機動警察パトレイバー 劇場版 1

当時の僕は入社してまだ半年そこそこ。今でこそ大手と言われるようになったプロダクション・アイジー(当時はアイジータツノコ)も創立1年と少しで、弱小どころか数人でどうにか回しているような極小孫請スタジオだった。そこへ降って湧いたような劇場作品制作の依頼。(注1) 当時は今と違い、劇場オリジナル作品はとても少なかったので、非常に希少で重責な機会だった。
ある日、ここが正念場とばかりに士気を高めるため、かき集めたスタッフを一同に介しての決起集会。押井守監督(以下カントク)の抱負と意気込みが(延々と)語られたのでした。が…
丁度その頃、銀河英雄伝説(注2)の制作がラストスパートを迎えていた僕は、演説途中で意識喪失…カントクの怒鳴り声で目を覚ました。「石川!(注3)そいつをつまみ出せ!」
言われるままに顔を洗って再度席に着いたものの、スタッフ全員の白い目が痛かった。(注4)
気を取り直して現場スタート。まさかのコンテ総リテーク(注5)などもあったものの、気合い十分の現場は活気に満ちていた。しかしそれは、時を追って殺気へと変貌していくことになる。
何せ時間が無かった。最初から無かった。ビデオシリーズを下敷きにしているとは言え、劇場フルスケールのオリジナルを半年で作らなければならなかったのだ。自然、各部署に割り当てられるスケジュールも無理難題。当然、押す。どんどん押す。皺寄せは後ろの方へ行く程酷くなり、スタッフの目が三角になる。殺気迸り、泣き喚き怒鳴る罵る掴み合う。やがて殺し合いに…はならなかったが、その鬱憤のほとんどが最下層管理職の進行に向けられるのは、業界の常。特に撮影と編集には、自分のせいで多大な迷惑もかけたとは思うが、それ以外でもそりゃもうこっ酷く怒られた。電話には出てくれなくなり、行けば毎回必ず怒鳴られた。この辺りは後述するが、かなり理不尽な文句を言われたりもした。それでも皆プロだった。鮮やかなプロの手腕には平伏するばかりだった。自分達の責によらない遅れを巻き返し、膨大な物量と高い要求をこなすノウハウと力業があったからこそ何とかなったのだ。
斯くして、ヘラヘラとスケジュールだけ食い潰した挙げ句に引き上げられた原画マンや海外で行方不明になって急遽新作の憂き目にあったシーンなどの穴も、自分達も苦しい中でそれを補ってくれたプロ達の『知恵と勇気』によって乗り越え、当初無理だの出来っこないだのと言った心無い下馬評を覆して、堂々完成の運びへと相成ったのであった。
1989年7月14日朝、有楽町某所。時間一杯待った無しだったので、完成試写は一般上映直前の劇場で行われた。エンドタイトルに乗せて天才川井憲次の名曲『朝陽の中へ』が流れた時には頭も胸も一杯で、口を吐いて出たのはたった一言「終わった…」だった。(注6)
つづく

注1:実際には降って湧いた訳などでは無く、歯を食いしばって地道に築き上げた信用があってのこと。それでも、当時としてはポッと出の新参スタジオに劇場作品が丸投げされるのは異例だった。

注2:最初のビデオシリーズ。アイジーでは#3、#6、#9、#12、#13、#18の6本を担当。

注3:言わずと知れたプロダクション・アイジー社長(当時)。 会社は新しかったが、この依頼はほぼこの人の個人的信用だけで来たようなもの。

注4:皆若かった。そして、劇場オリジナル作品と云う晴れ舞台に参加できる喜びに気合いが入っていた。合言葉のように「これは劇場なんだから」「だって劇場なんだし」「そんなんじゃ劇場はダメ」などと、些細なミスも許さぬ雰囲気の現場だった。当時オリジナルビデオなども出始めてはいたが、市場はまだまだテレビシリーズが中心で、アニメは消えモノと云う意識が強く残っていた。残せる作品としてのオリジナル劇場版への参加は、ある意味ステイタスであり、実力を認められた証しでもあった。

注5:折角上がった絵コンテだったが、「ロボット出さなきゃダメよ」と言う、クライアント方面からの至極ゴモットモな御意見で、書き直し(笑)。 当たり前でしょ?うん、当たり前です。当時はね、そんなもんです。だって『ロボットもの』じゃん!

注6:「終わりはスッキリスッパリ!最後に四の五の言わない!」とはカントクの言。音楽が見事に表現している。現場の僕も、とにかく早く終わりたかった。終わって欲しかった。何を置いても地獄の日々から解放されたかった。何せ、そこそこ長い業界歴の中でもトップ独走の大変さだったのだ。後に色々と後悔もしたが、それは余裕ができてからのこと。ボロボロの心身に流れ込んだエンドタイトルは、人生最大の修羅場に終わりを告げてくれる福音だった。もうね、自分の今際の際には、是非この曲を聞きながら逝きたいもんです。そんできっと思うの。「これで終わりだ!」ってね。


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