短編|『オカルト』
文・キミシマフミタカ (5332字)
オカルトの話になったのは、僕が金縛りになった話をしたからだ。僕と彼女は仕事の打ち上げで、たまたま隣の席に座った。初対面だったけれど、年齢が近いこともあって仲良くなった。僕はデザイナーで、彼女はフリーの雑誌記者である。
僕はその年、ひどい肩痛に悩まされていた。職業柄、PCに向かう時間が多いので、昔から肩こりに悩まされていた。妻にいわせると、いつもすごく不自然な姿勢で画面に向かっているという。仕事をしている間じゅう、肩を怒らせ、背中をダンゴムシみたいに丸めているらしい。肩痛になるのも当然、というわけだ。
春先に左肩が上がらなくなって、やがてズキズキ痛み出した。近所の整形外科に行ったが、レントゲンを撮って異常なしと言われ、湿布薬とロキソニンを処方された。そのうち、夜も眠れないほど痛みが激しくなったので、ネットで肩の専門医を探し出した。遠い場所にある医院だったが、専門医だけにもう少しましな治療をしてくれた。ステロイド注射だ。でもその注射は打てる回数が限られていて、やはり数ヶ月は痛みに耐えなければならなかった。そこで麻薬成分が少し入った鎮痛剤を処方された。それを寝る前に飲むと少し痛みがやわらいで、なんとか眠りにつくことができるのだ。
三ヶ月後、肩の痛みがやっと取れてきたので、その鎮痛剤をやめたところ、途端にまったく眠れなくなってしまった。今度は不眠症だ。眠りの仕方を忘れるくらいの強い不眠症だった。おそらく“麻薬”の禁断症状なのだろう。そのため、睡眠薬をもらうことになった。それまで睡眠薬を飲んだことがなかった僕は、その薬がてきめんに効いた。
睡眠薬を飲んだ初日、約一時間後に目が覚めて、金縛りになっていることに気がついた。妻は出張で家を空けていた日で、僕は寝室に一人だった。
気がついたとき最初に思ったのは、「ここはどこで、今はいつなんだ?」ということだった。寝室は見慣れない場所に変容していて、体は錨を付けられたように重かった。巨大な惑星で目覚めたみたいに、とてつもない重力でベッドに押さえつけられていた。寝室の扉は閉じられていたが、その扉の向こうに「何か」の気配がして、いまにも扉が開いてその「何か」が入ってくる予感があった。僕は力を振り絞って、体を動かそうとした。
金縛りにあった人ならわかると思うが、文字通り1ミリずつ指先を動かしていった。ベッドサイドのランプのスイッチを押し、なんとか金縛りを解くまでに、途方もない時間がかかった(実際は数分だったのかもしれない)。心臓が激しく鼓動し、パジャマが汗でぐっしょり濡れていた。
「何かが現れる前にランプに手が届いて、本当によかった。もし、間に合わなかったら何が現れたんだろう……。考えるだけで恐ろしい」というような話を彼女にしたせいで、彼女もお返しみたいに怖い体験を話してくれることになったのだ。
「でも私の場合、今から思うと、怖い体験というわけでもなかったんです。どちらかというと、恐怖よりも戸惑いの方が大きかった。聞きたいですか?」
と彼女は言った。「もちろん」と僕は言って、ウィスキーソーダのおかわりを頼んだ。
昨年、彼女は取材で北海道のスキーリゾートを訪れた。観光の取材ではなく、時事問題の取材である。そのスキーリゾートは、かつて炭鉱町として栄えていたところで、昭和の中頃に閉山してからは、高齢者ばかりが住む過疎地域になっていた。役所の半分が閉鎖され、図書館も廃館となり、道路の割れ目から草が伸び放題に伸びている、そんな限界集落のようなところで唯一活気があるのは、ただ一軒のスキーリゾートホテルだった。
そのホテルはその地域に残されたたった一つの財産だったが、最近外国資本に買われてしまった。ただの買収でなく、怪しげな海外法人が暗躍し、転売目的で買われたという噂が地元で立っていた。しかも自治体が半ば荷担していた疑いもある。彼女はある月刊誌の編集部に、その真実を確かめて記事を書くように依頼されたのだ。
季節は初冬だった。朝一番の飛行機で羽田を立ち、千歳空港から札幌まで特急で出て、駅前から高速バスに乗った。バスが札幌の街中を抜けて郊外に出ると、雪がちらつき始めた。約2時間の長い道のりで、バスがスキーリゾートに近づくと、窓の外は白一色になった。
「航空母艦みたいだな、っていうのが最初のホテルの印象でした。周囲の地味な風景に似合わない、巨大なバブルっぽい建物だったんです。実際にバブル時代に建てられたホテルでした。まだシーズン前で観光客はほとんどいなくて、ロビーはがらんとしていました。まるで映画の『シャイニング』に出てくる高原のホテルみたいでした。狂気にかられたジャック・ニコルソンがタイプライターを叩いているような。わかりますか?」
「わかるよ」と僕は言って、ソーダを一口飲んだ。『シャイニング』は好きな映画で、何回も見たからよく覚えていた。幻のバーテンダーが出現し、双子の小さな姉妹が廊下の向こうに立っていて、エレベーターホールに血が溢れだす。ジャック・ニコルソンは何かに取り憑かれたようにタイプライターを叩く。(仕事ばかりで遊ばない。今にジャックはバカになる)。
ホテルにチェックインして荷物を置いてから、彼女は取材を開始した。
町にある数少ない商店を回って地元の住人に噂話を確かめ、ホテルと一緒に買収されたかつて炭鉱会社が所有していた歴史的建造物を見に行って写真を撮った。市役所に出かけて担当者に話を聞いた。担当者は、のらりくらりと対応して関与を否定し、ホテルの買収は正当な手続きで行われた、という競売の書類を彼女に見せてくれた。想定内のうわべだけの話だった。
それからホテルに戻り、アポを取っていたホテルの支配人にも話を聞いた。こちらも似たような話だった。むしろ買収されたことでホテルが存続できてよかったというニュアンスだった。支配人は彼女にホテル特製のメロンパンを贈呈してくれた。彼女は礼を言ってノートを閉じた。夜はホテルの前にある小さな屋台村の居酒屋で夕食をとった。居酒屋の髭面の主人だけが、「この町は外国人に乗っ取られてしまった」と怒りを見せた。
「それで、現地で取材できることは全部済んでしまいました。あとは東京に戻って、問題の外国資本の会社を取材するだけ。核心に触れるには、もっと別のアプローチが必要かもしれない、と思いました。そんなわけで、現地取材の収穫はあまりなく、ちょっと疲れてホテルに戻ったんです」
彼女が割り当てられた部屋は、航空母艦の先端の最上階にあった。人気のないロビーを横切り、シャッターの降りた土産物売り場を通ってエレベーターに乗り、やはり人気のない長い廊下を歩いた。赤い絨毯が敷かれた廊下の左右には、無機質な部屋のドアが永遠に続くかと思うくらい並んでいた。どの部屋にも人の気配がなく、誰ともすれ違わなかった。もしかしたらこのホテルの宿泊客は自分一人ではないのかと彼女は考えた。だとしたら、なぜロビーから遠い部屋をわざわざ彼女に割り振ったのだろう? 宿泊客が少ないなら、もっと利便性のよいロビーの近くの部屋でもよかったはずなのに。
部屋はダブルルームで面積が広く、都心のホテルの3倍くらいあった。大きなガラス窓の外には、まだシーズンの営業を開始していない無人の暗いスキー場が見えた。それでも彼女はどこかから誰かに見られているような気がして、カーテンを締めた。
備え付けのデスクに座り、その日の取材メモを簡単にまとめた。デスクの前には鏡があり、ふと目線をあげると顔色の悪い女性の顔があった。照明が暗いせいだと彼女は考えた。仕事を片付けると、やることもなかったので、彼女はホテル内の温泉にいくことにした。キャリーバックから化粧道具と下着を出して、浴衣に着替えた。
ホテルの案内図によると、温泉は航空母艦のもう一方の先端にあった。彼女はまた長く人気のない廊下を延々と歩き、エレベーターを乗り継いで温泉に向かった。途中に無人の娯楽室があり、卓球台やゲーム台が置かれてあった。宿泊客も見当たらないのに、ゲーム台は電源が入っていて、へんに賑やかなゲーム音楽が流れていた。
「温泉にも人はいなかった?」と僕は聞いた。
「そうです。誰もいませんでした。温泉自体は気持ちがよかったんです。露天風呂には屋根がついていて、雪が舞うのを眺めながら温泉にゆっくりつかりました。ちょっと赤く濁ったようなお湯で、冷え切った体が温まりました。途中で誰かが入ってきたような音がしたんですが、結局、誰も現れませんでした。温泉は久しぶりだったので、心身が溶けるみたいにほぐれて、そこではじめて来てよかったと思えたんです」
彼女はその年の夏に、婚約が破談になったのだという。詳しくは聞かなかったが、理由は、婚約者の突然の事故死だった。結婚式の予定も組まれていたそうで、彼女のダメージは大きかった。それ以来、意識はしなかったが身体が石のように固まっていたのだ。
約1時間ばかり温泉で過ごし、彼女はまた長い廊下を歩いて部屋に戻った。そしてパジャマに着替えると、ベッドに潜り込んだ。文庫本を読みかけたが、すぐに眠気がやってきたので、彼女は本をベッドサイドの棚に置き、照明を消して枕に頬をうずめた。
誰かの話し声が聞こえて、目を覚ましたのは明け方だった。まだカーテンの隙間は暗いままで、正確に言えば夜明け前だった。最初、誰かが廊下で話をしているのだと思った。他に宿泊客はいないと思っていたが、やはり宿泊客はいたのだろう。ずいぶん早起きの客だなとぼんやり考えていたが、ふと部屋の天井が光で明滅しているのに気づいた。
テレビが点いていた。話し声は、テレビの中から聞こえていた。
テレビ台はベッドの正面の壁際に設置されていた。部屋が広いので、かなり距離がある。「あれ?」と彼女は思った。昨日ホテルの部屋に入ってから、テレビは一度もつけていない。最初に考えたのは、寝返りをした拍子に、自分の体でテレビのリモコンを押してしまったのではないか、ということだった。でもそんなことはない。テレビのリモコンはテレビ台の上にあった。彼女は暗い部屋の中で光を発しているテレビの画面を黙って見つめた。画面の中では、早朝のニュース番組のようなものが流れていた。ローカル局の女性と男性のアナウンサーが、なにかのニュースを笑いながら伝えている。
「前に泊まった客が、テレビの設定でタイマーをかけたのだと考えました。それが自動的に反復されていると。でも後で確認すると、タイマーの設置ができる仕組みはどこにもありませんでした。隣の部屋のリモコン操作が影響したのかも考えましたが、今までそんな経験は一回もありません。そのホテルの壁は厚かったし、隣に宿泊客がいるような気配はありませんでした。誤動作ではなく、誰かがリモコンを押してテレビを付けたんです」
僕はそのときの様子をありありと想像することができた。ベッドで半身を起こし、暗闇の中で光るテレビの画面を見つめている彼女。光の点滅が彼女の瞳に反射している。テレビはふつうのニュース番組を映し出している。放映が中断している砂嵐の画面でもなければ、奇怪なものが映っているわけでもない。
「さっきも言いましたけど、怖いという感じは不思議とありませんでした。なぜかはわかりません。状況はとても奇妙ですよね。さすがに目が覚めてしまったので、ベッドから出て、部屋のあかりをつけたんですが、怖くはありませんでした。むしろ暖かいというか、温泉の暖かいお湯に全身が包まれているような、そんな感じがしたんです」
僕はソーダの残りを飲み干して考えた。電気系統の誤動作でないとしたら、理由はひとつしかない。それを僕は口にしてみた。
「もちろん、その可能性も考えました。部屋の様子をカメラが捉えていたら、おそらくこんな動画が残されていたはず。暗い部屋のなかで、突然寝ていた私がむっくり起きあがり、夢遊病者のようにテレビに近寄り、リモコンを押す。テレビが暗闇の中で点灯する。それを確認した私は、再びベッドに引き返して毛布の中に潜り込む。それからしばらくして、誰かの声を聞いたみたいに、びっくりして目を覚ます。そういうことですよね」
「たぶんね」と僕は言った。
「でも、こんなふうに考えるんです。もし誰かがリモコンを点けたとしたら、たとえそれが私自身であったとしても、それは私に対する、誰かからの何かしらのメッセージじゃなかったのかと。でもテレビ画面は、ふつうのニュース番組だし、それがメッセージだとしたら、何を伝えたかったのかよくわからない。異世界からのメッセージだとしたら、もっとわかりやすく伝えてほしかった。でなければ役に立たない。そう思いませんか?」
彼女は僕の顔をまっすぐ見ながらそう言った。その目にはまぎれもなく怒りの感情があった。彼女はずっと怒りを抱えていたのだ。彼女が体験した不思議な出来事は、彼女自身にその怒りを自覚させた。「そうだね。たしかにそう思う」と僕は言った。(了)