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業界の大御所

店舗出店(3)の続き

砂利の敷地にプレハブ、建築用足場で組み立てたPIT。
そして水道の無い敷地でスタートした店舗。

資金も無いので価格の安い車「のみ」を在庫として販売。

これが、そこそこ売れていました。

やはり、そのような価格帯を取り扱っている販売店は当時、皆無だったのが功を奏したのかも知れません。

ただ、仕入は苦労しました。

当時は九州では福中販(現:JU福岡)、九州中央AA、荒井AA、USS九州くらいしかAAが無かったので、ここではそう簡単に安い車の仕入が出来ない。

当時、地元の自動車業界のBOSS的な会社があり

昔よりその方には色々な意味で可愛がってもらっており、その方の縁でよく大分中販AA(現:JU大分)まで仕入に行っていました。

月に2回開催なので2週間に1回のペースで。

その業界大御所の方が所有されるBENZ500SELを
私が運転手として一緒に行きます。

今では大分市まで高速道路で約2時間ほどで着く交通事情ですが
当時は大分道は日田までしか開通しておらず、そこから下道。

日田から筑後川の横に走る道をひたすら東に進み、玖珠町、九重町などを抜けて水分峠を越え、湯布院まで抜ける。

湯布院から別府までは一部高速道路が開通していたので、
それに乗っても片道6時間から7時間。。

いつも別府のホテルに前泊し、パチンコに連れて行かれ、ホテルで食事をして、イナック(田舎のスナック)に連れて行かれる毎度おなじみのパターン。

しかも、その大御所はお酒に酔うと
非常に癖が悪い方で本当に苦労しました。

いろんな意味で危険な方なので機嫌を損ねると大変です。

どのくらい面倒だったかと言うと、イナックで

「白井!歌え!」と言われ、
ちょっとでも当時の「今時」の歌なんぞ歌うものなら

「てめぇ〜この」と発狂しだすのです・・・。

なので、その大御所が喜ぶ歌を歌わないと機嫌を損ねます。

当時20代前半だった私が30歳以上の年齢差がある方が喜ぶ歌など
レパートリーも少なく、
いつも一か八かで選曲し「アウト」か「セーフ」かを
博打のように歌っておりました・・・。

私も徐々に学習してきて、大御所が好むポイントを理解してきたので、
お好きな演歌や軍歌

お陰で20代前半で覚えることができました(笑)

ちなみに、当時の絶対安全圏の歌は水戸黄門主題歌の
「人生楽ありゃ苦もあるさ」でした笑

そんな、別府の夜を過ごした翌朝は、
早朝より大分市に向かい大分中販AAです。

AA会場に出品台数は150台前後くらい。

先述の通り、片道6〜7時間も要する大分〜福岡間の陸送コストに「見合わない車」が出品されています。

要は値が張るような車両は陸送コスト払ってでも、
福岡地区のAAに出品したほうが有利。

でも、それに見合わない車両は地場の中販系(日本中古自動車販売店協会連合会の各支部が47都道府県にあり、その支部開催AAを中販系AAと言います)に出品されているという訳です。

しかも、片道6〜7時間も掛かるので福岡の業者なんて誰も来てない。

なので、大分中販は穴場でありました。

しかも手競りのAA。

今はCPUのPOSS式と言われるボタンをプッシュすることで応札できるAAですが

地方中販系AAはそんな設備投資は出来ないので、
皆さんがイメージできる魚とか野菜とか花などの市場で、
「はい!100円〜100円!120円!」みたいな掛け声に併せて手を上げていくパターン。

今でも手競りAAは非常に面白いです
(現在ではほとんど存在しませんが一部だけ残っている)

また大御所のお付き合いで大分の業者やAA関係者との関係も
必ず同席させて頂いておりました(強制的に)

大分AA終了後に関係者たちと接待・・・もう一泊。

もちろん、こういう場でも一番ペーペーの私は、
一番の盛り上げ役にならなくてはいけません。

歌えと言われれば、演歌でも軍歌でも歌い

脱げ!と言われれば裸踊りもなんのその

酔って誰か粗相があっても、私が怒られる(殴られる)

もう理不尽そのものでした笑

でも、お陰で鍛えられました・・・。

この月2回、年間24回の大分仕入の旅は8年近く続きました。

ある意味、大切な仕入という反面、先述の様々な酒の席が地獄でした。。

なので、本当は行きたくなかったというのが本音です。

そんな大分仕入でお付き合いが出来た、
某メーカー系ディーラーの中古車部長。

懇意になり、先方も大分AAに出品して手数料を取られるなら、
直接販売して手数料を安くした方が得策との事。
そこで自社でも直接仕入をするようになりました。

いや、正確に言うと大御所の紹介でしたので
「No」と言えなかったのです。

これまた、まだ若造の私は良いカモにされていたようで。

先方の販売リクエストは
買い手の私たちは「断れない」のです。

要は「白井社長、今回10台ね」と言われたら、
よっぽどの事が無い限り全台数を購入前提です。

許されるのは価格交渉のみ。

なので、良い車両も悪い車両も抱き合わせで売ってきます。

でも、中にはお宝車両なども含まれることもあり

継続的に購入するためには「断らない」というスタンスで、
ずっと買い続けました。

なので悪い車両は、損してでも売りさばき、良い車両の利益で相殺する。

こんな感じの仕入です。

でも、メリットも有ったので男気で買い続けました。

すると、そこに目をつけた大御所。

いつも全台数を買い続けていることで「断らない」
スタンスを知ったわけです。

ある日、大御所から

「お前の所で売れそうな車両送っておいたから」

「お前の代わりに俺が仕入交渉してやったから」

俺「え?どんな車両ですか?」と会社の電話の受話器を置く前に

丁度お店の前に7台積みのキャリアカーが2台、
合計14台積載された車が降ろされています。

全部、レンタカーアップ車輌で
当時あったメーカーの日本フォード製、「フェスティバ」

Wikipediaより

今では知ってる人も少ないかとは思います。

初代フェスティバは若い女性層に人気もあった車両ですが

モデルチェンジ後の2代目フェスティバは、
不格好になり全然売れない不人気車種。

なので当時、レンタカー登録が多かったのです。

その2代目フェスティバが14台・・・
しかもレンタアップで走行13万キロ超えばかり・・・

色は「紺」と「赤」の2色のみ。

本当にこれは捌くのに苦労をしました・・・。

しかも、こんなのを何回かされた記憶があります・・・。

ここには書けないくらい、その大御所には色々と苦労しました。

当時、同様に苦労をしていた同業の友人と冗談で
「ゴルゴ13が現実に居るなら、雇いたい」と言っていたくらいに(笑)

ちなみに前田専務。

当時、大御所主催の近隣の自動車販売店合同忘年会で
どんぶり一杯の日本酒一気対決を、各販売店の若手で競い
その後、トイレの便器に顔を突っ込んで意識を無くしておりました・・・

本当にみんな体張ってました(時代は平成初頭)

一方では、大御所のお陰である意味、守られていた部分もあります。
助けられた部分もあります。

自社は現JU福岡の正会員ですが、今はわかりませんが昔はJUの会員になるって、かなりハードル高かったのです。

まず正会員の会社より推薦状を貰い、
近隣の正会員店舗2社の承諾を貰ったうえで、地区会議に付議されて
過半数以上の賛成票で、初めて役員会に付議。

そこでも同様に過半数以上の賛成があって、初めて正会員になれます。

昔はJUに加盟するメリットが大きかった事もあります。

私がJUの正会員になる申請をしたときは
この大御所の会社が推薦人。

私たちは地元地区エリアだったのですが、この大御所が推薦人などなる事は今までなかったらしく、初めてのケースだったそうです。

大御所の番頭さんが地区会議に出席され

「うちの社長が推薦してるんや。わかってるよな・・・」という脅し文句が投票前にあったらしく、地区初の満場一致で地区決議を採択され、役員会でも同様に・・・。

ある意味、若造の私が当時の中販正会員になれたのも、
大御所のお陰でもあります。

その他、業界の様々な団体や取引などでも

「あ、大御所から話は伺っています」で、だいたいクリアになる大きな影響力をお持ちの方でしたので、随分、助けられたのも事実です。

その後、自動車業界を引退された大御所ですが、
年に1回くらいは挨拶には行っていました。

晩年にはよく、ゲートボールの慰安旅行費のために廃バッテリー(これを転売)を貰いに自社店舗に来られていました。

大御所は資産家ですので廃バッテリーを売らなくてもお金はあるのですが、何故かそういうことを好んでされていました。

なので、当時の店舗メンバーには
「取りに来られるけど粗相の絶対にないように!」
と重々、申し伝えていたのですが・・・

で事情をわかっていないスタッフなどが対応をしてしまい

「なんか変なじぃさんが、バッテリーを取りにきたんすよ!」
「なので「勝手に積み込んで」って言っておきました」

なんて報告あった日には、
冷や汗垂らしながら直立不動で謝罪電話をしてました。

もう、その頃は怒られることもありませんでしたが・・・
昔のトラウマですね。

そして、十年以上前に病気でお亡くなりになった大御所。

私が葬儀に出向くと、
大御所の奥様(奥様にも可愛がってもらっていました)から

「白井くん!ありがとう。旦那はあんな人だったけど、
 白井が一番の俺の弟子だ!俺の自慢だ!って晩年はずっと言っていたのよ」と伝えられました。

そう聞くと、色々な想いで涙が溢れてしまいました。

時代が時代だったので許された部分も多かったかとは思いますが、
とにかく良くも悪くも、豪快だった大御所。

たくさん苦労し、たくさん恨み、そしてたくさん可愛がって貰いました。

時間が経つと、恨み節は笑い話になり

助けられたことは思い出です。

これからも大御所の自慢の一番弟子の言葉に
恥じない生き方をしていこう・・・

そう誓ったことを今でも鮮明に覚えています。

続きは次回!

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