やるせない話
全て益体のない話。
最近SNSの投稿で見た言葉遣いに奇妙さを覚えた。
詳しく内容を追ってたわけでもないので、前後の文脈はすっかり忘れたが、内容としては
「少しの間違いで語彙が強い言い方をされて気分が沈んでいる」
ということだった。
多分、語気が強いかな、と思って打ち間違えたのかと思ったが少し遡ったら共感のコメントしている人も「語彙が強い」という言い方をしている。
また別の日。
芸能人の投稿にいじわるなコメントしているのをスクショして、こうはなりたくないという趣旨の投稿を見た。
この投稿のコメントが目に入ったが
「こういう人は必要枠だと思う」
だそうだ。いじわるなコメントのの是非や好悪はさておき、おそらく必要悪かもしれない。
かなり昔。
10年以上前に夕方のニュース番組で、子供の成長の場をつくりたくてボーイスカウト的な団体を作った、という人のインタビューを見ていた。
子供達を活発にするために川に飛び込ませたり、自然の中でコミュニケーションをとっていくようなことをしていて子供も楽しそうだし、親も夏の間に子供が変わったとかで満足していた。
インタビューでは団体の長の人が「子供たちにはいろんな可能性がある、この団体での活動を通して選択技を与えたい」と強調していた。
最初はその方の団体理念などで作られた新しい言葉なのかと思っていたが、番組では最後まで言及しないでインタビューのコーナーが終わった。
今でも選択肢を言いたかったんじゃないかと思う。
別に伝わればいいとも思うし、語彙のレベルは人によって変わるので語彙力があればあるほどいろいろ気になってくるんだろうから、自分より語彙がある人から見れば自分は機微の伝わらない人間なんだろうとは想像がつくものの。
相手にあまりに語彙がないと話の本筋を伝えるのに手間がかかるし、正確に伝わったか判断が難しくなったり、オチのおもしろさがまるで伝わらなかったりする。
別に難しく伝えたいんじゃなくて、話の内容やそれを話す自分の気持ちの輪郭を一番捉えた言葉で伝えたいんだけど、自分が感動した景色や作品や試合を一緒に見た時に、「すげー」や「やばい」の言葉で片付けられたら虚しくなったりしちゃう。
話を受け止めてあげられない悔しさも、自分の話が伝わらないやるせなさもずっと付き合ってる。