機動警察パトレイバー 劇場版 3
昭和アニメ地獄
金(予算)がねえ!時間(スケジュール)がねえ!知名度が無ければ人手もねえ!と云う訳で、無謀とも言える制作現場はスタートした。
斯くして圧倒的マンパワー不足を補うべく、最前線の僕らは何でもやった。やらされたのでは無い。やらざるを得なかったのだ。
まぁ、この頃の制作進行なんて何処でも似たようなものだったので、数々の雑用をこなすのは通常業務範囲内だとも言えるのだが、加えて僕が担当したのが演出助手…的な、処理係だった。
これが何と言うか、実にキツかった。このスケールの劇場作品の担当演出がひとりだけなのはスケジュール的に有り得ない(注1)ので、じゃぁ助手を付けようとなったのだが、人手も金も無いから兼任で…って、そんな御無体な…
普通に考えて無茶なチャレンジだが、やってみたかったのよね。できるかどうかじゃなくて…
当時の絵作りの現場では、セル画と背景画を重ねて光学撮影する手法がスタンダードだったのは前記の通りだが、カットニーズによっては、その為の補助的な撮影素材やセル以外のネタが必要になる場合がある。これらを手配したり、場合によっては自前で作成するのが演出助手の仕事だった。
例えば、方舟でしのぶさんが操縦するゼロのモニター映像の隅っこで瞬く数列。これは絵の部分とは別に、インスタントレタリング(注2)をセルに張り付けて作った。まだパソコンが現場に導入される遥か以前、コストが嵩む写植やラボ作業は使えなかったので、苦肉の策で自作する羽目に。今では考えられないが、レイアウトに合わせてチマチマと一文字づつ手作業で張り込んだ。
他にも、各種透過光マスク、地図などのモニター内素材、大量のBABELの文字起こしや直接絵にはならない保護用素材とかカット袋(箱)の作成などなど多岐に渡る。
ただでさえ押せ押せの現場。自分の作業で更に遅らせる訳にはいかないので、膨大な物量=果てしない作業時間となる。当然、徹夜に継ぐ徹夜作業。意識は朦朧、判断力は低下、やがて漂うカグワシキかほり…
週に1~2度帰れれば良い方だった前半はまだましで、追い込みの4週間はカンズメ状態だった。
死ぬかと思った。逃げ出すことを何度も考えた。
でも逃げなかった。それは、あんまり大声では言えないが、ある密かな楽しみがあったからだ。
杜撰な管理故の
雑居ビルの一室にあった我社で劇場作品に挑むことが決まって、真っ先に手配したのが『場所』。劇場スタッフ用の作業スペースを確保することだった。
予算的に新規に借りるのは難しく、近所に都合の良い空き部屋も無かったので、社長がツテ(無理筋とも言う)で借りたのが、タツノコアニメ技術研究所(注3)のワンフロア。半分倉庫として使っていた処を、無理矢理片付けてスタジオとした。
この時、隅の一角に寄せて積んで隔離した荷物郡はパーティションで区切られ、『部外者立ち入り禁止』と書いた紙で封印された。
ダメよと言われると覗いてみたくなるのが人情。深夜人気が無くなってから、作業の合間に息抜きとばかりに探索に入った。そして目にしたのが、歴史あるタツノコプロの資産の数々だった。
科学忍者隊ガッチャマン、新造人間キャシャーン等の番宣ポスターの原紙、タイムボカンシリーズなどの企画書や設定原案などなど、普段絶対に目にすることなど叶わないお宝の山だった。中でも吉田竜夫氏の直筆原画や色紙、ラフ画の数々には魂を掴まれた。
こうして、「お前、もう寝ろ!死ぬから(使い物にならんから)少し寝とけ!」と言われて倒れ込んだ仮眠スペースを抜け出しては、コッソリと眼福に授かった。
いや、寝ろよ!と言われるかもしれないが、意識を失うことはあっても、そうそう眠れなかったりするのよこれが。迫り来るアップ日。愕然とする残量。プレッシャーは強迫観念となり、ケツを蹴っ飛ばす。
そんな中、先人、パイオニア達の残したものに触れ、その苦労と努力を想い、活力を分けていただいたのだ。
ダメじゃん!って言わないで(お願い)。取り扱いには慎重に慎重を重ねて元に戻したし、これが無かったら自分を保てたか怪しかったのです。もう時効だしね…
よく考えてみれば、何とも大らかと言うか、何と言うか…業界全体がそんな状態だったから、セル泥棒などという無粋な輩が跳梁跋扈したりもしたのだろう。(注4)
思えば、数年後に同社のシリーズ制作の応援に行っていた時にも、本社ビル地下にあったフィルム倉庫の16mmプリント(フィルム)をこっそり借りては、往年の旧作を楽しませていただいたっけ…(合掌)
タツノコプロが創立以来二十余年(当時)に亘り作り続けてきたフィルムの数々は圧巻だった。それを自社で保管できていることがまた、何よりも素晴らしいと思ったものだ。
フィルムを残すと云うこと
言うまでもないが、本作はフィルム作品である。デジタル化が想像すらできない遠い未来だったこの頃、映像作品=フィルムだった。テレビシリーズでさえ16mmのフィルムで納品していたのだ。今や過去の異物扱いでも、我々にとってのフィルムはやはり特別な意味を持つものだ。
80年代、業界全体が予算削減の折、某業界大手を筆頭にフィルム原版(ネガ)が35mmから16mmに切り替えられていった。(注5)
時代的に致し方ないことではあるが、タツノコプロではこの流れに抗い、最後まで35mm原版に拘っていた。結局は抗いきれずに呑まれてしまうのだが、残すものは最高の状態でとの意思が現れていた。結果として、この端境期に制作された作品は、タツノコプロのものだけは他社製に比べて数段クオリティが高かった(注6)。
だが、同社のようにフィルム原版を自社保存できていたのは極少数。普通は納品したらそれっきりだった。増して途中成果物などは即廃棄されるのが当たり前だったので、この作品に纏わるものはほとんど残っていない。
今でこそアーカイブなどと称して後のニーズの為に色々保管するようになってきてはいるが、そこにもコストがかかる。権利問題はさておいても、制作者側の意識と余力はどうしても維持管理に必要なのだ。
数年後、本作に音響部分の5.1ch化の話が出た。さてそれでは素材は、と言えば…
パト2の劇中でもディスっているが、高価だった磁気テープは当然のように使い回されて残っておらず。「でも、これは劇場作品なんだから、フィルムがあるじゃないか!」と相成ったのだが…いざ音ネガ(注7)を探したものの、行方知れず。どうして絵ネガと別れてしまったのか見当もつかないが、音の方のネガ原版だけはとうとう発見できなかった。
斯くしてサウンドリニューアル番は新規収録となりましたとさ。
そこまでコストをかけてでもサウンドリニューアル版を出す価値ありとの判断だったのだから、やはり本作の評価は相当高かったのだろう。(注8)
それは何度もリバイバル上映され、その度に人気と再評価を獲得していることからも明らかだ。繰り返すが、スタッフの一員として、こんなに嬉しいことはない。
みつ
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注1:当然、演出さんもキツかった。何せ我らがカントクは、絵作りの方はレイアウトまでしか見ず、後は音楽と音響作業の方に専念するスタイルだった。その後の処理は全て演出任せで、いよいよ現場が退っ引きならない状況になるまではスタジオに来もしなかった。
注2:対象物に重ねた上から擦ることで転写する、文字や記号が印刷されるフィルム素材。今でもあるのかしらん?
注3:タツノコプロの技術研修スタジオ。優秀なスタッフを数多く輩出した。この頃は雑居ビルの数フロアを借りていた。
注4:作業中のスタジオからセルなどの中間成果物が盗まれる事件が頻発し、ただでさえ苦しい現場作業を圧迫した。セルどろダメ!絶対!
注5:元々はテレビシリーズでも35mmで撮り、16mmに縮小プリントして納品するのが一般的だった(自主制作や低予算作品では最初から16mmの場合もあった)。16mm原版だとフィルム代やラボ費用が格段に押さえられる代わりに、最終的に残された映像の密度は大幅に下がる。
注6:現在ではデジタル作業での修復技術が上がり、一見遜色無いレベルにまでなっているが、やはり大元の素材の違いは出てしまう。幅が半分で画角が同じなら、面積は1/4。密度の違いは明らかだ。
注7:絵の方のネガ原版には音が無いので、サウンドだけで同じ長さの原版が必要になる。これが音ネガ。両方揃って初めて上映用のサウンドトラック付のプリントが焼ける。
最終的に納品した原版は、絵ネガと音ネガ、それにプリントの計3種類。それぞれが2000フィートx4.5本(45センチ径5缶)あるので、総重量は百キロ越えになる。
注8:パト2の場合は事情が違う。まぁ、色々とね…
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