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文・阿壇幸之 (1410字)

 弥七は空を眺めるのが好きだった。

 少しばかり広い額に手を当て、顎を突き出して眺めていた。あいている手は腰の肉を抓むようにして手持無沙汰を紛らわした。その眼差しは、たとえ分厚い雲があったとしても、突き抜けるようであった。弥七の眼には蒼い空、そのものが見えているようだった。私は、膨らんだ祖父の鼻腔を下から見上げるのが好きだった。
 私の眼には、空は、何よりも澄んでいるように見えた。言い換えるならば空に敵うようなものはない。そう思えた。これほど澄んでいる空に敵うものなど、これから知る世界においても出て来はしないだろう。子どもながらにそう思った。
 私にとって、澄んだ空は、生まれたばかりの赤子の眼のように思えた。
 何も知らない眼。
 正義も悪も、幸も不幸も、希望も絶望も知らない眼。
 濁りや淀みのない眼。
 無知。この世界に対する無知な眼。そんな眼と同様、空も無知なように思えた。
 しかしながら、空を見つめる弥七の目は黄色く濁っていた。それは使い古された肌着のように黄色染みていた。私は不思議に思った。こんなにも澄んだ空を毎日眺めているのに、どうして祖父の眼は濁っているのか。切れ長の目尻からのぞく濁った眼。私には、ただ年のせいとは思えなかった。

――どうして、おじいちゃんの眼は黄色いの――

 弥七は私の顔を見下ろした。それから寂しげな顔を空に向けた。

「むかし。お前が生まれるもっとむかし。お前のお父さんもお母さんも生まれる前の話。昔話や御伽噺ではない。本当にあったことだ。空が汚されたことがある。鰯の群れの様な飛行機の雲が空を覆って無数の粒を落とした。雨のように。静かだった。静かだった街は忽ち火の海になった。逃げ惑う人々の声、母親に不意に摑まれた右手、水気を失った空気、嗅いだことのない何かが燃える臭い……今でもはっきりと覚えている」

 弥七はここまで話すと息を大きく吸い上げた。鼻腔が膨らむ。

「火の煙は吸い上げられるように、空のほうへ、高く、高く、伸びていった。龍がうねりながら天に昇るように……。見上げると大きく濁った雲が空を覆っていた。見渡しても、どこにも、澄んだあの空は見えなかった」

 私の知らない空を弥七は知っている。弥七はあの空が濁った時を知っている。弥七は私の眼を窺う。黄色く濁った二つの眼が私に近づく。

「遠く澄んだ眼だ……」

 弥七はそういうと、一つ伸びをして、また、いつものように空を眺めだした。
 私は突き抜ける蒼天を弥七の腰元から見上げた。

 あれから三〇年近くが経つ。生まれた街は大分様変わりした。砂利の多い地面は全てアスファルトに整備された。街灯も増えて夜でも歩きやすくなった。けれど。
 私にとって、澄んだ空は、いまだに生まれたばかりの赤子の眼のように思える。
 何も知らない眼。
 正義も悪も、幸も不幸も、希望も絶望も知らない眼。
 濁りや淀みのない眼。
 無知。この世界に対する無知な眼。そんな眼と同様、空も無知なように思える。
 洋服屋のウインドウガラスに自分の顔が反射する。ひどく近眼のように顔を近づける。澄んだ蒼。あの時、弥七にいわれたままの眼。店員がこちらに気づいたので顔を背ける。
 額に手を当て、顎を突き出すように空を眺める。
 いままでと変わらぬ空がそこにはある。

 (了)

                                                              


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