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エッセイ|峠を越えてハイになる

文・友姫 (2127字)
 
 エントリー峠。それは自転車の大会への申し込み時に、越えなければならない道。

 募集人数に対して参加希望者が多く、あっという間に定員に達してしまう。そんなエントリー競争の厳しさを、山道の登坂が困難であることにかけ、皮肉を込めて私たちはそう呼んでいる。スタートラインに立つための最初の一歩。

 その夜もわたしはパソコンの前に姿勢を正して夫と並び、スタンバイしていた。時計を睨み、受付け開始と同時にキーボードを叩く。名前、住所、電話……。少しの迷いもあってはならない。わたしはただひたすら文字を打ち込み続け、そして無事、その峠を越えた。走り終わったかのような達成感を味わい、喜んだのも束の間、隣にいた夫が愕然としていることに気付いた。エントリー峠を越えられなかったのである。まずい。非常にまずい。想定外すぎる。

 一番不安なのは、これまで長距離を一人で走ったことがないということ。自分はいつも前を行く夫を風除けにして楽に走っていた。どうしようか。やばい。無理だ。走りきれないよ。後ろ向きなことばかりを考えていたが、不安がるのに飽きたのだろうか、ふと自分の気持ちが前を向いた。「どうにかなる」と、なんの根拠もなく開き直っていた。

 600キロを40時間以内に自転車で走るというイベントへの参加は、初めての経験である。平均時速15キロで進めばいいと思えば、スローペースだが、食事や休憩が必要で、睡眠だって取りたい。速い人ならちゃんと眠る時間を確保できるのだけれど、ペースが遅いから数時間でも寝られればいいほうなのだ。200、300、400キロは達成していたものの、その距離は初挑戦だった。

 出走日が近づくにつれ、緊張していた気持ちが緩んできた。なんとかなるんじゃないかと考え始めている自分がいる。あまい。悪い癖だ。
 
 軽い気持ちのままスタート地点へ行くと、まだ走り始めてもいないのに心拍数が上がっている。緊張しているせいか手まで震えてきた。こんな自分が600キロも走れるのだろうかと思いながら、応援に来ていた夫と握手し、ひとりスタートした。
 
 走り始めると、向かい風のせいでちっとも進まない。辛くてもう帰りたい。けれども少しずつは進んでいる。漸く風が止んだ頃、同じくらいのペースで走る女性が後方から現れた。お互いスピードにムラがあるのか、二人で抜きつ抜かれつしながら無言で走り始めた。ペースが合って走りやすい。先頭交代しながら走っているとスピードはぐんぐん上がり、気持ちよくなってきた。楽しい。今までにないような集中力とスピードで走っている。ところが数十キロ進んだところで、急にがくんと脚が回らなくなった。離されていく。一度離れてしまうと、風の抵抗が大きくて追いつけない。オーバーペースだったのだ。信号で追いついた彼女に、体力的に今までのペースで走れなくなったことを伝えると、向こうも実は自分も限界だったのだという。私たちは、そこではじめて言葉を交わした。不思議と知っている相手のように感じた。風を切る気持ちの良さに道のりが長いことを忘れ、無計画に走ってしまっていた。お礼を伝え、そこから先は自分のペースで単独で進むことにした。陽が沈みかけている。彼女と走ったおかげで時間に貯金ができていた。
 
 次の難関は夜中の峠道と古墳の前で写真を撮るという、なんとも怖そうなチェックポイントだ。青年が古墳まで一緒に行こうと声をかけてくれた。ありがたい。二人で行けばきっと怖さも半減である。古墳に到着し証拠写真を撮影した。ここを過ぎると残り300キロ。

 峠を越えて長い坂を下っている間に単独走行になっていた。一人夜道を進んでいると、急に聴いたことのない速いピッチの音楽が頭の中で鳴り始め、走るペースが上がった。無数の光るラインが顔の横をとおり過ぎていく。ヘルメットのライトに照らされた雨粒だった。ワープでもしているようだと思った。研ぎ澄まされたような不思議な感覚が続いていた。しばらくして街の明かりが目に入り、我に帰った。

――今のが、ゾーンだったのだろうか。

 予約していた宿に到着し3時間の仮眠を取ったが、まだ夜は明けていない。眠たくて脚が重い。走りたくないと思ったのと同時に、あとは帰るだけだとも思った。そう考えると気持ちが少し軽くなる。
 
 気持ちは楽になっても、脚は重い。風はないのに進まない。朝がやってきても変わらない景色に、ちゃんと走っているのか不安になった。ハンドルに装着したスピードメーターが距離を刻んでいるのを見て、間違いなく進んでいると思うと、急にゴールを意識して、泣きそうになる。涙が込み上げてくると気道が狭くなって、呼吸が苦しい。

――まだ完走してもいないのに。勝手に感動してんなよ。
 
 600キロ地点が近付くにつれ、ペースが上がった。集中してくると、無音になった頭の中の遠くの方から、またあの真夜中の曲が聴こえてきた。再び訪れた妙なテンションに、今度はおかしくなって笑いがこみ上げてくる。そうこうしているうちに、最後のコーナーを曲がり眼前にゴールを捉えた。38時間の長い旅路が終わった。何度もリピートしていたあの曲はもう思い出せなくなっていた。

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