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映画評|『どうすればよかったか?』

文・猫玉しい子(1728字)
 
「面倒見がよく優秀な姉に統合失調症の症状が現れた。父と母は玄関に南京錠をかけ、彼女を閉じ込めた」
 
 藤野知明監督「どうすればよかったか?」のコピーをSNSで見て以来、自分が絶対に観なければならない映画だと思っていた。2年ほど前からわたしは家族間の暴力を主題にした作品を創作している。自分が書きたいことと、この作品が取り扱っているテーマが通底していると確信したからだ。
 昨年末訪れた劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)は、平日の午前中にもかかわらず満席だった。女性が多い。
 冒頭、暗転したままの画面から家族と思われる人々の言い争う声が聞こえる。「どうしてうちから分裂症*が出なければいけないんだ!」という女性の叫び声に胸を締めつけられ、恐ろしさに涙が出た。この作品を正気のまま最後まで観続けることができるのか不安になる。
 
 監督より8歳年上の姉は成績優秀でピアノと絵が上手く、監督にとっては雲の上のような存在だった。医師で研究者である両親の影響で、姉は医学部を受験する。だが、姉が合格できたのは意外にも4度目の受験の時だった。
 監督のこのモノローグを聞いて、あ、これは尋常ではないな、と感じた。思い出したのは、2018年に滋賀県で起きた殺人事件**だ。医学部受験を強いられ9浪した娘が母を殺害し、バラバラにして遺棄した。そこには母によるむごい教育虐待があった。
 「どうすればよかったか?」の親子関係にも、この事件に似たにおいを感じた。両親が互いを「パパ」「ママ」と呼び合い、姉弟それぞれを「マコちゃん」「トモくん」と呼ぶ、愛情溢れる一見平和な家庭。しかし、両親が口にする何気ない言葉の端々に、ゆるぎない家長父制で支配されている藤野家の空気と、それに追随するしかない母親の諦念が見え隠れする。
 姉が統合失調症を発症した後も、父は医師国家試験の問題集を買い与え続けた。両親の言い分は「勉強ばかりさせていた両親に復讐するために、統合失調症のふりをしているだけ」というものだった。そこに正常性バイアスという言葉では片付けられない異様さを感じた。印象的だったのは、姉の精神には何の問題もない、と両親が話す目の前で、姉がイカリングをビールの入ったコップに入れてしまう場面だ。
 長きにわたって、姉はほぼ軟禁状態で自宅にとどまり続ける。状況が変化したきっかけは母に認知症による妄想が出始めたことだった。両親の老いが父親の支配に亀裂を生じさせ、姉の治療を可能としたのである。姉が入院したとき、発症からすでに25年の歳月が流れていた。その後浮き沈みはあるものの、姉の症状はゆるやかに寛解する。
 
 姉は癌により62年の短い生涯を閉じる。その死後の父親のふるまいに、わたしはいきり立ちそうになった。この父親にとって、彼女は医者であり研究者でしかなかったのか。あなたの「娘」はいったいどこにいるのか。私が監督の立場だったら、父親が年老いていようとなんだろうと胸ぐらを掴んで抗議するだろう。
 だが、監督はそうしない。父親の言葉に反論もしない。ただじっと撮影し、父親の話に耳を傾け続ける。あたかもそれが、「外に出よう、治療を受けさせよう」という必死の訴えを、両親からことごとく退けられた監督の、最後の抵抗であるかのように。
 「親がすべて先回りして答えを出すのが一番よくない」監督は訴える。両親はもちろん、監督は姉自身の話も聞こうと何度も根気強く試みている。「散歩に行こう」と誘う監督に姉が見せる柔らかな表情は、発症前の穏やかな姉弟関係を想像させた。わたしの目には、それがこの作品の唯一の希望のように映った。
 
 どの家庭も言うなれば密室である。他人の家庭のことは誰にも分からない。子供にとってはそこは世界のすべてであり、親が窓を開けなければ風は通らない。
 無力感に苛まれながら長年撮影し続けた監督の手によって藤野家の窓は開け放たれ、「どうすればよかったのか?」という問いは今、世界に向けて放たれた。わたしたちはそれに、どう答えればいいのだろう。
  
*2002年までの統合失調症の呼称
**https://toyokeizai.net/articles/-/659824

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