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本質的に言えば「失敗」自体は大して恐れていなくて、こわいのは、苦しいのは、「結果を引責すること」に収束する。立ち止まってなどいられない、引き渡したリソースを再び積み上げるだけの時間的余裕などない、自分の身体がなくなったら何も残らないじゃないか。みたいな考え。
「選択疲れ」みたいなのってあるよね。フロムじゃないけど、「二つ三つ、あるいはもっと多くから選べてしまう」ことの不安みたいなもの。選んだ結果を引き受けるだけの余裕を失ったわたしたち。
徒歩圏内にスーパーがあるから苦しくないとはもちろん書かれていないが、徒歩圏内にスーパーがあるから不満を持つのは筋違いとは書かれている。苦しみは尊重した上ではじめて妥協が生まれるのであって、門前払いしてはいけない。
苦しみの有無は主観でしかないのだから、当人の主観を尊重すべきだろ。近くにスーパーがあるから苦しくないだとか、「君はそう思うんだね、でも当人は違うよ」で終わり。「徒歩圏内にスーパー」それの何が「事実」だ糞食らえ。もちろんその苦しみから他害したりするなら、行動だけは制限されるがな。
ほんと、年初に起きた災いの近辺では「お気持ちを弾圧する運動」がお盛んですね。「同じ立場になって考える」ってのは、「今の自分があの時のあの場所に行った状況をイメージする」ではないんだがな。 正しいかどうかが多面的な事象については、お金や力の無い立場の人の肩を持って生きていたいね。
ネット社会は外に出すことと活動することの境目がすーぐゼロになるから怖いねぇ。ネット社会は。 なんでもかんでも外に晒せば良いってもんじゃないけど、社会がそれをヤンワリと要請するからな。