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【小説】混濁

 キャロルは、マジェスター・シアターの空間に身を委ねながら、ゆっくりと食事を味わっていた。テーブルには、色とりどりの料理が並べられている。それぞれがまるで小さな芸術品のようで、料理一品一品が目にも美しく、心を奪われる。深紅のソースが滴る肉の切り身は、まるで夜空に浮かぶ流星のように輝いており、その香りはまるで森の中に咲く花々が混ざり合ったかのように甘く、そしてスパイシーだった。舌に乗せると、溶けるような柔らかさと共に、豊かな旨味が広がっていく。

 隣には、金色に輝くサフランライスがふわりと盛り付けられ、その香りはまるで遠い東方の風を感じさせる。キャロルはその一口を口に運ぶと、すっと広がる香ばしさが心を落ち着け、まるで時の流れが静かに変わるように感じた。さらに、クリーミーなソースが絡んだ野菜のスープが、口の中でほっとするような温もりを与えてくれる。その一滴一滴がまるで夢の中の甘美な記憶のように、深く、豊かに心を満たしていった。

──その時、キャロルの手が止まった。

口に運ぶはずだったスプーンは宙に浮き、皿の上で小さくカチャリと音を立てた。食事の湯気が立ち上るのも忘れ、彼女の視線はただ舞台に釘付けになる。

 薄暗い劇場の中、スポットライトに照らされた姿は、まるで現実から切り離された幻想だった。仮面に覆われた顔、その動きの一つひとつが研ぎ澄まされ、静かに、それでいて劇場の隅々まで届くほどに力強い。彼女は、今まさに“己を葬る女王”だった。

 ゆっくりと、白磁のような指が王座の肘掛けをなぞる。かつてその指は栄華を統べた。しかし今、彼女の手は震え、何も掴むことができない。長く美しい袖が、夜の帳のように揺れる。静かに立ち上がり、王冠を外す。黄金の輝きが儚く灯り、手の中でひどく軽く思える。それを胸元に抱きしめると、まるで誰かに許しを乞うかのように、肩がわずかに揺れた。

 王冠を捨て去った手で、銀色の短剣をそっと撫でる。細い刃が月光を受けて煌めき、まるで彼女の最期を祝福するかのように微笑んでいた。

 唇が動く。だが、声にはならない。

 仮面の奥で揺らめく吐息。彼女は静かに舞台を見渡す。まるで何かを探しているように。まるで、もう届かぬものを求めるように。

 ふと、彼女の足が一歩、前へと進む。ゆらりと、闇に溶けるような動き。
 薄絹の衣がふわりと広がり、僅かに触れた風さえも演技の一部となる。彼女の仕草には、一切の迷いがなかった。

 短剣を掲げる。

 仮面越しに見えない瞳が、まっすぐと虚空を射抜く。その視線は何を映しているのか。憐憫か、それとも決意か。

 次の瞬間、静寂を切り裂くように、彼女の腕が鋭く振り下ろされた。

 まるで誰かを抱きしめるかのように、そっと刃が沈む。

 向日葵のような鮮やかな色だった衣が、次第に紅く染まる。床に零れた鮮血が薔薇のように広がっていく。震える指が、血に濡れた衣をなぞる。その動きはどこか優しく、まるで遠い記憶の中の誰かを愛おしむようだった。彼女はそっと顔を上げる。誰かを求めるように。それとも、誰にも届かぬ祈りとして。薄れゆく意識の中、彼女は最後に空へと手を伸ばした。

 そして、静かに崩れ落ちる。ゆっくりと、まるで花びらが散るように。舞台の上に広がる沈黙。死すらも美しく、静謐なものへと変えてしまう演技に、劇場は息をひそめた。

 目を逸らせない。否、逸らすことなどできない。

 「……すごい」

 無意識に漏れた言葉に、ハッとしてキャロルは口をつぐんだ。

 気づけば、スープは冷めかけている。皿の上で固まり始めたソースも、パンのちぎれた端も、もうどうでもよかった。
 キャロルはただ、そこにいる彼女を目に焼き付けようとした。

 “あたしも、こんな風になれるのか?”

 そう問いかけた心の声は、憧れと、少しの悔しさに滲んでいた。


 舞台の照明が消え、劇場内の喧騒が次第に静まっていく中、アムネシアは一歩一歩、舞台袖へと足を進めた。その歩みの一つ一つが、まるで周囲の音すら引き寄せてしまいそうなほど、どこか非現実的で、冷たい空気を纏っているようだった。

 キャロルは、拍手が完全に途切れたその瞬間を見逃さなかった。心臓が高鳴り、鼓動が耳をつんざくように感じる。目の前にいるアムネシアにどうしても伝えたい思いがあった。ずっと胸の中で押し込めていたその気持ちを、今、この瞬間に吐き出したかった。

「あの……!」

 思わず声がこぼれた。仮面の女性──アムネシアはその声に反応して、ピタリと足を止める。彼女はゆっくりと振り返った。仮面の下に隠された顔は見えないけれど、その目線が、キャロルの胸の奥まで見透かすように、じっと留まる。まるで、キャロルの心の奥を読まれているかのような錯覚に陥った。キャロルは息を呑みながら、その思いを言葉にする。言うべきことは、それしかなかった。

「あたし、あなたのようになりたくて。だから…マジェスター・シアターに入団したいんです!」

 必死で絞り出した声が、掠れて震えているのが自分でも分かる。だが、アムネシアは無表情のまま、しばらく黙って立ち尽くしている。その静寂が、逆にキャロルを追い詰める。目の前のアムネシアが、ただ静かに立っているだけで、彼女がどんな反応を示すのか全く分からなかった。

 やがて、アムネシアは低く、冷静な声で言った。

「あなたがここに来る覚悟があるのなら、別にかまわないわ。」

 その言葉に、キャロルは一瞬安心した。しかし、次の一言が彼女の胸を再び重くした。

「でも、覚えておきなさい。ここにいるということは、普通の人間であり続けることができなくなるということよ。」

 目を見開いた。予想していたよりも、ずっと冷たく、突き放すような響きだった。アムネシアは少しも感情を見せずに、淡々と続けた。

「私たちが生きる場所は、夢と現実の境界にある。そこには、もはや人間としての感覚も、形もないわ。」

 キャロルは一歩踏み出そうとしたが、足がすくんで動かない。アムネシアの言葉がまるで呪いのように胸に響き、その重さに飲み込まれそうだった。

「私達のように、なりたくはないでしょう?」

 アムネシアはその抽象的で曖昧な問いを投げかけると、じっと見つめた。仮面に覆われたその隙間を覗こうとしても、ただ闇が広がるばかりで何も見えない。だが、その迷いがなく鋭い声はまるで、問いかけではないことは感じられる。ここに来ることの危険をすでに知っている者が、後から来る者に警告を与えるようなものだ。

────なにを、言っているんだ?

 キャロルは何も言えないまま、ただアムネシアを見つめ返していた。呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が高鳴る。言葉が出てこない。そう、言うべき言葉が分からないのだ。先ほどの舞台での、鮮やかな向日葵色が鮮烈な赤色に染まっていく姿が脳裏をよぎる。いいや、あれはあくまで演技のはずだ。そんなまさか。

 アムネシアは静かに息をつき、また一歩歩き出した。長い間何も言わずに立ち尽くしていたキャロルの肩を、風のように過ぎ去っていく。その一瞬、キャロルの目の前に広がるのは、まるで遠い世界に繋がる扉のようなアムネシアの背中だった。

「あなたが本当に欲しいものを、よく考えてから決めなさい。」

 その言葉を最後に、アムネシアは舞台袖の奥へと消えていった。キャロルはその背中を見送りながら、冷たい空気が胸の中に広がるのを感じていた。言葉が喉に詰まっていて、どうしても何も言えなかった。

 その場に立ち尽くし、キャロルはただ静かに目を閉じた。耳の奥に、アムネシアの声がこだまする。やがて、その声の余韻が少しずつ薄れていく中で、キャロルの中で渦巻く感情が交錯していった。


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