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学生芸人を経て、ラジオ『オールナイトニッポン』ディレクターに。野上大貴の、愛すべき“ムダまみれ”な青春

本連載「そっちのけ紀」では、いわゆる“まじめ”な経歴を持っている方に、勉強そっちのけで取り組んでいたことをお聞きしています。

今回登場するのは、ニッポン放送の野上大貴(のがみ だいき)さん。慶應義塾大学法学部政治学科を卒業し、2016年に入社。現在はナイツさんの昼のラジオ番組『ラジオショー』や、深夜のラジオ番組『オールナイトニッポン』のディレクターを担当しています。過去には、菅田将暉さん、星野源さんなどの番組も担当。星野源さんの番組では間違ったタイミングでSE(編注:「サウンドエフェクト」のこと。番組の冒頭やコーナー前のBGMを指す)を出すなど、ちょっとおっちょこちょいなキャラで、裏方ながらリスナーの間ではよく知られた存在です。

そんな野上さんは学生時代、お笑いに明け暮れる日々を過ごしていたそう。「ムダなことをたくさんしました」と振り返る彼の、青春の“余白”を紐解きます。

野上大貴(のがみ だいき)
1993年生まれ。東京都出身。
慶應義塾大学を卒業後、2016年に株式会社ニッポン放送に入社。
制作部を経て、2019年より株式会社ミックスゾーンに出向。
番組ディレクターとして現在は『ナイツ ザ・ラジオショー』『霜降り明星のオールナイトニッポン』『日向坂46・松田好花のオールナイトニッポン0(ZERO)』『KEN RADIO』を担当中。


現代文の授業時間で、丸坊主に!?

——大学時代は、お笑いサークルで学生芸人をしていたそうですね。小さい頃から、芸人をめざしていたんですか?

小学生の頃は、単にお笑い番組が好きな子でした。『エンタの神様』や『M-1グランプリ』を夢中で見ていたのを覚えています。お笑いが僕にとって特別なものになったのは、中学1年のとき。受験が上手くいかず、通学に片道1時間半もかかる中学校へ行くことになったんですよ。遠すぎて誰も知り合いがいないし、もともと引っ込み思案だし、最初はあんまりクラスになじめなかった。そんな僕を救ってくれたのが、お笑いでした。

ニッポン放送ディレクター・野上大貴さん

当時は、クラス中が観ている人気のお笑い番組がいくつもありました。そこで『爆笑レッドカーペット』などを見て、学校でマネしたら、みんなが面白がってくれて。おかげで友だちが増えたんです。調子に乗って、学年が上がっていくにつれてどんどん騒がしくなりましたが(笑)。

——「クラスのひょうきん者」という感じですか?

まさに。教室でなんとなく浮いている子にも、笑ってほしくていろいろ話しかけていました。そういえば、現代文の授業が始まった瞬間に「ちょっとトイレ行きます」と言って、丸坊主になって席に戻ったこともありましたね。

——ええっ……!

引かせてしまい、すみません(笑)。まあ、先生方は相当困ってたと思います。勉強は全然しないし、うるさいし、学校に何も貢献しないけど目立ちたがり屋のイタい生徒でした。

でも、お笑いに関することになるとまじめ。芸人さんの本は何冊も読んだし、気に入ったネタは暗記するくらい繰り返し見ました。特にトータルテンボスさんが、2007年のM-1グランプリからずっと大好きで。一言一句ノートに書きとったり、DVDを数えきれない回数見返したり。どうしたらこんなふうに面白くなれるんだろうって、興味津々で研究していました。

——お笑い芸人のラジオを聞くようになったのも、その頃ですか?

はい。中学2年のときだったと思います。最初に聞いたのは『ナインティナインのオールナイトニッポン』。テレビとは違う、ゆったりした雰囲気でしゃべるナイナイさんが新鮮で、面白すぎてびっくりしました。お笑いライブに通いはじめたのも、その頃。当時多くの人が使っていた携帯電話のSNS「モバゲー」を通じて、お笑い好きの仲間を見つけては誘いました。

はじめは、クラスの人たちを笑わせるために、面白くなりたかったんです。でも本物のお笑いに触れるうちに、僕も芸人になりたいと思うようになっていました。

「僕、芸人になるから」代々慶應の一家で宣言した夜

——中学生のときから舞台に立っていたと聞きました。

はい、学生ライブに出るようになりました。ほんとは漫才をやりたかったんですが、学校の同級生みんなに断られたので、ピン芸人として(笑)。はじめて舞台に立ったときは、出た瞬間に頭のうしろがカーっと熱くなったのを覚えています。ネタが全部吹き飛んで、本来3分のネタが1分も経たず終了。もちろんドンずべりです(笑)。

でも3回ぐらい続けてみたら、客席からじわじわ笑いが起きるようになったんです。まあ、すべった後の微妙な空気でウケをねらう「すべり笑い」ってやつなんですけどね。でもうれしかった。笑いのツボが似ている同級生を笑わせるのと、年齢も性別も異なる初見のお客さんを笑わせるのは、感覚が全然違いました。

——舞台に立つ楽しさを知ったんですね。

この世界で生きていきたいって、強く思いましたね。それで高校1年のときに両親に、「芸人になるから大学には行かない」と宣言したんです。僕の家系はなぜか代々、慶應義塾大学出身。だから若干のプレッシャーがあったのですが、僕は、同じルートをなぞるつもりはないからね、と。

——おおお。ご両親は、なんとおっしゃったんですか?

思ったほど反発は受けませんでした。「わかったから、一旦大学に入ってから考えな」って。そりゃ、賛成はされませんよね。もちろん僕だって、芸人がそんなに甘い世界ではないことはわかっていました。中学生・高校生でも、すごい人は既にすごいんですよ。ネタのクオリティも、テンポも、あきらかに違う。才能ですよね。学生ライブでは、霜降り明星を結成する前の粗品さんを見かけたこともありました。当時から、異次元のレベルで観客を引き込んでいましたね。

キラリと光る同世代に、鼻をへし折られ続ける僕。本気でやっていたからこそ、次第になんだか嫌になってきて、40歳前後の大人ばかり出ている地下のお笑いライブに拠点を移しました。そっちでさえ別にウケはしない。しばらくやったけれど、自分は芸人にはなれないなと悟りました。

——見極めは早かったんですね……。

そんなときに頭をよぎったのが、放送作家という仕事でした。中学1年のときから、『べしゃり暮らし』というマンガを読んでいたんです。高校の同級生として出会ったお笑いコンビが人生をかけて漫才をやるという作品で、芸人を裏で支えるポジションとして放送作家が登場します。あれを読んで「作家ってかっこいい」と思ったのを、どこかでずっと覚えていて。だから僕は、芸人をめざすのはやめて、放送作家をめざそうと決めました。その時点で、気づけば高校3年直前。とりあえず大学には行こうと思い、ようやく受験勉強に本腰を入れたわけです。

——結構ギリギリのタイミングですね。

崖っぷちでした。数学や国語は、学年400人中、380位とかのレベル。ただ英語だけはよくできたんです。父親からずっと「リスニングの勉強だけはやっとけ」と言われていたので。中高6年間、通学の往復3時間は耳を鍛えてました(笑)。あと、通っていた塾の日本史の先生が面白くて、自然に勉強にのめり込めたんです。文系科目は得意だったのと、勉強自体は嫌いじゃなかったこともあり、慶應には入れました。


——大学ではお笑いサークルに所属していたそうですね。最初から、入ろうと決めていたんですか?

はい。放送作家さんの中には、かつてプロの芸人をめざして活動していたという人が一定数います。アマチュアであっても、芸人を経験していると、企画や脚本作りに活きるんだと思います。それにならって僕も、大学でお笑いを経験しようと決めていました。はやる気持ちを抑えられず、「モバゲー」で入学前から相方を見つけていたほど。実際に相方を見つけられて、ようやくネタ合わせができたときは、そりゃあもう興奮しました。お笑いってやっぱ楽しいなあって。

お笑いに捧げた最後の4年間

——サークル活動の中で「芸人になりたい」と思い直す瞬間もあったのでは?

チラつく瞬間はあったけど、やっぱり学生という環境でも圧倒的な才能は輝いていたんですよ。僕が1年として入学したときには、同じサークルの4年生に真空ジェシカの川北茂澄さんがいました。新歓ライブで彼のネタを見たときはもう、度肝を抜かれましたね。「今後、日常でこんな面白い人には出会えないだろうな」って思いました。

プロは無理だと諦めていても、お笑いをやるのがひたすらに楽しかった。最終的にサークルの代表を務めるほど、のめり込みました。学園祭で大勢のお客さんに笑ってもらえたことはかけがえのない思い出です。他大学のお笑いサークルとの交流も盛んで、たくさんの面白い仲間とも出会えました。

——在学中、放送作家になるための準備は、何かしていましたか?

はい。大学1年生の時にはスクールに通い、勉強しましたね。2年生に上がってからは、サークルと並行して、放送作家さんのお手伝いをしていました。仕事はリサーチと呼ばれるいわゆる下積み業務。大学3年生になるまで1年間、お世話になりました。

——飲食店や塾、テレビ局でアルバイトもしていたそうで、盛りだくさんの学生時代ですね。

常に忙しかったです。大学時代は法学部でしたけど、まったく勉強してないですね。4年間は全てお笑いに捧げました。燃え尽きるまで「青春」したことは、幸せだったと思います。最後を飾った思い出は、卒業間際の大きなお笑いコンテスト。10人ほどのメンバーを集め、エントリーしました。軍服等の衣装を着て、風刺っぽく政治ネタを交えるような異色のネタでしたが、奇跡的に決勝まで進めて。

決勝の舞台でもそこそこウケて、ほんとに気持ちよかったです。ただ、審査員のひとりに吉本興業の社員さんがいて。その方の講評が100点中50点(笑)。最後に「これはお笑いじゃない」ときっぱり言われて、ある意味すっきり卒業しました。

今までのバイトは全部クビでも

——卒業後、作家をめざすのではなく、企業に就職したのはなぜだったのでしょう?

正直に言うと、学生時代の経験から、放送作家だけで生計を立てていくのはかなり難しいと思ったからです。ただ、金融機関やメーカーなどの一般企業を受ける気はまったくありませんでした。実は僕、今までのバイトは、ほぼ全部クビになっているんです。つまみ食いしたり、店の備品を間違えて破壊したり……。こんな僕でも働ける会社は、懐の深そうなエンタメの世界ぐらいだろうと(笑)。それで、芸能事務所や放送局などを受けました。もし全部ダメだったら、本腰を入れて改めて作家をめざそう、と。

ニッポン放送から内定が出たときは、そりゃあもう、うれしかったですよ。採用面接では、オールナイトニッポンの企画案として、ニューヨークさんの魅力を熱く語りました。小学生の時から好きだったお笑いへの強い思いが、面接官に響いたのだと思います。ただ、僕はお笑いマニアだけれどラジオマニアではありません。入社してから、周りの熱量にビビりました。「ラジオ、みんなめっちゃ好きじゃん」って(笑)。

——あはは。でも今や、ラジオの世界で大活躍されています。

僕の実力ではなくて、とにかく配属のおかげが大きいです。まず、いきなり制作の部署に配属されたのが、ラッキーでした。途中1年間だけ違う部署にいましたが、夜帯のディレクターとして戻ったら、最初に菅田将暉さんのオールナイトニッポンを担当できたんです。これも幸運ですよね。「ニッポン放送に入ったからには、オールナイトニッポンを担当する!」と決めていたので、決まったときは飛び上がるほど興奮したのを覚えています。以降、ぺこぱさん、フワちゃんさん、星野源さんなどの番組に携わらせてもらいました。今は霜降り明星さん、日向坂46の松田好花さんの番組やナイツさんの昼間の番組を担当しています。

——野上さんも、オールナイトニッポンの名物ディレクターになりつつあるような気が。

いえいえ。今でこそ昼間の番組のチーフディレクターもやらせてもらってますが、決して順調なディレクター人生ではなくて。やらかしエピソードがまあ、たくさんありますよ(笑)。たとえば、生放送中にアナウンサーから「ディレクター、一言お願いします」って急に振られて、どうしてか放送禁止用語を言っちゃったり。

——オールナイトニッポンのリスナーは、そういう野上さんの失敗エピソードをなぜかたくさん知っています(笑)。

パーソナリティもリスナーも、放送やメールのなかで笑いに変えてくれるからほんとにありがたいです。でもあれは僕が若かったから、ギリギリ可愛がってもらえてきたんですよね。今は反省しています……。

——2023年4月からは、昇格してチーフディレクターを務めています。ディレクターとして活躍するために、大事にしてきたことはありますか?

意識してきたのは、「とにかく動くこと」です。たとえばパーソナリティが「これでグッズ作ってみたいな」とポロッと言ったら、それが本心かどうかわからなくても、とりあえず作れるように動いてみる。放送中や放送前後にチョロッと出てくる発言を聞き漏らさないよう、メモをいつも側に置いています。


肌身を離さず持ち歩いているキャンパスノート。この日も使い込んだノート2冊を抱えて会議室に現れました。

あと、新入社員時代に先輩から「ディレクターは何でも知っている方が良い」と教わったので、流行のインプットも意識的に行っています。パーソナリティの皆さんはお忙しいから、たとえばM-1グランプリの予選の状況とかを仕入れて、雑談の中で伝えると、喜んでもらえるんですよ。

——野上さんのお話を聞いていると、失敗や挫折をしても打席に立ち続ける力強さを感じます。

学生時代の経験を通して、たとえ世間にウケなくても、プロになれなくても、とにかくやりたいことを高い熱量で続ければ、楽しい世界につながっていくことを知ったからかもしれません。10代の僕がやっていた、芸人の同じネタを何回も見るとか、一言一句書き取るとかって、一見ムダな行為っぽいじゃないですか。結局プロの芸人にはなれなかったし、放送作家にもなっていない。でも、ああいう時間があったからこそ、お笑いマニアになったし、ニッポン放送にも入れた。振り返るとすべてがつながっています。

実は、僕には今2歳半の娘がいます。僕と妻に似て、すでにお笑いとかユーモアが好きそうな気配があります。娘にも、何か好きなものに熱中してほしいですね。なんでもいいから、信じた道をがむしゃらに楽しんでくれたらうれしいです。


取材・執筆:安岡晴香
撮影:小池大介
編集:三浦玲央奈(株式会社ツドイ)

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