七夕について思うこと


#創作大賞2024 #エッセイ部門

七夕の時期がやってきた。子供の頃は無邪気に笹の葉サラサラなんて歌っていたが、今はそんな気分にもなれない。
七月の上旬というのは、まだ梅雨と被り天気が悪い日も多い。湿気とうだるような暑さでこっちは死にそうなのだ。
そんな中、恋愛関係にある二人が出会えるからお祝いしようだと。
こちとら万年恋人なんて出来たことがないのだ。少し付き合ったことがある気がするが、碌に顔も見ずに別れたような気もする。そもそもあれは付き合っていたのか。
別居状態の織姫と彦星を悪く言えない。

まあ自分の話しはどうでもいいとして、七夕について言いたいことが沢山ある。

昔はどうして牽牛と織姫が離されたのか疑問だったが、大人になるとわかってきた。どうせ、盛り上がって働きもせずに、ずっとベッドでしっぽりしていたのだろう。
そんなの親が見せられたら、ブチギレて引き離すに決まっている。私もそうする。
しかし残念だったな、牽牛。孫の顔さえ早めに見せて置けば、織姫のご家族の態度も軟化したものを。
子供が生まれる前に、新婚気分を長期間味わおうとするから、こんなことになるのだ。避妊しすぎるのも、時として悪手である。それか牽牛の牽牛が、いくら織姫にミルキーウェイしたところで、命と結びつかなかったのかもしれない。この場合、気の毒である。

あまりにも汚いので、ミルキーウェイの話しはこのくらいにしておこう。

・・・というわけで古くから伝わる、一年に一度のセックスを祝いましょうという、複雑な気持ちになる祭りが始まった。
どっかの公民館かショッピングセンターの笹の葉は枯れ果て、サラサラというより、既に死んでいた。今年も七夕らしいことを祝えない気がする。

昔は願い事をしたものだ。古くから七夕は、芸事しか叶えないという決まりがあるのだが、地上にいる人間どもは、お構いなしに様々な願い事をしていた。そもそもどうして願い事文化が広まったのだろうか。彼らも久しぶりに会うのだから、第三ラウンドくらいまで楽しみたいのに、願い事を叶える暇なんかないだろう。
人に構っている間に、碌に肉体関係も結べずに七夕は終了だ。そのうち怒り狂った二人からメテオレインを頂けるかもしれない。

私が昔どんな願い事をしたかと言うと、やはり「絵がうまくなりますように」とか「素敵な人と出会えますように」とかそんな感じだ。大体想像通りだろう。
どれも叶っていない。
私はいつでも神に祈っている。仏にも祈ったし、七夕には織姫と彦星に願った。しかしどれも叶えてもらえていない。

うちは昔から行事ごとはしっかりやる家庭だった。日本文化のすばらしさを私にわかってもらうためだったのだろうか、今もよくわかっていないが、
七夕もまあまあ豪勢に行われていたのだ。
しかし素人が家でやる身内向け行事など、綻びが見えて仕方ない。
うちで行われた七夕パーティーもそうだった。

子供の頃、私が短冊に書いた願い事は梅雨の時期の雨風に晒され、気づけば薄汚れて家族にサンダルで踏まれるという末路を辿った。何が笹の葉だ。
そもそも笹に飾るってなんだ。家に入らないから外に晒すとこれである。
ついでに鳥の公衆トイレにされるし、蜘蛛が元気に新居を作り始める始末。
年を取るごとにこんなことをして楽しいのかと疑問が芽生え、
段々とうちでは七夕を祝わなくなった。

七夕を愛している人には申し訳ないが、恋人が長年いない人間と言うのは心が荒れ果てていくものである。由来からして恋愛が絡んでいると、それだけで顔をしかめてしまうものなのだ。
きっと恋人でもいれば、「ずっと一緒にいられますようにってお願いしたんだー」「そうなんだ」などと麗しい会話が繰り広げられたことだろう。

そろそろ七夕の思い出を語りたい。あれは小学生くらいまでさかのぼる。

まだ純粋無垢だった私は、捕まえて来たカブトムシを見ながら「笹の葉さらさら」と教室で呑気に歌っていた。
朝の会で先生が「今日は七夕ですね」と嬉々として語り、子供たちは「願い事何にしよう」とか言い始める、それはそれは美しい時間が流れていた。
こういう時絶対に「金がほしい」とか言うやつが現れるのがお約束。
クラスのお調子者たちが願い事の大喜利を始める中、馬鹿馬鹿しいと思った私は、図書室で七夕の本を読んでいた。
七夕と言ってもそれだけではなく、星座に関係する本だ。ギリシャ神話や中国の星に関する神話を眺めていた。
この素敵な行事の日には、それにふさわしい書物を読むのが正しいと思っていたのだ。あの夜空に浮かぶ星に形があって、それぞれ物語があるなんてすばらしいことじゃないか。夏は星を意識する季節。黒い空を見上げて星を眺めるなんて、ロマンチックなことだろう。
今思えば、教室のお調子者たちの方がよっぽど健全である。これに馬鹿馬鹿しいなどと思わずに乗っかればよかった。そしたら今頃コミュ障でも陰気な人間でもなかったのに。
ちなみにギリシャ神話はなかなかに性的な話しが多かったりする。そんなものを熱心に読んでいたから、耳年増のコミュ障になったのだ。
前言撤回しよう。子供のころから全然純粋無垢ではなかった。本当にひねくれた嫌な餓鬼だった。

家に帰ると、婆さんにそうめんを出された。数日間続けてそうめんである。
子供ってやつはそうめんが馬鹿みたいに好きなので、それでも幸せだった。
その後婆さんに浴衣を着せられた。一人っ子なのでよく身内の着せ替え人形になったものだ。
浴衣を着て外に出て、笹と写真を撮った。笹には色とりどりの折り紙が飾られており、そこに家族の願い事がかけられていた。
七夕の歌を歌って、空を見上げた。あんまり天気が良くなった気もするが、星を見た気もする。あまりそこは覚えていない。
その後家族で手持ち花火をした。手持ち花火は調子に乗って振り回していると火傷する。前に空中で円を描いて地面を焼いたことがあるので気を付けたい。もっと言うと、そこらへんを飛んでいる虫も焼いてしまうので気を付けよう。
ちょっと明るくても、そこでやる手持ち花火は最高だった。結構盛り上がるものである。今は家庭用花火セットの中で爆竹が一番好きな私だが、当時は線香花火なんて儚くて好きだった。
蚊が発生しているので、それを叩きながら写真を撮った。汚れた笹の前で笑みを浮かべたものだ。

うーん。こうして思い返してみると、美しい思い出もあった気がする。
これを読んでいる人が誰と七夕を過ごすか知らないが、年に一度の星に近い感じを楽しんでほしい。
私は特に何もする予定はないが、好きな相手にでも電話してみようと思う。
全く脈はないが、やってみる価値はあるだろう。
願い事なんてしない。自分から掴みに行かないと、何も叶わないと思うからだ。









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