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エッセイ|アリノスコロリ

文・近石和香子 (1700字)

 去年の春、会社の事務所にアリが大量発生した。事務所は2階にあって、窓際の席にアリが列をなしていたから、どうやらアリは外の花壇から上がってきたようだ。あんな小さな身体で(あとで調べてみたら、たぶんヒメアリかサクラアリ)よく壁伝いに2階まで登ってきたものだ。

 そういえば、著作権の関係で本文を載せることはできないが、ある大学の英語の長文読解で、「なぜ昆虫は重力を恐れないのか(ここは英文)、本文に即して日本語で説明しなさい」という問題が出たことがあった。本文に即した説明は「空気抵抗は、動く物体の表面に比例する。動物の長さ、幅、高さをそれぞれ10で割ると、体重は1000分の1に減少するが、その表面は100分の1にしかならないので、小さな動物が落下する場合の抵抗力は駆動力に比べて10倍大きい。そのため、昆虫はいとも簡単に天井にぴったりとくっつくことができて、危険を伴わず落下することができるので、重力を恐れない」。これで私は試験に合格した(英語が得意な人は、この日本語を英語に訳してみてください)。

 私が英語は苦手だということを知っている友人(元予備校講師)に原文とこの訳を見せたら、「あなた、よくこれ訳せたね」と褒めてくれた。それにしても、数字にも弱い私は、日本語で読んでもこの意味がよくわかっていない。

 アリを見たあとは、足とか腕とかがチクチクするようで、首筋なんかチクチクした日には、ブラウスの中までアリンコが侵入してきたような気がして、身体をくねくねしてしまう。

 所長が「かゆい、かゆい」と腕を搔きむしり、「きっとアイツがここでお菓子でも食べたんだろ。だからアリが寄ってくるんだ」と言ったら、みんなが口を揃えて「そうだ、そうだ」と言った。うちの会社は24時間営業なので当直勤務がある。当直のアイツは、天井にくっついたら、天井が剥がれて落っこちて床に大きな穴を開けて1階まで落下してしまいそうな体形をしているので、食べもの絡みの疑惑はすべてアイツのせいにされる。

 所長が何とかしろと言うので、庶務の人が秘密兵器を買ってきてくれた。アリ好みの餌でアリをおびき寄せて、どうぞご自由にとお持ち帰りいただくのだが、その餌には毒が入っている。巣の中にいる他のアリンコ連中や女王アリ様は、何の疑いも持たずに、うまいうまいと餌を食べてしまう。そうして、一族は滅亡に至るという恐ろしい代物だ。

 その効果は絶大で、それ以来アリが事務所に入ってくることはなくなった。もう腕も足も痒くない。けれど、と思う。暖かい季節にせっせと働いて冬に備えていたというのに、その真面目なアリンコたちを騙して、一族を皆殺しにしてしまったのだ。歌の歌詞にアリンコは出てこないが、アリンコだって生きている。

 もし一匹だけ生き残ったアリンコがいたとしたら、私たちのことを恨むだろうか。「大きくなったら、きっと父ちゃんと母ちゃんのカタキをとってやる!」と思いながら、地面の下で春が来るのをじっと待っているアリンコがいる。やがて、春の訪れとともに地上に現れたのは、もうアリンコなんて呼べない巨大なアリであった。

 地球防衛軍は、巨大アリ駆除大作戦を決行するために「アリノスコロリ・スーパー」を設置するが、アリの怪物は巣を作らない。そこらじゅうに卵を産み落とし、次々と孵化が始まる。早く逃げなければ、アリに食われてしまう。アリの大群の前で人間は無力だ。

 けれども、どうせ食われてしまうのなら、お腹の中に毒を忍ばせて、私自身がアリノスコロリになろう、人類を救うために!しかし、私の身体は、アリに食われる前に毒がまわって力尽きた。ついに地球は、アリの惑星になってしまった……。

 こんな空想ができるのは、人間に想像する力があるからだ。アリには想像の世界なんてなくて、「いま」「ここ」を、ただ生きている。どちらが偉いということはないけれど、ちょっと散歩に出掛けたはずが、偶然アリの巣をみつけて一年前の出来事を思い出し、私は人類を救うために命がけで戦った。疲れたので、帰ったらクリームたっぷりの甘いロールケーキを食べよう。考えていたら、足がチクチクしてきた。



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