【the脱線】〜隣人〜

この長い一人暮らしでも、人と関わらなくてはならない場面が、少なくとも存在する。
僕は、人が嫌いだ。
人はみんな、自分のことしか考えない。
一度サラリーマンになってみたが、毎日の通勤で巻き起こる椅子の取り合い。
目の前に老人や、妊婦さん、けが人がいたとしても関係ない。
自分が座れれば良いんだ。
会社についても、まるで奴隷のように毎日働かせられる日々。
睡眠時間もままならない。
そんな生活の中、誰にも相談できないまま、首にベルトをかけた。

一命は取り留めたが、気づくとめんどくさそうに僕を見ている両親がいた。
両親は、良く出来た兄と僕を比べる。
お前はどうしてそうなんだと、いつも怒る。
こんな日でも、カンカンに怒る父と泣く母。
もう迷惑をかけるなと、一言だけ残し、もう二度と僕の元へは来なくなった。

それでも、死ぬことができなかったのは、何かしら生きる意味があるんだと言われている気がして、死ぬことはやめた。
ただ、人と関わる事だけは、しないことにした。

会社を辞め、一人で小説を書き始めた。
今はネットワーク社会。
パソコン一台で、誰とも顔を合わさずに仕事ができる。

最初は貯金を切り崩しながらの厳しい生活だったが、毎日僕の辛かった日々に花を添えるだけで、面白い作品が多く出来た。

そして、少しずつ、生活も出来るようになっていた。
それも、誰ともかかわらずに。

しかし、そんな僕にも人のことで頭を抱える問題があった。
隣人のたばこの煙と、夜になると響き渡る暴れまわるような物音だ。
顔も見たことないが、あいつは一体、一日に何吸うんだってくらいにしょっちゅう煙の臭いが僕の部屋に忍び込んでくる。
そのため、滅多に窓も開けられない。ずっとこもっている僕にとっては、外の空気を家の中で吸う時間は大切だというのに。
更に、彼は夜になると激しく活動しだす。
何をしているのかはわからないが、バタンバタンと激しい音が響き渡る。
うるさくてたまらなく、ろくに眠れない。

毎日の繰り返しに、次第に我慢の限界が到達したのだろう。
いつもの様にたばこの煙が部屋に入ってきた瞬間、体が勝手に部屋を飛び出し、隣人のインターホンを押していた。

ヤンキーかぶれの男が出てくるかと思ったが、出てきたのは若い女だった。
女性と話すことが慣れていない僕にとっては、大変な事だった。
思わず目を背けてしまった。
顔が赤くなるのがわかる。
僕は、精いっぱいの声で、「タバコの煙が迷惑です。あと、夜ももう少し静かに。」と、極力短く伝え、すぐに自分の部屋に戻った。
聞こえていたかはわからない。
まさか女性なんて、更に迷惑な話だ。

その晩、いつも以上に非常に激しい物音がした。
何かを投げつける音。一体何が暴れているのだろうか?
音が聞こえるのは、あの女性の部屋からだ。

もう勘弁してくれ。
あの女は一体なんなんだ?

あまりのうるささに眠れなくなってしまった。
思わず深いため息がこぼれる。
仕方ない。行こうか。
と、玄関を開けたその瞬間、隣の女が僕の部屋に飛び込んできた。
「え?」
女はすぐに玄関の扉を閉めて、鍵をかけた。
突然の出来事に、状況が掴めない。
強くドアを叩く音がする。
「カオリ!出て来いよ!」
大声で怒鳴る男の声。

非常に迷惑だ。ドアを開けようとしたその時、女に抱きつかれた。
彼女は震えていた。相当怖い思いをしたのだろう。
僕は、無意識に彼女の背中に手を伸ばしていた。

「大丈夫ですか?」
彼女は何も言わない。
声も出ないくらいに怯えている。
「今、警察に電話しますから、こっちにいてください。」
彼女をソファに座らせ、水をグラスに入れて渡した。

僕が電話してからすぐに、警察がやってきた。
表で怒鳴る男の声が聞こえる。
男の声がするたびに、びくっと震える彼女。
なんだか、僕は人が嫌いなだけだけど、人が怖いというのは、もっと辛くて寂しいんだなと思った。

しばらくすると、表も静かになり、インターホンが鳴った。
「警察です。もう彼はいませんから、お話だけお伺いさせてください。」
警察官を中に招き入れると、やっと、彼女が顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
静かに頷いた。

彼女と警察官の話によると、彼女の名前はカオリといい、日ごろから男からのDVに悩まされていたらしい。
僕の部屋に飛び込んできたのは、カオリが外に逃げ出した瞬間にドアが開き、咄嗟に飛び込んでしまったそうだ。

「ありがとうございました。動けますか?」
カオリは、首を振ってそこから動こうとしない。
警察の人は、弱ったなぁという風に、僕を見た。
「本来は、署に連れていきたいのですが、今日のところは厳しそうですね。彼女が落ち着いたら、部屋に帰らせて頂いてもよろしいですか?」
「は、はあ。」
警察の人は、ご協力ありがとうございます。と、頭を下げ、部屋から出ていった。

さて、困った。どうやって帰らせようかと考えていた時、彼女が口を開いた。
「今日、泊まらせてください。」
「へ?」
非常に困ったが、人に怯えている彼女のことだ。怖いのだろう。
少しでも安心できるならと思い、僕は了承した。

翌朝、ソファの上で目が覚めると、カオリが僕の小説を読んでいた。
しかも、沢山の涙を流していた。
「こんな素晴らしい小説、読んだことない。」

僕は、人生で初めて人に褒められた気がした。
そして、僕の書いた作品に涙を流してくれる人がいることを初めて知った。

思わず僕も涙が零れ出してきて、カオリに、「ありがとう、ありがとう。」と、何度も言った。
その日から、たばこの煙が部屋に入ってくることも、夜物音で眠れないことも無くなった。


おわり

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