしま」を観て
映画の中で、ある男子学生が「被爆者の悲しみや恐怖を、日本人にこそ、広島市民にこそ、同級生や先生にこそ知ってほしい」と叫ぶシーンがありました。
この映画が、1953年に作られたこと自体に、凄まじいエネルギーを感じたのですが、その叫びに込められているんだと思いました。
被曝直後、重度の火傷や原爆症に苦しむ患者で溢れる病院で「これから70年は草木一本生えない死の土地とアメリカの科学者は言う、だけど広島は生き返るんだと証明するために、庭に大根を植えた」と医師が言うんですね。
そして、患者達が毎日、見守るんですよ庭を。そのなかで「生えなくても、どうでもいい」と吐き捨てていた老人が、ある日、大根の芽を見つけて泣くんですね。
それが一番忘れられない場面です。
知らないうちに、時流に抗うことなく流されて、いつのまにか加害者側に立っていたり、また核兵器を投下された時にその下に居たりしたくないので、無知なままでいたくはないと思っています。
「ひろしま」を観て、電車やバスの中から美しい広島の街並みを眺めて、帰宅して、可愛い姪や愛犬の顔を見た時、不意に何かぐぐっと込み上げてきて、嗚咽を漏らしそうになったというか、やばかった。この子達が同じ目に遭ったらと思うと。だめだわ、絶対。
八丁座で、広島で観れて、本当に良かったです。
祖母の記憶
そして今年、2020年8月6日。
1945年8月6日午前8時15分に広島に原爆が投下されて、75年目の「8.6」です。
朝、空を見上げて、原爆が投下される直前の広島の空を思うのは、毎年の儀式のようなものです。神戸にいても広島にいても。今年は薄曇りの、うっすらとした青空でした。
2018年4月6日、あの日の広島で被爆した祖母が亡くなりました。
先日、祖母の名前は原爆死没者名簿に登載され、広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)に奉納されたとのことです。
91歳で亡くなったので、あの日の祖母は18歳でした。時々、あの日の話を聞かせてもらいました。自分も忘れたくないので、ここに記します。
【祖母が体験した1945.8.6】
あの日はほんまに真っ青な空じゃった。雲ひとつなかった。目が痛くなるくらい青くて、忘れられん。
おばあちゃんはあの頃18歳で、毎日学徒(学徒勤労動員)に出よった。同級生たちと工場に行って、金具を作る仕事をしよった。
8時過ぎに、整列して、工場の中にちょっとずつ入りよった時よ。友達とおしゃべりしながら、工場に入るか入らんか、という時じゃった。ものすごい音と風が後ろから来て、転がりこんだ。
何が起きたかわからんかった。工場の天井から割れたガラスがいっぱい降って来て、近くにおった同級生の目の周りにいっぱい刺さって、血だらけになったり。おばあちゃんも、膝にいっぱいガラスが刺さって血だらけよ。痛かったよ。その時の傷が、まだ残っとる。(祖母の膝は紅い斑点だらけでした)みんな泣いたり叫んだり、わやくちゃじゃった。
その後のことは、もうあんまり、覚えとらん。歩いて歩いて、やっと家についたのは夕方になっとったけど、道端や川で、悲惨なのをいっぱい、いっぱい見た。地獄みたいじゃった。
家についたら、親も兄妹も皆無事で、ひと安心した。爆弾が落ちたところとの間に山があるけ、大丈夫じゃったんよ。
家で休んどったら、何日かしたかね、遠い親戚のおじさんが訪ねてきた。軍服みたいなんを着て、でももうボロボロなんよ。顔は包帯でぐるぐる巻きで、恐ろしいねと思った。ちょっと言うことが、おかしくなっとるみたいじゃった。
おばあちゃんのお母さんが、おばあちゃんに「あんた、奥に行っときんさい」って言うた。奥に行こうとしたら、そのおじさんがこっちに来て、指差して言うんよ「うちの娘は死んだのに、なんであんた、そんなきれいな顔のままなんじゃ!」
何も言えんかったよねえ。その子は、どんなふうに死んでしまったんじゃろうか。
おじさんはまたふらふらと外に出て行って、それっきりじゃった。
2020年8月6日の朝
今年の平和記念式典での松井市長のスピーチ、とても良かったです。
これからの広島は核兵器廃絶と世界恒久平和の実現に向けて連帯することを市民社会の総意にする
政府には核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いを誠実に受け止め、同条約の締約国になってほしい
NHK広島の取り組みも、すごくよかったです。「もし75年前にSNSがあったら」と、被爆者の方々の日記をもとに、リアルタイムであの日の様子を伝えている「#ひろしまタイムライン」のアカウント。たくさんの人々が、ヒロシマのことを知ってくれた。
【1945年8月6日】
— シュン@ひろしまタイムライン (@nhk_1945shun) August 6, 2020
どこかの家のラジオの声がする
「こちら廣島、こちら廣島、廣島は全滅、救援を乞う…大阪さん、大阪さん、 聞こえたら呼んでください」#ひろしまタイムライン #広島#もし75年前にSNSがあったら
田中泰延さんがこの夏、広島を訪れてくださった際の寄稿文です。私の地元についての詳細な記載があって。そして、佐々木禎子さんのことに触れられている部分で、私も、嗚咽が堪えきれなかった。
「広島と長崎以外の若い人たちは、8月6日も、9日に黙祷もしないし、なんなら原爆の日を知らない」とか「広島県外の民放は、平和記念式典のTV中継をしないんだ」とか、広島を出て知った事実に、諦めを抱いた時期もありました。
でも、私たちそれぞれができる方法で、“核兵器は絶対にいらない”と伝えていけたら良い、今はそう思います。
状況が落ち着いたら、また世界中の人々に、広島を訪れていただきたいと思います。美しい川と瀬戸内海に囲まれた、緑豊かな街、HIROSHIMAへ。