面白い鹿になりたい

小説を書きたいと思ってnoteを開いたのだが、面白い鹿になりたいという気持ちになってお布団にくるまってTwitterを開いてしまった。Twitterを開いたら開いたで、ページの右側のトレンド欄にある流行り病関係の話題を見て、再び面白い鹿になりたくてnoteに帰ってきた。

小説を書いている時間は、ただスマホを眺めている時間よりも生産性があって有意義なように思えるので、生活の中にあるべきと考えてしまうのだが、毎日のように上手くいかなかった残骸を下書きに捨て、起承転で点を打った肥溜めを作っているようでは有意義さに欠ける。

そういった批判が自分の中にあるのだが、まだ僕はnoteに向かって何かを溜めている。生産性や有意義さ以上に何かを求めているから僕はnoteを閉じない。

ここで何か文を引用して話を展開していくと筋の通った文章になるのだが、僕は面白い鹿になりたいのでそうしない。

面白い鹿というと、みんな絶対にトナカイを連想すると思う。僕もそう。

「トナカイって、いるのに、いないみたいな感じになってるなぁ」

って思う。

トナカイって絶対この世に存在するし、写真もあるけど、いないみたいな感じに思う。

多分、そう思うのはトナカイじゃないトナカイが有名だからかなぁと感じる

 トナカイと聞くと、空を飛び、ソリを引き、人を運ぶ、そんなイメージが浮かんでくる。いやそんなこと無いだろと思うかもしれないが、逆にトナカイと聞いて「あぁ、角がカッコいい鹿ね」って思う人の方が少ないと思う。

前者は完全に虚構なのに、真実である後者で答えると、なんかちょっと捻てる印象になる気がする。

大抵の人はトナカイと聞くと前者を想像するから、いないみたいな感じになる。後者を想像していれば、確実にカッコいい鹿として存在するのに。

典型的かつ実在しない物、というのは人間社会にもあるもので、僕の身近な例だと、金のアクセサリーをジャラジャラ着けて口ひげを生やし厚いサングラスで目を覆ってYoYo言うラッパー、というラップを知らない人のラッパー像が連想される。

それぞれのパーツで見たら、確かに存在するが、それらを全部合わせたHIPHOPクリーチャーは存在しない。だが、ラップを知らない人が作った創作物には、たまにこういうラッパーが存在する。ほとんどおとぎ話のキャラクターみたいなものなのに。

僕はそういった創作物を見ると、何となく、この虚像のラッパー以外のラッパーがいないみたいな感じになってるなぁと感じてしまう。

これは結構カジュアルな例だが、もっと深刻な例を挙げると、胃が疲れる。

あえて挙げるなら、世の中に忍ぶ仮想敵の存在だ。忍ぶ存在だと表現したもの、実際に存在する場所は世の中ではなく当人の頭の中だけだ。

俗世間の人々は、何故か仮想敵を自分の中に作って、ありもしない戦いに自ら挑む。そして、勝手に負けていく

通りすがりの人には、「あの人は何と戦っているんだ」と冷ややかな感想を持たれてしまうのだが、彼らは空を飛ぶトナカイを追っかけているだけなのだと思う。

自分の事を陰で馬鹿にしている同級生、学歴がないから採用してくれない会社、仕事をしていないのにお金を貰ってる政治家

みんな自分だけに見えてる空を飛ぶトナカイを追っかけてるだけなのである。そして、「空を飛ぶトナカイを見たんだよ」って誰かに伝えたいだけなのである。

流行り病の話題が加速するここ1年で、そういう人も増えたんじゃないかと思う。虚構の力石に虚構アッパーカットで虚構KOされる人が。

そんな人々が一つのTwitterという場所に集合して確かな情報、自分を安心させる情報という鹿せんべいを待っている姿は、さながら奈良公園の鹿の群れのようだと思う。

そんな鹿の群れの中に、一匹だけ今日晴れすぎワロタと思っている鹿がいたら面白いなと思う。そういう面白い鹿になりたい。


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