虚数都市(Imaginary city) 1,426 文字
「0の向こう側へ、君を招待しよう。」
目を覚ました私は、枕元にそんな言葉が書き添えられたた小さなメモが置かれていることに気づいた。
メモには複雑な数式がびっしりと書き込まれている。
それは「座標」のようだ。
数式には虚数単位「i」が含まれていた。
そして・・・・ 全てはそこから始まった。
私は大学で数学を研究する大学院生だ。
虚数の概念は数学の基礎レベルの話であり、完全に理解していたつもりだったが、メモの示す「虚数世界」は私の理解を超えるものだった。
私はメモに記された数式をMacBookに入力し、解析を始めた。
未知の数式を解析し分解し、意味を理解し、その美しさを堪能するのは数学の醍醐味だ。
完全な数式は美しい。ひたすら美しい。
そしてその理解を超える数式はとても美しかった。
私は数式の持つ複雑性、独特のシンメトリーと調和に魅了された。
複雑な数式を座標としてディスプレイに表現できるとは思わなかった。
しかし・・・ディスプレイに現われたものは、学部生時代に作った3次方程式の虚数解イメージを思わせる歪んだ馬蹄形の空間が幾重にも重なり交差しながら複雑にどこまでも広がる空間の入口だった。
私は吸い寄せられるように歪んだ広大な空間を示すディスプレイに身を投じた。
「これが 0の世界…?」
そこは平面でもなく、空間でもなく、点ですらなかった。
起点も無く終点もない。縦も横もない。
現在もなく過去もない。なぜならそこは始まってすらいない。
私は無限であり、かつ無であり、そして空であった。
0は虚数であり実数でもある。
私はゼロの世界にいた。
私という存在はなくなった。
0 の先にあったのは虚数都市だった。i の世界だ。
直線は曲がり、平行線が交差する世界。
立体的に見える空間は、無限に無秩序に折り重なる平面でできた非ユークリット的な空間。一つの場所に同時に複数の形と状態が存在し、観察者の視点で形が変わる「量子的空間」。
時間は単なる過去から未来への直線的な流れではない。
無秩序に流れ、交錯し、循環する。現在なのか過去なのか未来なのかは意味をなさない。
構造物はどれも対称に見えるが、不規則に崩れている非対象シンメトリーでもあり、観察者によって形を変え、性質も色も1つに固定されない。
光が影を作るのではなく、影が光を作る。
物体は「負」の質量を持ち、物体が「正」の質量を持つ世界とは真逆の運動をする。
物体に右方向に力を加えれば左方向に動き、押すと押し返してくる。しかし、右方向に力を加えるには、自身は左方向に力を加えないといけない。押すためには引かないといけない。
虚数都市の住民は形を持たない”揺らぎ”だった。
触覚や視覚、意思、感情に相当するものが存在しているが、それは負のエネルギーの揺らぎとして知覚される存在だった。
そして私は彼らと逆相の正のエネルギーの揺らぎとして存在していた。
彼らは言う。
我々も彼らも少なくとも11次元の空間で振動する微細な弦の生み出す揺らぎにすぎないのだと。正の領域での揺らぎが私で、負の領域での揺らぎが彼らなのだと。
気がつくと、行きつけのスタバの窓際席に座っていた。
心臓が激しく脈打っていた。
心臓の鼓動も荒い息使いも全て実態があるように感じる。
だがそれらは全てそのように知覚できるだけで、実際には”揺らぎ”にすぎないことを私は既に理解していた。
私は大きく息を吸い、眼の前に置いたMacbookを見つめた。
ディスプレイの中では、美しい複雑な数式が明滅を繰り返していた。