03 - 出会い・2
その日マンションに到着した私とメグは、少し高揚気味にインターフォンでおばちゃんを呼び出しました。「いらっしゃい!」という声の後ろから、ウォンウォンと元気な犬の鳴き声が聞こえました。メグと顔を見合わせて、「あれがチョコね!」とワクワクしながらエレベーターに乗り込みました。
エレベーターが開くと、目の前につゆみおばちゃんが出迎えてくれていました。長い廊下をおばちゃんの後に続くと、遠くから野太く吠える犬の声が廊下に響いてきました。絶え間なく、ウォウォワン、ワンワン、と吠えています。その声の出処で、おばちゃんの家の場所がすぐにわかるほどでした。
声が大きいので、私は少し怖気付きながら門扉を開けると、床に張り付くようにして、少し癖毛のモップのような焦げ茶色の生き物がこっちを見ていました。勝気にキョロっとした上目遣いで私達を見上げていて、私は思わずその柔らかそうな毛並みに触ってみたくなりました。
そっと手を伸ばすと、すかさずつゆみおばちゃんから「あ、撫でられるのは得意じゃないの、気をつけて!」と声がかかりました。でも時既に遅し、私の指先はこの茶色い小さな頭に触れてしまっていました。
するとこのワンコ、さっきまでウォウウォウと唸り吠えていたのをピタッと止めて、緊張気味に大人しく、身をすくめてジッとしています。私はさらに、その長い体をそおっと撫でてみました。ウォッフ、と不満気に小さく呻きながら、でも静かに身を任せているワンコを見て、おばちゃんが驚きました。
「え!真由ちゃん、初めてなのに!え!撫でてるの!」
それを見ていたメグも、「私も触りたい!」と手を伸ばしました。ワンコはまたしてもウォッフと少し不満げに、でもクルクルした目で私達をジッと見据えながら身動きもしません。二人にモソモソと撫でられながら、懸命に両足を踏ん張っています。
「えー!びっくり!こんなの初めて見たわ。さあさあ、どうぞどうぞ、中に入って」と目を見張りながらおばちゃんが家の中に招き入れてくれると、足に絡みつくようにしてこのワンコも一緒に駆け込んできました。
危うく踏んづけそうになりながらスリッパに履き替えて荷物を置くと、ワンコはすかさずフンフンと念入りに鞄の匂いを嗅いで、「怪しいものじゃないかしら?」とでもいうように確認を怠りません。先に到着した千華さんのいるリビングルームに入ろうとすると、「アタシが先に入るのよ!」と言わんばかりに足の間を素早くすり抜けて、駆け込んだ部屋の中央でウォウウォウと得意げに声を上げました。
「チョコ!静かに!」というおばちゃんの声も虚しく、急に密度が上がった空間に興奮したのか、ウォウウォウと高らかに吠えながら部屋の中を行ったり来たりしています。
ソファに腰をかけて千華さんに挨拶をしていると、その茶色いモップが目の前のテーブルの下に滑り込んできました。私はチャンスとばかりに、
「あなたがチョコね。初めまして、チョコ。」と改めて挨拶をしました。
すると、さっきまで落ち着きなく大きな声で走り回っていたチョコが、ゆっくりと体を起こして静かに私を見据えました。
先ほどのような上目遣いではなく、じっとその大きな黒い瞳で、まっすぐに私のことを食い入るようにして見つめています。思わず、私もその瞳を見返しました。
その時、私たちの周りでは、他の三人がどれだけ今日という日を楽しみにしていたかを話していました。でもその声も遠くぼんやりとしか聞こえなくなり、私とこの茶色いチョコの周りだけ、広く静かな空間に包まれたようになりました。その中で私たちは静かにお互いを見つめ合っていました。
長い、ながい時間が経ったように感じました。
チョコの黒い瞳が深い青色に変化して、うるうると輝きを増したように思えた時、突然私の目からボロボロと涙がこぼれ落ちました。
なんとも形容しがたい、不思議な感情に満たされて、とめどなく涙が溢れます。
突如湧き上がる、心の奥底からの突き上げるような懐かしさと、体の芯を揺るがしそうなほどの切なさを必死に抑えながら、我に返って慌てて目や鼻をティッシュで拭う私を、チョコはその深い、漆黒の瞳で静かに見守っていました。
急に泣き出した私に驚いて、おばちゃんがティッシュを沢山よこしてくれました。そして微動だにせずに私をみつめているチョコをみつけて、
「あら、チョコがじっと動かずに真由ちゃんのことを見てるわ!」
と声を上げました。
そんな周りの様子を気にかける気配もなく、チョコはまるで、何かを私に伝えようとしているかのように、じっと静かに私の顔を見つめ続けていました。私は、とにかく制御できない自分の感情と、止まらない涙に驚きを隠せず、ひたすらグスグスと鼻をかみながら動揺していました。
「なんだろう、なんだろうこれ?どうしちゃったんだろう、私」
その時、千華さんが言いました。
「ああ、真由さんとチョコちゃん、魂の記憶を共有してるんですよ」
それが、私とチョコの忘れがたい出会いでした。
つづく。